後、彼と往く。

しえず

後、彼と往く。

 かくん、と視界が揺れた。私は、膝裏に感じる体温とこそばゆい毛並みを思い、彼に向かって軽く窘める。くわっ。アヒルのような声が楽しそうに微笑んだ。やめる気は毛頭ないらしい。

 ふたたび、かくん。空が揺れる。もう一度、かくん。森が揺れる。三度目だね、かくん。回を増すごとに力が強くなってきたせいか、思いがけず足がもつれた。地面が押し迫るものの、両手に持った籠いっぱいの花を捨てるわけにもいかない。諦めた心地で、灰色の地面をぼんやり見つめていると、腹部に大きな衝撃があった。

「けふっ」

 軽く眩暈がした。それでも、地面よりは数センチ上で止まっている。暖かく毛並みのいいクッションのような彼が、助けようとして突進してきたようだ。耳の近くから、くわっ、くわっ、と焦ったように何度も呼びかけてくる声。

「もう、大丈夫だよ」

 四つの目がぱちぱちと何度も瞬きをしてこちらを睨んでくる。顔がいかついから誤解を受けやすいそれ。本当は辛そうな声を出した私の様子を心配した彼なりの表現なのだ。少しぼんやりしていると、こつんと額にぶつかってくる。痛くないように加減されたので、返事がないことを気にしたのだろう。彼の四つの目と目があった。

「ははは、心配なら今度からごっつんこは禁止だね」

 くぅ。反論しようと口を開いて、半開きのままそっと閉じられる。頭から地面に当たってしまうことは、彼も理解していたらしい。基本は、頭のいい子なのだ。

「とりあえず、あっちに落ちちゃった花を拾ってくれる?」

 笑いながら彼の頭を撫でる。私の手の動きに合わせて目が細められてご機嫌な声がくるくると聞こえてきた。まだまだ子供なのだ。じゃあ、いこうか。そう言って手を話すと、彼は元気よく返事をした。散らばった花が手元に集まってくる。いくつか折れたり潰れたりしている花もあるが、予定よりも多く持ってきたおかげで問題なさそうだ。籠にもう一度放り込んで持ち上げる。すると、今度は控えめにとんとんと叩かれた。

 くわっ。彼の伸びかけた牙がよく見える。そろそろ歯磨きしようかな。口を閉じた彼は、目をぱちりと瞬かせて自身の背中に取り付けたベルトと私の顔を見比べた。そして、もう一度鳴く。

「持ちたいの?」

 尻尾が地面を叩いて、飛べない翼がぱたぱたと動いた。


 あと少し。そう口にした瞬間、隣を歩いていた彼が走り出した。走っちゃダメだよ、と言ったところで止まるはずもなく彼は花を落としながら飛び跳ねていった。方々に落とされた花を一つずつ拾い上げ、砂を払う。結局、半分以上が私の手元に戻ってきたところで、彼は背中が軽くなったことに気づいたらしい。

 きゅう、くう。くるくる回って背中を見ようと動くが、彼の短い首では難しい。

「大丈夫、ちゃんと私が持ってるよ」

 花を持ち上げてみせると、ぽかんと口を開けた。理解していない様子で首をかしげる。思わずこぼれた笑みに、彼は何かしら納得したようだ。

「じゃ、お花飾ろうか」

 くわっ。素直に足を揃えて座り、尻尾を巻き付ける彼。私は、背中に固定した籠から残った綺麗な花を持つ。赤、白、黄色。家の近くに自生していた花。小さい花が鈴なりに連なっていて、風が吹くたびにベルのような花弁が今にも鳴り出しそうに震える。転がっていたグラスに水を入れて切った花を丁寧に生ける。いつものように、羽箒のような彼の尻尾を使って軽く叩けば、グラスも綺麗になり私の納得のいく出来に仕上がった。ぱたぱたと埃を落とす尻尾を横目に、ならしたところへグラスを置けば、立派な花瓶になる。

「できた」

 きゅわ。つんつんと袖を引っ張られ、彼を振りかえる。口に咥えられた花を見て、私は言葉を失った。くるくると回して私へ差し出される、青い大輪の花。私の顔と花瓶の花を交互に見て、首を傾げている。どうやら、これをどうするのかと聞きたいらしい。

「……あれを作るだけだよ」

 それならいいと言わんばかりに、彼は口の中の花を私の手へ押しつけた。そして、少し濡れた鼻先で私の手をつつく。はいはい、もうちょっと待っててね。柔らかい毛並を堪能して、その花を手に取る。懐から取り出した噛み痕のたくさんついたボウルを、石の輪の真ん中へ落ちつけて、水を張った。そこへ、両手で揉み崩しながら花を落とす。花びらが水面へ触れる瞬間、ただの透明だった水が深い青へと変わる。ついでかぐわしい匂いがすうっと立ち上った。

「だーめ」

 ふんふんと鼻を鳴らしてボウルへ首を突っ込もうとした彼の目を覆う。抗議する彼に対して、努めて冷静に声を出した。

「これは、君のじゃなくて。ここに眠ってる友達あのこのだから」

 一人と一頭が揃って見上げれば、苔むした灰色の巨大な影。小山のように見えるそれは、墓標だ。大きな兜のような頭蓋骨の隙間から野兎の顔が覗く。半分崩れかけて地面に深く突き刺さった肋骨は、一本一本の隙間から草が伸び、羽虫が飛ぶ。誰かの、何かの生きる場所になった大きな私の友達の最期の姿だった。

 ざあ、と風が通り抜ける。目隠しを強引に外して、彼はじっとボウルを見つめた。理解したのか、していないのか。それでも、先ほどとは違ってすぐに飛び出さない。

「帰ったら、また同じの作ってあげる」

 くわっ。付け足すと嬉しそうな声で私を見る。彼は、あの子とよく似た顔立ちで、あの子とよく似た材質の翼を震わせ、あの子とよく似た尻尾を振った。



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