EP:1 わたしはここにいるよ/I'm still Here


 どこまでも続く暗闇の中で、親友の背中を追いかけていた。


 走っても走っても追いつかず、いつのまにか距離が離れていってしまう。彼方へと去りゆく彼女の背中を、舞華はただひたすらに、追いかけていた。


 もう二度と、彼女を見失ってはいけない。

 見失えば最後、沢渡永理さわたりえりには永遠に会えないと知っていたから。


「永理、待ってよ、永理……!」


 舞華の呼びかけが届いたのか、その場に永理は立ち止った。

 しかし、永理はうつむいたたまま動かない。


「舞華――どうして」

 

 うつむいたまま、永理はゆっくりと振り向いた。

 顔を上げた親友の顔は、絶望と憎悪の色に染められていて。


「どうして、私を置いていったの?」


 次の瞬間、永理の顔が爬虫類の顔に変わっていた。しかし蛇やトカゲとは全く違う、残忍な知性を備えた琥珀色の双眸、唇から覗く鋭い牙――肉食恐竜の表情に。

 

「――永理っ!」

 

 手を伸ばした先に、自分の部屋の天井があった。

 枕元から連続で響く電子音が、今日という日の訪れを告げていた。


 最悪だ――と悪態を吐きながら、蔵井戸舞花くらいどまいかは布団から身を起こした。心臓がばくばくと早鐘を打っており、寝間着のジャージは寝汗でぐっしょりと濡れている。意識的に深呼吸を繰り返し、ようやく平静さを取り戻した


 スマートフォンを叩きつけるように目覚ましを止め、苛立ちながら目を擦る。液晶画面に表示される時刻は午前6時30分。遮光カーテンの隙間から朝日が漏れ、薄暗い部屋に少しばかりの光が差し込んでいた。


 ぐっすりと寝られた実感がないにも関わらず、目はばっちりと冴えている。このまま二度寝をする気にもなれないので、舞花は重い体をベッドから起こした。


 もはや悪夢を見ることに驚きはしなかった。しかし慣れることはないだろう――とぼんやりとした思考のまま制服に着替えると、階段を降り居間へと移動した。

 

「おはよう舞華。今日は随分早いじゃない。あんまり寝られなかった?」


 自室から居間に移動すると、既に母親が朝食の準備を始めていた。台所からトーストの香ばしい匂いが漂ってきて、朝の空きっ腹をくすぐってくる。


「うん……でも毎度のことだし。まだ寝れたほうだと思う」

「あんまりひどいんだったらまた先生のとこ行くのよ? 最近はお薬も飲んでないんでしょ? カウンセリングもしばらく行ってないみたいだし」

「大丈夫だって。前よりかはひどくないし、先生もあんまり薬とか飲むよりか、気分転換できるものを探せって言ってたじゃん」

  

 朝から陽気な母と、テレビを見ながらトーストを口に運ぶ父。スマホをいじりながらコーヒーを飲んでいる中学二年生の弟、創也そうや。自分でも嫌気が刺すくらい、平凡な家族団欒の風景だった。しかし、この日常的な風景を受け入れられるようになるまで、舞花は二年以上の時間を必要とした。


 ――あの事件から、今日で二年の月日が経つ。


 自分だけが生き残ってしまったことの後悔。

 いくら時間が経ったとしても、付き纏った罪悪感は剥がれてくれる気がしない。


「ほら、舞華。はやく食べないと冷めちゃうから」

「別に急かさなくったっていいじゃん」


 母の声に、舞華もトーストに手を伸ばす。

 すると、朝のテレビ番組が次のニュースへと切り替わる。


「では、次のニュースです。2019年6月11日に発生した東京時空渦災害――通称『ロスト・トーキョー』から、はや二年が経過しました。現在、事件の影響化にある『アノマリー・ポイント』は国連による封鎖状態にあり、内部調査は未だ進展の見通しが立っておりません。事件は一向に解決の余地を見せず、行方不明者の生死は未だ不明と、被害者の家族や関係者たちの不安は募るばかりの一途です。ただいま新宿第9隔離地区から中継が繋がってます――」


