メロンソーダ

湯灯し詩葉

第1話 メロンソーダ

 旧校舎の部室棟、305教室は今日もつつがなく、異世界だった。


 差し込んだ淡い茜色の光は部室全体を夕焼け色に染め、部屋中に散らばる細かな埃の粒子がキラキラと輝きを放ちながら木製の机や床の上を舞っている。まるで妖精が飛び回っているようだ。


 なんて、埃が妖精とはファンタジーが聞いて呆れる。だがそういうことなら、丸一年ほとんど掃除らしいことをしていないこの305教室は、どうやら妖精の住処らしい。


 普段授業を受ける教室より1まわりほど小さい教室。規則的に並べられた机の窓側、一番後ろ。そこが柚月の特等席だった。


 目の前の机には、すでに勝敗の決したオセロ盤が置かれている。モノトーンとは言い難い、八割方を黒の駒が占めるバランスの悪い色合い。


 鱗粉を散りばめられた教室に人の影はない。


 ピアノ線を張り詰めたようなしんと静まった空間。


 外界との干渉を一切断った完全障壁空間で、柚月は机に突っ伏していた。


 「暑い、空気が熱い……」


 若干の熱中症を訴えながら。


 冷房の設備がないこの部屋は、どんなに喚き散らそうが快適な室温を良しとしない。外が暑ければ暑い。寒ければ、内は尚の事、寒いのである。外界から遮蔽された空間といえど、シャットアウトするのはせいぜい雨風だけということだ。


 汗で身体に張り付くカッターシャツを無造作に引っ張りながら、外の方に目を見遣る。


 少しだけ開いた窓の隙間から入り込んだ生暖かい風が、透明なカーテンを揺らした。


 そのカーテン越しに見える夕日が五月山の影に消えることを惜しむかのように、自身が染めた雲に見え隠れしながら、爛々と輝いている。


 日中猛威を奮った太陽も、夕日となると一興の価値もあるものだ。高校の立地が高台にあるだけに、夕日が町を染め上げる様を一望できるのは、うちの生徒の特権といえる。


 遠くの方から部活動を終えた生徒らの和気あいあいと帰りを急ぐ声がした。


 ふと、時計の方に目を映すと、時刻は6時をとうに過ぎていた。下校時間だ。もうすぐチャイムが鳴る。


 柚月は一度大きな伸びをして、いそいそと帰り支度に取り掛かる。


 その時、チャイムの音と同時に、柚月の視界は真っ暗になった。


 「だーれだ」


 いたずらっぽい声。


 瞼に触れる細くしなやかな指。こんなに暑いというのに、その指先は心地よいほどに冷たい。


 声の主には見当がついていた。何故なら、この人にこの悪戯をされるのはこれで数十回目だからだ。


 「いいから、もう帰るよ。まき姉」


 後ろから回された両手を、雑にどける。 


 「ちぇ、つまんないの」


 彼女は不満げな顔をして軽くステップを踏むと、柚月の向かいの椅子に座った。

 

 「つまんないの」は彼女の口癖である。柚月といる時は特に多用する言葉だ。


 自分からちょっかいをかけておいてつまんないなんて自分勝手も甚だしいのだが、この人が言うと本当にお前はつまんないやつだ、と言われている気がして、柚月はその度に体を小さくする。


 まき姉、日暮真希は幼なじみである。学年にして、柚月の一つ上の三年生。学業成績は上の上。つまりはトップクラスで、おまけに容姿端麗でクラスどころか学校中の憧れの的という完璧超人。


 そして、柚月の初恋の人である。




 下校のチャイムが鳴ったと言うのに、彼女はオセロ盤の駒を弄びながら頬杖をついて、全く急ぐ気配がない。

 

 そんな彼女のマイペースさも、夕暮れの影をバックにすれば一枚絵のごとく優美さを醸し出すのだから、完璧超人と言うよりかは魔性の女と言った方が適当に思えてくる。


 柚月はあからさまにカバンを素早く背負い、まき姉に帰宅を急がせつつ、尋ねた。


 「随分遅かったね、忘れ物は?」

 「うん、忘れ物は回収したんだけどね……」

 

 取ってきた忘れ物らしい袋を目の前にちらつかせて見せる。


 だが、まき姉はいまいち冴えきらない表情をしていた。


 「どうしたの?」

 「いや実はね……」

  

 まき姉の頬が少し、赤く染まった気がしたのは斜陽のせいだろうか。

 

 たっぷりと間を空けて、まき姉は口を開いた。


 「さっき、私告白されちゃったんだよね」 

  

