2、 二度目の奇跡

 彼がここに赴任してきてから、一週間。その間私はずっと彼に語りかけ続けた。


「ねえ、貴方の名前は?」


「仲のいい友人はいますか?」


「外は今、どうなっていますか?」


「貴方は自由ですか?」


「貴方は幽霊を信じますか? 昨日読んだ本に出てきたの」


 もちろん、その言葉のいずれも彼には届いていない。それでも、彼がここにやって来た初日の奇跡を忘れるには、まだ日が浅すぎる。私は、もう一度彼が私に語りかけてくれることを信じて今日も語りかける。


「昨日は夢を見たのです。この部屋を飛び出して、宇宙船に乗る夢を。見たこともないような光景がいくつもあって、とても楽しかったわ」


 それは、今日もただの無駄話に終わるかと思った。けれども、声が聞こえてきた。


『やあ、キミは今日も相変わらず不毛なことをしているね』


 彼がやってきた日以来の声。それが嬉しくて、自然と口元が緩んでしまう。


「いいえ、不毛なんかじゃありません。こうして、貴方が話しかけてきてくれた。それだけで、私がこの一週間、貴方に語りかけてきた時間は報われました」


 そう、一度奇跡が起きたのだ。二度目の奇跡が起きたっておかしくはないし、この一週間、私はその二度目の奇跡をずっと願っていた。ほんの少しの希望があるだけで、この白い無機質な部屋の中での暮らしが以前よりもずっと色付いて見えた。


 モノクロだった生活が、彼が来た途端にカラフルになったのだ。


 それだけでも、私が彼と出会えたことに価値はあったのだと、胸を張って言える。彼が、私との出会いをどう感じているかはわからないけれども。


『これはただの暇潰しだ。だから、聞き流してくれていい』


 と、彼が言うので、その言葉に小さく頷く。


『キミは、宇宙に飛び出した人類を知っているかな?』


 宇宙に飛び出した人類。その意味を図りかねて、私は首を傾げる。宇宙に飛び出した人類とはつまり、宇宙飛行士のことを指すのだろうか。それとも、それ以外の意味?


『いや、飛び出したわけじゃないか。僕たちが追い出したんだ。きっと、キミはあちら側にいるべき人間なんだろう』


 と、彼は私の反応なんて気にもかけずに続ける。私は、それをただ聞き続ける。


『けれども、こうしてキミはここに閉じ込められてしまっている。これは、キミにとっては苦痛なんじゃないかな』


 苦痛……どうだろう。いや、確かにこの部屋の中にたったひとりで居続ける日々は孤独だった。たったひとり、誰との接触もできない生活はなによりも悲しかった。けれども、そんな日々を忘れさせるほどに、この一週間は私にとって楽しい日々だったのだ。たった一条いちじょうの希望が、ここでの十数年をかすませるほどに色鮮やかだった。だから、彼さえ隣にいてくれるのならば、ここでの生活は決して苦痛ではない。


『僕はね、ほんの少しだけ、キミのことが羨ましいんだ』


 彼が、私を?


 その言葉の真意がわからない。だって、私はこの狭い部屋の中からどこにも行くことができないのだから。けれども彼は向こう側にいて、どこにだって行くことができる。自由なのは、間違いなく彼のほうだ。それなのに、彼は私を羨ましいと言う。私は彼のほうが羨ましいと思うのだけれど。


 彼は、相変わらず私の目は見ない。


『愛は、いいものかい?』


 最後にそう訊ねると、彼は離れていってしまった。


 彼の言葉に答えたかったのだけれども、私には“愛”というものがいったいなんなのかはわからなかった。

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