 ニュースが切り替わった途端、食卓の会話が途切れるのが分かった。気まずそうな空気が食卓に充満し、舞華から敢えて目を背けているように見える。母は黙ってテレビのリモコンを手に取ると、別の番組にチャンネルを切り替えた。


「なんか、ごめん」


 気まずさの原因が舞花にあったのは明白だった。

 重くなった雰囲気に耐えかねて、舞華はばつの悪い顔で呟いた。


「謝ることないじゃない。どうせニュース見ても真新しい情報は無いんだし、見たくないものは見なくていいんだから、ねぇお父さん」

 

 母に話を振られた父は少し考えたような顔をして、こくりと頷いた。


「何か進展があったらすぐに連絡が来るだろう。マスコミの奴らときたら、あれこれ詮索するばかりで、ろくな情報も寄こしやしない。どうせ専門家気どりのコメンテーターが、ありしない想像の話ばかりして、結局何もつかめないばかりだろ」


 最近は事件の真新しさも鳴りを潜めたのか、テレビでも話題をあまり耳にしなくなったと思いきや、毎年この時期になるとニュース番組や新聞などのマスメディアが、再び事件のことを取り上げ始めるようになっていた。


 東京時空渦災害――通称『ロスト・トーキョー』。それが二年前、舞花が巻き込まれた事件に付けられた呼び名だった。2019年6月11日午後17時11分。局所的に発生した地震を皮切りに、東京二十三区の半径20㎞圏内に、遥か太古の地球――遡ること中生代の自然環境が発生するという未曽有の事態に、当時の日本は大混乱に陥った。


 都市部には鬱蒼としたシダやソテツなどの植物が所狭しと生え茂り、さらに驚くべきは絶滅したはずの先史動物――恐竜をはじめとした古代生物までもが、環境変化が観測された地域で目撃されていた。植物食から肉食の獣脚類、ニワトリサイズのものからビルほどの背丈を持つものまで、果たして何頭が生息しているのか、もはや研究者でも把握し切れていない状態だった。コンクリートと古植物に覆われた箱庭に、遥か一億六千五百万年前の地球環境が再現されていた。


 人間はその瞬間、霊長の頂点から、その座を引きずり落とされたのだった。


 突然の環境変化に東京都は首都機能を喪失。代わりに打ち建てられた臨時政府は即座に非常事態宣言を発令。先史時代の自然環境が2019年の東京都に発生した不可解な現象を、研究者たちは『局所的なワームホール発生による時空間転移現象』と仮定し、『時空渦災害ディメンショナル・ハザード』と呼称。国連直属にて組織された災害調査機関『U.N.B.E.Rアンバー』の主導の元で調査が進められているが、未だに真相は明らかになっていない。


 一説によると、某大学の研究施設でワームホールの生成実験が行われただとか、事件とほぼ同時刻にNASAによる大規模な実験が実施されていただとか、また地震兵器による影響で磁場が歪んだ影響だとか、半ばオカルト紛いな噂が取り沙汰されているが、どれも核心を突く話には至らなかった。


 国連は環境変化が観測された地域を『アノマリー・ポイント』と呼称。地域全体を囲うように分厚いコンクリート製の壁を建設し、事態の封じ込め措置を図った。生存者が内部にいる可能性があるにも関わらず、隔離壁の建設は強硬された。多くの事件関係者からの反発をほとんど無視したような状況で完成した隔離壁は、事件からおよそ二年が経過した後も、東京都の真ん中に悠然とそびえ立っている。


 舞華が事件に巻き込まれたのは下校時の夕方だった。当時、新宿区にある私立中学校に通っていた舞華は、幼馴染の沢渡永理さわたりえりと共に、時空渦災害の発生に巻き込まれた。