 柚月の肩からカバンがずり落ちる。


 一瞬間、自分の中で窓ガラスに亀裂が入ったような音がした。




 それから柚月は、しばらく柚月の元には帰ってこなかった。所謂、放心状態というやつである。


  「ゆずー。しっかりしてよー」

    

 真希が頬をつついて、ようやく柚月はハッとした。

   

 柚月が我に返った時には、既に自宅に向かって通学路を帰っている途中だった。


 「毎度のオーバーリアクションは面白いけど、毎回同じじゃ流石にお姉ちゃん飽きちゃいますよー」


 んっ、といつの間にか持っていてくれた柚月のカバンが差し出され、柚月は煮え切らない感じで受けとった。


 

 実は、まき姉が告白された、と聞くのはこれが初めてではなかった。

 

 実際に目の前でその現場を見たこともある。


 昼休みの体育館裏に、放課後の教室。屋上もあったか。


 そう頻繁に告白イベントなんぞ起こって堪るかとは思うのだけれど、そんな常識もまき姉には通用しない。


 ルックスもさることながら、相手が誰だろうと明るく接する社交性と、分け隔てなく振り撒く聖母マリアのように清らかな笑顔が、世の男子を勘違いさせる。


 そうして約月に一回のペースで同学年や上級生が、さらには他校の生徒までもが、まき姉を訪ねて来てはバッサリと一刀両断されるのであった。


 そしてさらに恐ろしいことに、まき姉本人に自覚は全くないらしい。


 前にこんなことを聞いたことがある。


 「まき姉はみんなに良い顔して疲れないの?」と。


 するとまき姉はキョトンとした顔で


 「疲れるも何も、私は普通に話してるだけだよ」


 と答える。そして 


 「ゆずにはあの私が『良い顔』に見えるんだ。だったらゆずも、まだまだ子供だね」


 そう言った。


 その言葉の意味はよく分からなかったけれど、その後に見せた笑顔は、確かにまき姉の悪戯っぽい笑顔だった。


 

 きっと彼女は、皆に平等なのだろう。相手が男でも女でも、年上でも年下でも。  


 だから男どもの勘繰りも、悶々とした想いもすべては杞憂。なぜなら彼女の言葉にもその笑顔にも、意味なんてないのだから。


 彼女への想いが実ることは、ない。


 無自覚は平気で人を傷付けるのだ。


 まあそれだけならまだ良かった。誰がいつ告白しようと、関知しなければよい話。そのはずだった。


 柚月にとって厄介なのは、後、まき姉は必ず柚月にその事を報告してくるということである。


 時にはクラスの委員長。時にはサッカー部のエース。数々の優良物件らしい男たちが撃沈していく様を、柚月は何度も聞かされた。


 そしてその度に、柚月の心臓はぐしゃぐしゃと音を立てて握り潰される。


 自分の恋など無意味だ、お前に可能性などないのだと、そう言われている気がした。


 「そういえばさ、さっきのオセロ勝負」

 「うん」

 「私が勝ったよね」


 まき姉はニヤニヤして柚月を覗きこむ。


 「そう、だね」


 柚月は目を逸らした。


 「じゃ、今日はメロンソーダね」


 そう言われた柚月はため息をつきながら、近くの自販機に歩みより、150円を流し込む。


 こんな暑さじゃ、自動販売機だって中で悲鳴をあげてそうだ。毎日立ち仕事ご苦労様です。


 柚月の思いが届いたかのように、自販機がメカニックな唸りを上げた。


 そしてライトが点灯したのを確認し、ボタンを押そうとした時、横からするりと手が伸びてきて先にボタンを押した。


 ガタンと音がして下口から出てきたのはやっぱりメロンソーダだった。そのペットボトルを手にとって、まき姉は無邪気に笑う。


 「さんきゅっ」


 弾けるような笑顔に、喉が詰まった。 

 

 このやり取りは、もう何回目だろうか。



 まき姉は「勝負」が好きだ。


 「勝負」と言っても、行うのはボードゲームやらの、いうなれば「遊び」の範疇である。


 その意図が果たしてただのストレス発散か、柚月が負ける姿を見て楽しんでいるのかは分からない。


 だが彼女は、柚月と会う時には必ず何かしらの勝負事を用意して来るのだ。


 そして柚月が負けた時には罰ゲームと称して、こうやってジュースを奢らされる。


 まるでヤクザか悪党の所業だ。

 

