4、 こちら側には届かない

 それからも、僕はときおり牢獄の中の少女に語りかけた。


 その中で、人類が二つに分かれたことについてもいくらか話した。小さな頃からこの牢獄に入れられていた少女は、そのことを知らないはずだ。けれども、それを彼女に教えてはいけない、という規則はなかった。まあ、彼女にそれを教えてはいけないという規則なんて作らなくても、普通はわざわざ彼女にそんなことを教えないのだろうけど。


 ならば、なぜ僕は彼女にそれを教えたのだろうか。


 わからない。けれども、そうすることが正しいのだ、となんとなく思ったのだ。まあ、ただの気まぐれだ。その事実を知って、彼女が傷付こうが、悲しもうが、どうだっていい。ただ、この地球に残された、唯一の愛を知る人類である彼女は、それくらいのことを知っていたっていいのだとは思う。


「やあ、今日も健康そうでなにより」


 あいさつ代わりにそう言うと、少女は僕の方を向き、その唇の両端を持ち上げた。これまでに、なんども見てきたその表情の意味を、僕は最近までは知らなかったけれども、ようやく知ることができた。


 どうやら、彼女がよく作るこの表情は、笑顔というものなのだという。


 彼女があまりにも毎日のようにその表情を見せるものだから、その意味を調べたくなったのだ。調べてみれば、その表情の意味はすぐにわかった。かつての映画なんかの映像にも多く記録されていて、昔はそう珍しくもない表情だったらしい。今の人類はそんな表情は浮かべないけれども、それは愛を見失ったことと関係しているのかもしれない。


 笑顔は、幸せな時や楽しいとき、嬉しいときなんかに見せる表情なのだという。たしかに、そういった感情を感じ取りにくくなった今の人類には、無縁のものなのかもしれない。ただ、苦しいときや悲しいときに浮かべる笑顔というものもあるらしく、結局のところ、笑顔というものの本質というか、正体はうまくつかめないままだった。


 ただ嬉しくて笑うだけではなく、嘲笑ちょうしょう冷笑れいしょう失笑しっしょう微笑びしょう大笑たいしょう、等々。とにかく、いろいろな種類の笑いというものがあるようだ。


 嬉しくても悲しくても笑うのならば、いつその表情を作ればいいのか、わからないじゃないか。けれどもまあ、それはつまりいつ作ってもいい、ということなのだろう。


 だから、僕に向かって笑みを浮かべる少女に対して、僕も笑顔を作ってみた。唇の両端を持ち上げて、目を細める。映像で見たものの真似にすぎない、模造品もぞうひんの笑み。上手にできているかはわからないけれども、それでもこれが僕なりの笑顔だ。


 僕のその顔を見て、少女は大きく目を見開いた。


 それは、初めて見た彼女の表情だった。けれども、その表情の意味は知っている。笑顔というものを調べるときに、他にもいろいろな表情があるということを知った。その中に見つけた表情のひとつが、今の彼女の表情だ。


 彼女のその表情は、驚いている顔だ。


 彼女がいったい何に驚いているのかがわからなくて、僕は首を傾げる。それを見て、彼女は涙を流した。さっきまでは驚いていた彼女が、今度は涙を流したのを見て、今度は僕が驚く。まあ、彼女のように目を見開くような大きな表情は作っていないけれども。僕たち愛を見失った人類は、表情の変化に乏しい。大きな表情を作るのは苦手だ。


 少女は涙を流しながら、笑っている。

 やっぱり、僕には笑うタイミングというものはよくわからない。


「キミはどうして泣いているんだ?」


 そう訊ねると、少女はパクパクと口を動かした。けれども、その声はこちら側には届かない。


「ああ、そうだったね。キミの声はこちらには聞こえないんだった」


 僕は今、初めて彼女の声を聞きたいと思っている。彼女がいったいなにを思って微笑み、そして涙を流しているのか。


 彼女の声を聞く方法が無いわけではない。この牢獄を開けば、簡単に彼女の声を聞くことができる。けれども、そうしないのはなぜなのだろうか。自分でもそれがわからない。いや、きっとそれは、僕の仕事が彼女の管理であって、彼女の話を聞くことではないからだ。この檻から彼女を出してしまうということは、僕が仕事を放棄ほうきするということ。他者との繋がりが希薄きはくなこの世界で、個人に与えられた役割は、非常に大きな割合を占める。いわば、その個人のアイデンティティそのものともいえるものだ。


 だから、僕は彼女をこの檻から出すことができないのだ。彼女をここから出すということは、僕自身を否定することになる。


「なにも言わなくていい。キミの声は届かない。だから、僕が一方的に話すだけだ」


 ただ、それでもなにかを懸命にこちらに伝えようとする彼女のその姿から、なぜか目が離せない。


 彼女はいったいなにを伝えようとしているのだろうか。

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