 そして、舞華は奇跡的に領域内から助け出された。

 しかし永理はいまだ、領域内から戻っていない。二年前のあの時から、舞華の親友は、あの場所、一億六千五百万年前の世界に取り残されたままだった。


 助けを求め手を伸ばす永理の声が、今も鼓膜にこびり付いて剥がれない。事件から二年が経過したにも関わらず、舞華はほぼ毎夜のごとく悪夢にうなされていた。親友を見捨てて逃げた自分に、安心して眠ることなんて許されないというように、呪いにも似た罪悪感が、安らかな夜を舞華から奪い取っていく。


「でもさ姉ちゃん、最近変わったよな」


 創也が舞華の方を見て、何気無しに言う。

 舞華の表情がぴたり、と固まる。


「前はなんというか、気が抜けちゃったというか――何にも興味無さげな感じだったけど、最近は登山行ったりとかさ、週末は出かけてばっかじゃんか」


「なによ、訳知りって顔して」

「そりゃ毎日顔合わせてりゃな。あれだけ凹んでた人間が、いきなりアクティブになるなんて。別にどうでもいいけど」

 

 まるで興味なさげな風を装い、舞華に目を合わせずに創也はつぶやく。


「陸上部を辞めてからどうしちゃったのかなと思ってたんだけど……インカレのサークル入ったんでしょ? 大学生と一緒に登山してるんだって。週末もどこかに登りに行くんでしょ」


 台所で珈琲を淹れている母は、どこか嬉しそうな口調だった。


「うん、群馬の草津に連れてってもらう。泊まりがけでがっつり登るつもり」

「やっぱり体を動かす趣味が一番良いって言うもんね。私たちも久しぶりに、どこかアウトドアにでも行ってみようかしら。ねえお父さん」


 明るい声で話を振られた父は僅かに微笑むと、「まぁ、家でゲームしてるばかりよりかはよっぽどいいな」と創也のほうに軽く目配せした。


 創也はばつの悪そうな顔で、


「んだよー。ゲームの何が悪いんってんだ。俺だってそこそこ運動くらいしてるさ。家でも出来る筋トレとか、最近色々あるんだって」


 創也の返しにたわいもない談笑が漏れる。

 舞華も合わせて微笑みながら「行ってくる」と告げ、学校に向かった。


 自宅から自転車で15分ほど漕ぐと、舞華の通う高校が見えてくる。

 舞華の住む埼玉県内ではそこそこの偏差値で、生徒の自主性を重んじる比較的自由な校風が人気な高校だった。


 東京時空渦災害の影響で、首都圏から人口は激減した。首都機能が正体不明の災害により壊滅的な被害を受けたとなれば、それは国家にとって致命的な危機と言っても過言では無い。首都圏どころ日本各地から国外に脱出する人々が続出し、当時はあわや国家存亡の危機と噂された。東京と埼玉県の境にあるここ、さいたま市も例に漏れず、住宅街から人の姿は消え、駅前はゴーストタウンのように静まり返っていた。


 しかし二年の時が経ち、時空化災害の影響が東京都外に及ばない事が分かってきてからは、街はかつての賑わいを取り戻し始めた。舞華が入学した高校も同様で、かつては5つあったクラス数は3つまで減ってしまったものの、入学希望者数は少しずつ回復の兆しを見せているらしい。


 席に座ると、隣の席の小畠おばたつぐみがいかにも焦りげな風にこっちを見つめてくる。


「おはよ」

「おはよ舞華。あのさ、一限の宿題やった? あたし昨日やるの忘れて寝ちゃってさ。ついさっき気付いてマジでやばいっていうか……」

「忘れたんじゃなくて、ハナからやる気ないんでしょ。ほらこれ。写すならバレないように適当に数式とかいじって」


 舞華はやれやれというように溜息を吐き、鞄から取り出したノートを差し出す。


「さんきゅ舞華! 持つべきものは秀才の友だ!」


 お昼にジュースおごる!と言い残し、さっそくつぐみは借りたノートを写し始めた。今年の四月に知り合ってからというもの、はや二か月。間の抜けているものの、あっけらかんとしたつぐみの性格には舞華も元気づけられることが多い。

 