 柚月が財布の中身を見て軽く落胆していると、ぷしゅりと炭酸の抜ける音がした。


 見ると美味しそうに喉を鳴らし、冷たいメロンソーダを飲み進めるまき姉の姿が妙に艶かしい。


 じっとりと濡れた髪が頬に張り付き、水滴となった汗が彼女の首を伝い、胸元へと滑り落ちていく。


 「ぷはっ」


 彼女は爽やかに、息を吐いた。


 飲み口から離した唇は潤いを取り戻し、薄紅色が一層鮮やかだ。きっと今あの唇に触れれば、きっと柔らかくて、甘いのだろう。


 何だか見てはいけないものを見ている気がして、柚月はさりげなく視線を下にする。


 「本当にゆずは弱いなー」

 

 まき姉はまたからかうように言う。


 「まき姉が強すぎるんだよ」


 そう皮肉って、柚月は財布をカバンにしまった。

 

 約一年前、まき姉から最初に勝負を持ちかけられた時、柚月は「しめた」と思った。


 それまでもまき姉とはそれなりに話す間柄ではあった。だが幼なじみという事を除けば、まき姉と柚月とは歳も趣味も全く違う、本来交わることのない赤の他人。

 

 今思えば、自分はまき姉と何かしらの繋がりが欲しかったのかもしれない。


 しかし、いざ勝負が始まってみると、まあ勝てない。


 ただでさえハイスペックなまき姉は、遊びに関しても強かった。しかも本人は手を抜けない性格なのか、手加減は一切なく、常に本気。

 

 おかげで柚月は未だにまき姉から一勝も得られてはいなかった。

  

 それでも初めのうちは「たかが遊びだから」と割り切っていたのだが、どんな勝負をしても尽く負け、終いにじゃんけん三回勝負に全て負けた所で、柚月のプライドはものの見事にへし折られた。


 加えて、肝心のまき姉との仲もご覧の有り様で進展の色も見せない。


 正直な所、我慢の限界だった。


 だから柚月は、自身にある誓いを立てた。


 もしまき姉との勝負に勝てたなら、まき姉に告白しよう。と。


 そして潔くフラれよう。期間にして約10年間、拗らせた恋煩いを終わらせる。


 結果、まき姉との勝負をきっかけとして利用してしまうのは全くの不本意ではあったが、これは今まで誰よりも近くにいながら一歩踏み出す勇気の持てなかった自分へのケジメでもあった。

 

 

 それ以来、柚月はまき姉にどんな勝負を持ちかけられても対応出来るよう、地道に身体を鍛え、学校の勉強も今まで以上に集中して取り組んだ。


 そして今日の勝負内容は「オセロ」。


 ぬかりはなかった。必勝本も読み込んだ。けれど、負けた。


 その上に例の報告である。


 もう自身を遠くへ放り投げてしまいたい気分だった。


 どうして僕は今までオセロを極めて来なかったのだろう。勉強だけでなくてボードゲームにも興味を持って始めていればと思うのも後の祭り。


 柚月が肩を落とすのと一緒に、カバンに突っ込まれたオセロ盤が乾いた音を立てた。


 「いやでもまさか、あの山口君が告白してくるなんて、流石に驚いたよ。もちろん断ったけど」

 

 まき姉は思い出したように笑いながら話す。


 「あの背の高いバスケ部の人でしょ」

 「そうそう、今年同じ学級委員になって知り合ったばっかりだったんだけどねー」 

 

 笑い事なものか。その人の心を弄んだのはまき姉だというのに。


 先輩のまき姉への気持ちがどれだけだったかにせよ、まき姉への想いに知り合ったばかりだとかで分別をつけるのは好きではない。


 人を想う気持ちに時間は関係ない。それが数か月の付き合いだったとしても、幼なじみと呼ばれるほど長い関係だったとしても。


 綺麗事に聞こえるかもしれないが、そうじゃない。むしろこれはただの自虐。誰かの告白にまき姉が首を縦に振ってしまえば、今までどれだけ想い続けていようと、それは届かぬ想いになってしまう。


 日々痛感していることだ。 


 それに自身も年月に託けてふんぞり返っていられるほど、まき姉と親密になっているとは思えない。今だってまき姉と一緒に下校している事にすらも、内心嬉しさでスキップしそうなほどなのに。


