5:対峙
大通りに飛び出し、僕は更に走り続けました。
坂道になり、大学の塀が延々と続きます。何かザワザワと音がしてきました。もしかしたら、塀の向こうにさっきの連中がまた居るのかもしれない。僕と並行に走っているのかもしれない。さっきのそれはもう助けてくれないかもしれない。でも、止まらない不安は苛立ちに変わります。
来るなら来いや!
関節を逆に捻じ曲げてぶっ壊してやる!
息も絶え絶えな上に、腕っぷしが、からっきしですが、人間こういう時は凶暴になるものだと思います。違いますかね? 汗が目に入り、拭うのも面倒なので顔を上げて汗の軌道を変えようとした時、塀の向こう、その遥か上に紫色の物が見えました。
それは巨大な、背中でしょうか? 首の後ろ辺りでしょうか? それとも――妄想は尽きません。
委員長が、ネッシーの写真をくさしたことがありました。こんな物を撮ってる暇があったら、走って行って水に飛び込んで、その目で見てみろよ、と。
僕はそれに対して、そんな無茶な事は出来ないってば、と反論しました。
何で? 世紀の発見、人類の夢でしょ? と委員長。
そりゃそうですが、きっと、そういう場にいたならば、そう、鯨が真下にいると判ってる海に素人が飛び込んで行けるでしょうか?
相手は凶暴ではないかもしれない。
でも、遥かに大きく、恐らく対峙した瞬間、『こちらのお約束は通じない世界に辺りは変わってしまう』のではないでしょうか。
そして、今、僕の頭上遥か上で蠢くそれも、僕達人間のサイズでは到底同じ道は歩めない世界に住んでいる気がします。僕はそのまま頭を屈めると、走り続けました。
大学の塀が終わり、来ないのがわかっていても車を確認し、点いていないのに信号を見てしまう自分が嫌になりつつ、僕は右に折れて再び住宅街に入ります。ここをしばらく行けば委員長の家です。さっきの足音の連中はうろついているのか、あのでかいのが来たらどうしようか、そんな事を考えながらも走り続けると、あっさりと僕は委員長の家に到着してしまいました。急に止まるのは辛いので、徐々に速度は落としましたが、汗は更にどっと吹き出し、鼓動は頭や体を大きく軋ませ、足はまだ走れるとばかりに痙攣しながら前に出ようとします。怪我をした小鹿のようなステップ、といえば聞こえは良いですが、つまりはガックンガックンとつんのめるように僕は委員長の家のインターホンを押し、反応が無いと判っていたので、すぐに玄関を押したり引いたり喘いだりしました。
で、やっぱりダメで、ふーふー言いながら家の外周をまわりますと、カーテンがひいてない小さな窓がありました。覗く前から判っていましたが、そこは階段横の窓。委員長が行き逢い神を目撃したあの窓だったのです。
委員長は寝ていました。
窓から見える和室に布団も敷かず、真っ青な顔で――いや正確に言えば血の気のまったくない、まるで死体みたいな僅かに硬直した感じで横たわっていました。髪はざらりと畳の上に拡がり、横に投げだされた手の指は鍵状に丸まり、目は薄目を開けており、口も半開きでした。
僕はじっと委員長を窓越しに見続けました。
動かないのは判っていました。
それでも何か、どこか、風でも地震でもいいから動いてくれないかと、まったく無駄な観察を続けていました。そして、いつの間にか泣いているのに気がつきました。
泣いても無駄なのです。
意味が無いのです。
でも、だからこそ。
僕の中で悲しみが荒れ狂い、心の下の方でじくじくと燻っていた物を勢いづかせました。たちまちそれは燃え上がり、爪先から脳天まで痺れるようなある感情が爆発的に起こり、そして、それがすぐに怒りとして認識されます。
僕はゆっくりと振り返りました。
一筋の光が、住宅地の向こう、ここから程近い場所に射しているのが判ります。
もう一度だけ振り返って委員長を目に焼き付けると、僕は走り出しました。住宅地を抜け、しばらく行くと委員長行きつけのスーパーが見えてきました。車が一台も停まっていない駐車場があり、奥には願い事を紙に書いて結ぶ鉄柵があり、そしてその向こうには、建売住宅に囲まれた元沼地――そこに光が射しているのです。
そして、僕が駐車場を走り抜けると『そいつ』が起き上がりました。
『そいつ』は眩しそうに手をかざすと光を掴み、そのまま捩じりあげました。光は千切れあっという間に蛍のように駐車場に拡がって行きます。その中を僕は鉄柵に近づいて行きます。
『そいつ』こと行き逢い神は僕の方を見ました。
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