 二年前の事件の後、なんとか復学は出来たものの、問題は舞華の精神状態にあった。友人を領域内に置いて生き延びた事への後悔と自責の念。リストカットや服薬による自殺未遂は数知れず、どれも踏み切れない自分に更に嫌悪感が募った。親友を見捨てて生き延びた自分なんか、死んだほうがマシだ――そう思い続けた舞華が再びこうして学校に通えるようになったのは、ひとえに家族の懸命な応援と、ある一人の少年の支えがあってのものだった。


 そして、新しく通い始めた高校で出来た初めての友人。

 今でも、ふとした時に自責の念がフラッシュバックする時がある。

 そんな時こそ隣の席に座るつぐみの笑顔に、救われることは多かった。


 始業のチャイムが鳴ると、舞華は真面目な風を全面に装って授業を受けはじめた。きちんと黒板の文字をノートに写し、教師の質問に的確に応える。出すぎた挙手はせず、必要な分だけ解答する。それだけしていれば教師というものは、「真面目で、物静かな生徒」という印象を抱いてくれるものだ。


 テストである程度の点数を取っており、とりわけ問題が無い生徒には特に関心も持たれない。そんな適当な校風が舞華にはちょうどよかった。


 放課後、つぐみに別れを告げると、舞華は帰路につくため自転車置き場に急いだ。

 自分のロードバイクに跨ろうとすると、舞華の背中越しに声をかけられる。


「や、舞ちゃん」


 自分のことを『舞ちゃん』だなんて気さくに呼ぶのは、一人しかいない。

 はぁ、と溜息交じりで振り返ると、ブレザー姿の同級生――新条陸斗しんじょうりくとがそこにいた。


「なに、何か用」


 舞華はわざと陸斗を避けるように、駐輪場からロードバイクを押す。


「特に用ってわけじゃ……調子はどう?」


 178センチの長身、運動部らしい筋肉質かつスマートな体付き。整った顔立ちながら軽薄さを感じさせない柔和な表情は、女子からの注目の的だ。


「何よ、何かあるんだったら言いなよ」


 舞華は訝しげに眉をひそめた。

 自分から話しかけておきながら、陸斗は何かを言い淀んでいた。


「いや……あれから、もう二年だなって思って」


 ぴくり、と舞華の体が強張った。


 舞華と永理が東京時空渦災害に巻き込まれた日――『ロスト・トーキョー』から今日でまる二年。今日、この日を特別と思っているのは、舞華だけではなかった。


「永理ちゃんがいなくなってもう二年も経つだなんて、未だに信じられなくてさ。ほら……よくこうやって、喋りながら帰ったろ。なんか、懐かしくなって」


 寂しげに呟く陸斗の声に、かつての記憶が思い起こされる。

 三人で一緒に帰路についた放課後。舞華の隣で、陸斗と手を取り合いながらけらけらと笑う永理の声が、頭の裏側で再生される。


 永理を失い、心に深い傷を負ったのは舞華だけではない。

 当時、永理と付き合い始めたばかりだった陸斗も同じだった。


「そう、だね」


 舞華はなおも、陸斗に目を合わせずに自転車を押し続けた。

 

 思い返せば、永理の周りにはいつも誰かが集まっていた。常に明るい彼女の周りは常ににぎやかで、そんな永理の魅力に惹かれたのが、新条陸斗だった。


 クラスのムードメーカーと爽やかなスポーツマン。お似合いカップルとして周囲に囃し立てられながらも、本人たち同士はいたって真面目に、中学二年生らしい年ごろの恋愛模様に花を咲かせていた。


 永理の親友という舞華の立場からしてみても、陸斗の裏表なく、人当りの良い性格には好感を抱いていた。ふたりが喧嘩をした時には、舞華が仲介役として、永理の愚痴を聞き、陸斗の言い分を聞いたりもした。舞華と陸斗のふたりが、互いに気心の知れた友人になるにはさほど大きな時間がかからなかった。

 

 いつも放課後、三人で並んで下らない事を喋り倒していた覚えがある。永理、舞華、そして陸斗。永理と陸斗が付き合い始めてからも変わらない三人の関係は、何にも代えがたく、決して誰ひとり欠けては成り立たない空間だった――にも関わらず、運命は無慈悲にも、彼らの青春時代から、永理を奪っていった。