 「まあでも、顔は意外と好みだったかもね」


 ほらまた、こんなまき姉の一言にも、柚月の心臓は一層脈を早める。


 「まき姉はなんで誰とも付き合わないの?」


 その質問に、まき姉は一瞬驚いたように柚月をまじまじと見た。


 だが柚月の言葉に一番驚いたのは柚月自身だった。


 自分でもどうして言ったのか分からない。ただまき姉の言葉を聞いた瞬間、口をついて出たのが、それだったのだ。


 まき姉は唸りながら、少々考えるように首を傾げる。


 答えを待つ時間が、いつもの何倍にも感じた。

 

 「うーん、好きな人がいるから?」

 「え」

 「冗談だよ」


 そう言って彼女はまた茶化すように笑う。


 まき姉のこの手の冗談は、何度聞いても慣れない。きっと自分は、まき姉の冗談に殺される。そう思うほどに、柚月の心臓はかつてないほど音を立てて騒がしかった。


 「じゃあなんなのさ」

 

 柚月の言葉に、まき姉はひとしきり笑った後、空を見上げて言った。


 「きっと、まだ私のままでいたいからじゃないかな」


 まき姉の何処か他人事のような言葉に、「はぁ……」と生返事しか出来なかったけれど、視線に誘導されるように見上げた空は先ほどまでの雲など一つもない、綺麗な茜空だった。


 「明日も晴れるね」

 

 彼女はぽつりと言った。 


 確かに、明日も晴れそうだ。


 「明日も暑いのは勘弁してほしいよ」

 「だね」


 くすくすと微笑む彼女は、夕日に照らされて、いつもより儚げに見えた。

 

 夕焼けの景色にぼんやりしていると、目の前に何かが差し出される。


 「はいっ」


 視線を下に戻すと、それはまき姉のメロンソーダだった。


 ふいを突かれ、「あぁ」と思わず受け取ったが、まき姉がどうしてメロンソーダを渡してきたか、柚月は分からなかった。


 さては空のペットボトルを捨てさせようと渡したんじゃないかと、中身を確認したが、ちゃんと中身は若干だが残っている。


 どういうことか、とまき姉に目配せすると、彼女は柚月に背を向けて帰り道を歩きだす。


 そして1、2歩あるいた所で、振り返り「あのね」と切り出した。   

  

 「私、メロンは嫌いなの」

 「は?」


 おちょくっているのだろうか。ついさっき人のお金でメロンソーダを買ったばかりの人の言う事じゃないだろう。

 

 柚月が反論の言葉を口にしようとすると、それを遮るように「でもね」と言葉を続ける。

 

 「メロンソーダは好き」

 

 そう言ったまき姉は少し笑っていたが、とても冗談を言っているようには見えなくて、柚月は黙って聞いていた。


 「普通に考えてればメロンの方が高価で人気もあるし、メロンソーダなんてほとんど着色料だから、貴方はどちらが欲しいですかなんて聞かれたら、そりゃあメロンを取っちゃうよね」

 

 「でも私は違う」


 一瞬、まき姉が真剣な表情になったような気がした。


 「価値なんて関係ない、私は好きな方を選ぶ。選びたいの」

 

 初夏の風がまき姉の頬を掠めた。乱れる髪を押さえながら、彼女は柚月を見つめて、口を開いた。


 「知らなかった? 私って、意外と我が儘なんだよ」

 

 そしてまき姉はニッと表情を崩した。


 その笑顔はまるで虫眼鏡で見た太陽のように眩しすぎて、柚月は少し、顔を背けたくなった。


 今、何かを伝えられたような気がする。でも柚月にその真意を探る術はない。


 「そんなこと、とうの昔に知ってる」


 柚月が返した言葉に、まき姉は「ばーか」と無邪気に笑って見せる。


 そして、また帰り道を歩きながら「ゆず」と呼び掛けて、


 「それ、飽きちゃったから、飲んで捨てといてー」 


 と、左手を上げて言った。


 

 本当にこの人は。我が儘で、無自覚で、つくづく掴みどころのない人だ。


 今だってこのメロンソーダが間接キスになることなんてちっとも意識してないくせに。


 きっと、自分が彼女を「まき姉」と呼んでいる限り、まき姉にとって自分は、ただの扱いやすい弟妹なのだろう。


 今の関係が不快だというと嘘になる。けれどやっぱり、彼女とは対等に話したい。憧れて、背中を追うんじゃなく、隣を歩ける存在になりたい。


 たとえそれが、無謀な夢物語だとしても。


 

 柚月はもう一度決心し、遠ざかるまき姉の背中を見ながら、メロンソーダを一気に飲み干した。


 「甘っ」

 

 メロンソーダは、やっぱり甘かった。

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メロンソーダ 湯灯し詩葉 @youta7777

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