「で、何か進展は?」


 無関心を装った口調で、舞華は言う。


「なし――そっちは?って、何かあれば真っ先に言いに来るよな。君の事だから」


 事件以降、東京時空渦災害についての情報収集を欠かすことはなかった。二人にとってそれが共通の話題であり、『永理が生きている』という可能性が未だにゼロではないという部分が、かすかな希望として二人の拠り所となっていたからだ。


 しかしいつまで経っても、領域内に取り残された被害者たちの情報は出ずじまいだった。政府もマスコミも、誰も頼りにならないのならば、自分たちが真実を突き止めるしかない――永理の生存を信じるがあまり、新聞記事からインターネットの下らない書き込みまで、情報があれば何でも飛びついた。


 あらゆる私生活の時間を投じて、永理の行方を探った。

 しかし、そのほぼ全てが徒労と化した。


「国連の調査隊も、まだ何も掴めてないみたいだ。あれから二年も経って、ポイント内部の構造もだいぶ分かってきたのに、不思議と生存者の情報だけが入ってこない。連中は何か情報を隠してる――そういう噂も経ち始めている」


 時空渦災害の影響か――巨大壁で隔離された《アノマリー・ポイント》の内部では特殊な磁場の影響で、あらゆる通信機器が無効化される。例え誰か生存者が居たとしても内部からの通信は期待できない。加えてポイント内部に定期的に派遣されている調査機関からの報告にも、生存者についての言及はほとんどない。


「結局、侵域者シーカー頼りってことでしょ」


 舞華は相も変わらず、陸斗に目を合わせない。


U.N.B.E.Rアンバーの連中より頼りになることは確かだね。少なくとも、ポイント内部の情報が欲しいなら、彼らにコンタクトを取ったほうが確実だ」


 正攻法がダメなら、後はイレギュラーな方法を取るしかない。


 隔離壁で外部から遮断されているアノマリー・ポイントだが、国連が管理しているゲート以外に、どうやら内部へ侵入できる経路があることが噂されている。そこを辿ってか、領域内部に生息している先史生物の爪や牙、あるいは生きた標本を狙った密猟者――通称、侵域者シーカーによる不法侵入が後を絶たないという。


 昔から、保存状態の良い化石や骨格標本はセレブやコレクターの間でかなりの高額で取引されている。それが実際に生きた古代生物の標本であれば、喉から手を出して欲しがる金持ちは沢山いる。実際のところ一攫千金も夢ではない。シーカーたちは危険を承知で、領域内への侵入を繰り返す。


「だったら結局、前と変わらないじゃん」

「……まぁ、そうなるね」

「大金積んでシーカーに依頼しても、結局収穫はゼロだったじゃん。つまり私たちも、他の被害者関係者たちも、結局奴らにぼったくれてるだけだった。きっとこれからも、あいつらはそうやって、カモから大金を巻き上げ続けるに違いないでしょ」


 舞華たちはかつて、インターネットの裏オークションサイトを通じ、シーカーの仲介業者とコンタクトを取ったことがある。そして当時中学三年生の身分では到底払えないような金額を捻出し、シーカー達に領域内の探索を依頼したのだった。


 皮肉にもそれは、シーカー達を取り纏める仲介業者の商売方法のひとつだった。領域内に取り残された被害者の関係者たちは、生存者を探す為なら藁をもつかむ思いだった。法外な金額を払ってでも、シーカーに領域内部の探索を依頼する人々は後を絶たない。中には政財界の要人が依頼をかけるケースもあるようで、シーカーのバックに巨大な支援者パトロンが居る事は明らかだった。


 しかし、幾らお金を積んだとしても、永理に関する情報はひとつとして得られなかった。繰り返し依頼ができるような資金が中学生の子供に出せるはずもなく、次第に、舞華と陸斗の間で諦めのような雰囲気が漂い始めた。


 そのうち、二人の会話から、永理に関する事柄が少しずつ減っていった。敢えて永理のことを話題に出さないことで、「現在いま」の生活に集中する――それが互いの人生を取り戻す為には良いように思えてきたからだ。


 だからこうして二人で、会話するのも久しぶりだった。

 二人でいるだけで、どうしても永理のことを思い出してしまう。なので舞華は自分から陸斗と会うことを避けていた。陸斗もそんな舞華の気持ちを察していたのか、ふたりの間には微妙な距離が生じていた。


「……でもよかった。その調子なら大丈夫そうだ。最近会ってなかったから心配だったんだ。君が、その――」

「――『自分で自分を責めてるんじゃないか』ってこと?」


 舞華は下から見上げるようにして、陸斗を睨み付ける。


「さすがにおせっかいだよな。ごめん」


 陸斗は申し訳なさそうに睫毛を伏せた。


 舞華が領域から生還した後、心身ともに憔悴しきった彼女が生活に復帰できるよう支えてくれたのは、他でもない陸斗だった。


 付きあい立ての彼女だった永理が領域内に取り残されているのにも関わらず、陸斗は舞華に対する心遣いを片時も忘れることはなかった。舞華が入院していた病院にたびたび見舞いに通い、勉強に遅れることのないよう、課題を届けてくれたりもした。退院後に再び学校に通えるようになったのは、紛れもなく陸斗のおかげだ。


 しかし、二人の距離がそれ以上縮まることはなかった。


 舞華と陸斗。ふたりの関係は永理の存在あってのことだ。ふたりの関係が無くなってしまえば、本当に永理の事を忘れてしまう気がした。だからお互いに、付かず離れずの関係を続けている。


「あんたにアレほど言われたでしょ。『自分を責めるのはやめて、自分の人生を生きなきゃダメだ』――って。確かにあんたには色々世話になったし、感謝もしてる。けど私は私なりに、なんとかやっていけてるから」


 本来であれば、陸斗は恵まれた人生を送るべき人間だ。容姿端麗、成績優秀、かつ運動神経抜群で、中学時代に所属していたサッカー部では期待のホープとされていた。高校に入った暁には全国選抜のメンバー候補として注目の的だったにも関わらず、彼はその道を選ばず、永理を救う為に、貴重な青春時代のひと時を犠牲にした。


 本当は自分のことも、永理のことさえも忘れて、自分の人生を生きてほしい――というのが、舞華の本音だった。


「だよね。余計なお世話だった。僕も見習わなくちゃ、だ」 

「またサッカー始めたんでしょ。部活に顔出してるって、つぐみから聞いた」

「まぁね。ちょっとは出るようにしてる。さすがに本調子とまではいかないけど、舞ちゃんも頑張ってるんだ。僕も頑張らなくちゃ」


 にこやかに笑う陸斗。永理のことを背負い続けるのは、自分ひとりで十分だ。そう胸のうちに想いをとどめ、舞華もわずかに笑顔を返した。



                *


 陸斗と別れてから、舞華は一度自宅に戻った。母はパートからまだ帰らない時間で、弟の創也も部活から戻らない。舞華は制服からラフな服装に着替え、クローゼットから準備しておいた旅行用のダッフルバッグを取り出した。

 

 そして舞華は地元の駅からバスに乗り、さいたま新都心へと向かう。


 東京が首都機能を喪失して以降、第二の首都として選定されたのは、関東地方から遠く離れた大阪だった。政治中枢が移転したその一方で、アノマリー・ポイントの調査や管理を目的とするU.N.B.E.Rアンバーの本部をはじめとした各種省庁、また政府調査機関の拠点地域として、東京にほど近いさいたま新都心が選ばれた。


 かつては埼玉県内での有数の商業施設、ビジネス拠点として賑わいを見せていた街並みに、学術研究都市としての側面が加わってからというもの、今や日本人だけではなく、数多くの国籍の人々が街中を往来している。研究施設が立ち並ぶ街を横目に歩き十五分ほど。舞華は街の片隅に佇む、とあるマンションの一室に訪れていた。


 再開発の流れから取り残されたような、若干古めかしい印象を受ける五階建てのマンション。舞華がエントランスにて部屋番号をプッシュすると、無言でオートロックのドアが開いた。そのままマンションの最上階にある部屋のインターホンを押すと、「入れ」と家主のぶっきらぼうな声が返ってきた。


「遅いじゃないか。蔵井戸」


 黒縁の眼鏡をかけた女性――白井楓シライカエデが、革張りのオフィスチェアを回転させ、舞華のほうを向いた。遮光カーテンで閉め切られた薄暗い部屋の中、病的なほどに蒼白い肌が、マルチディスプレイの光で煌々と映し出されていた。


「ごめん、ちょっと知り合いに捕まって」

「ああ、例のカレシか? いい加減煮え切らない関係はやめて、とっとと付き合うか距離でも置いたらどうだ」


 楓は指先で燻らせた煙草を咥えると、味気無さそうに煙を吐き出した。左手でかき揚げたショートカットの耳元からは、銀色に光るピアスが覗く。


「うるさい、そんなじゃないって何度言ったら……」


 舞華は手に持ったダッフルバッグを下ろすと、部屋のソファに腰を下ろした。


 女性のひとり暮らしには不釣り合いなほどに広いマンションだった。3LDKの部屋を完全に持て余している状態で、リビングに堂々と置かれたL字型デスクの上に、マルチディスプレイ化した大型のパソコンが設置してある。


 机の上にはエナジードリンクや炭酸飲料の缶が散乱しており、足元には捨てる機会がとうに失われたゴミ袋が無造作に置かれている。床にはパソコンに伸びる配線が植物の蔓のように這い回り、おまけに脱ぎっぱなしの衣服がそこかしこに散乱していた。流し台に置かれたままの食器からは、いかにも生活力のなさそうな雰囲気が漂ってくる。しかしリビングに置かれた巨大な水槽だけは綺麗に保たれており、中ではシルバーアロワナのアルビノ種が、白銀の鱗を光らせ優雅に泳いでいる。


 ――そして、何より目を引くのが。


 巨大な蝙蝠こうもりのような生き物が、壁掛けのガラスケースに閉じ込められていた。全長は二メートルほど。大きな翼こそ蝙蝠に似ているが、細長い口先には針のように鋭い歯が並んでおり、体表には茶色の細かい毛がうっすらと生えていた。股の間から長い尻尾が生えている様は、西洋の悪魔にも似た醜さを感じさせた。


「ああ、そいつか」


 舞華がこの家に来るのは初めてではなかった。

 しかし訪れる度に、この異様な生き物の標本に目が惹き付けられてしまう。


「そいつなら特に珍しいものじゃないだろ。特に『あそこ』ならな」


 標本のラベルにはランフォリンクス・ムエンステリという学名が印字されている。有史以前――約1億4500万年前、ジュラ紀後期に生息したとされる翼竜であり、本来であればとうの昔に絶滅したはずの生物だ。太古の地層から発掘された化石ならまだしも、生きた姿をそのまま残した剥製など、最初は偽物かと目を疑った。


 しかし、アノマリー・ポイントでは話が別だ。


 時空渦災害ディメンショナル・ハザードの影響下により、有史以前の世界へと変貌した東京には、既に絶滅したはずの古代生物が生息している。この標本は、かつてアノマリー・ポイントに立ち入った侵域者シーカーが持ち帰ったものだった。

 

「お前だって知ってるはずだ。プテロダクティルスにソルデス――翼竜なんてのは他にうじゃうじゃいる。だ。特に肉食恐竜。奴らの爪や牙は金持ちの間で相当な額で取引される。元々、絶滅危惧種の虎や象を密猟してまでコレクションしたがる欲深い連中が、私達の金づるクライアントだ」


 と、言いながら、再び楓はモニターに目を落とした。


 白井楓は商売屋ブローカーだった。虎やライオンの毛皮、象やサイの牙や角では飽き足らず、古代生物の部位もとい、生きた個体そのものを求める大金持ち相手と取引をするための仲介業者――つまり侵域者シーカーの元締めだった。


 古代生物の遺物を求める金持ち連中と、大金が欲しい侵域者シーカーたち。需要と供給が合致さえすれば、そこにビジネスは成立する。


 しかも、依頼者はただの金持ちだけではない。


 領域内に生存者がいることを信じ続けている、被害者の友人や親族など関係者からの依頼も、仲介業者である楓の収入源のひとつだった。既に生存者の捜索が打ち切られてからかなりの時間が経つ。かつての舞華も、大金を叩いて侵域者シーカーに捜索を依頼した、愚かな金づるの一人だった。


「奴ら、現ナマさえ積めば世の中の何でも手に入ると思ってる――欲張り連中の豚どもを相手するために、お前を鍛えた。分かってるな」


 こくり、と舞華は頷いた。


「今日までずっと、あんたの言う通りに従ってきた。そんな小言を言うために、私を雇ったわけじゃないでしょ」

「言うじゃないか。けどな、覚えておけ。余裕があった奴の大半は、あそこから帰ってこなかった。帰ってきたのは決まって臆病だったやつだけだ」


 調査隊の報告書に記載されたものだけで、アノマリー・ポイント内にはゆうに百種を超える古代生物が生息していることが判明している。温厚な草食動物から獰猛な肉食動物まで、一歩足を踏み入れてしまえば、そこは彼らの領域だ。


 法律や倫理などは通用しない。一億年以上前の自然の営みが作り出した野生の理に逆らってしまえば、訪れるのは明確な死ということを、時空渦災害発生時に東京にいた舞華は誰よりも理解していた。


 あの日、どこからともなく現れた肉食恐竜に生きたままはらわたを食われていた男の悲鳴は、今も鼓膜に焼き付いて剥がれない。


「頼むよ。私が投資した価値があるところを、ちょっとは見せてくれ」


 白井楓と出会ってからおよそ半年の時が経つ。


 それから今に至るまで、舞華は楓が指定するトレーナーの元でとある訓練を受けていた。基礎的な筋力トレーニングから、極限環境で生き残るためのサバイバル技術、そして、――普通の女子高生が生きていく上で、知る必要もない事を徹底的に仕込まれた。


 インカレの登山サークルに入ったというのは、家族に対するていの良い方便だ。登山やアウトドアに出かけると嘘をつき、週末や祝日のほぼ全てをトレーナーとの訓練に費やした。家族を騙しているという罪悪感は、永理を領域内に置き去りにしたことに比べれば、なんてことなかった。


 全ては、

 生きてこの目で、置き去りにした幼馴染の生死を確かめる為に。


 舞華はポケットからスマートフォンを取り出した。

 

 舞華が食い入るように見つめるのは、液晶画面に映しだされた、とある着信履歴だった。半年前の日付が記された、留守番電話の録音メッセージだった。


 再生ボタンを押すと、雑音が数秒の間流れ出す。


 そして、


『わたしはここにいるよ』


 あまりにも聞きなれた、そして永遠に失われたと思っていた声が聞こえた。


 聞き間違えるはずがない。それは紛れもなく、消息不明と化した幼馴染――沢渡永理の声だった。


 アノマリー・ポイント内ではあらゆる通信機器が無効化される。にも関わらず、いったい何故、生死すらわからぬ永理からの着信があったのか。本来ならば有り得ない、いわば幽霊からの着信に対し、白井楓は「ただの悪戯だろう」と一蹴した。しかし、どれだけ調べても、偽物であるという確証も得られなかった。


 止まった時計の針が、ようやく動き出した気がした。


 僅かでも永理が生きている可能性があると知った以上、舞華はもう、止まってはいられなかった。自らに付き纏った後悔と、止まった時計の針を進める為に、最初の一歩を踏み出す決意をした。


 沢渡永理を領域内に置き去りにしてから二年。

 

 蔵井戸舞華は非合法の手段を用いてアノマリー・ポイントに足を踏み入れる犯罪者――即ち侵域者シーカーになっていたのだった。

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