東京絶滅領域:ジュラシック・トーキョー
零井あだむ
プロローグ 予兆/Awaikening
その日は異様な暑さだったということを、今でも良く覚えている。
照りつける日射しの勢いは日々を追うごとに増し、蒸し暑い熱帯夜が眠りを妨げる八月の中旬。ニュースを見れば熱中症で搬送される人々の話で持ちきりで、うだるような暑さに外出すらためらう毎日が、延々と続いていた。
とりわけこの日は、観測史上最大の真夏日として記録されるほどに暑かった。関東地方を中心とした記録的な猛暑に、当時中学三年生だった私はうんざりした気持ちを抱いていた。きっと私の幼馴染みだった、
考えてみれば、確かに気味が悪い日だった。
ヒッチコックの映画みたいに、空一面を埋め尽くす鳥たちの群れ。足下を見れば、排水溝から飛び出したネズミたちが所狭しと這い回っていた。
まるで何かから逃げ出すように。何かを警告するかのように。
今思い返せば、予兆なら幾らでもあったのかもしれない。
数日前から行方不明者のニュースが増えていたり、街中から猫や犬がいなくなったという噂を聞くようになった。都内で無差別通り魔事件が起きて、沢山の人が亡くなったというニュースを聞いたのも、その日に近い時だったと記憶している。
日常のそこかしこに、不吉なニュースが目につくようになった。世界の歯車のどこかが外れてしまったかのような違和感を覚えながらも目を背けている、そんな自分がいた。それは単純に、世の中の不景気が生み出した社会としての歪みだったのか。
あるいはどこからか発せられた、目には見えない形の警告だったのか。
少なくとも、それは私たちにとっては突然、何の前触れもなしにやってきた。
2019年6月11日。
午後17時11分。
私は、幼馴染の永理と一緒に新宿にいた。
都内の中学に通っていた私たちは、普段どおり学校に行き、放課後になると馴染みのファミレスでたわいもない長話をした後、いつものように帰り道を歩いていた。
新宿駅東口、大ガード下交差点。仕事終わりや学校帰りの人々で賑わう駅前。電気店の巨大スクリーンが、突然消えたのが始まりだった。
大音量で流れる女性アイドルグループのライブ映像がふっと消え、いったい何事かと思って足を止めた、その時。
ずん、と、街中に重いモノが落ちてきたかのような衝撃を感じた。
地震だ――と身構えるも、その後の揺れが来る事は無かった。一瞬の強い揺れの後、不自然に周囲は静まり返り、人々は困惑したように周りを見回していた。永理は私の隣でぱちくりと瞬いて、いったい何が起こったのかと目を丸くしていた。
戸惑いを隠せない私と永理の背後で、突然つんざくような悲鳴が聞こえてきた。
今でも、その時の事は鮮明に覚えている。
悲鳴が聞こえたほうへと反射的に振り向くと、巨大な爬虫類のような生物が、目の前の男にのし掛かっていたのだから。
地面と垂直に伸びた尻尾や鱗で覆われた皮膚は、確かに爬虫類的な見た目をしていた。しかしワニのような四つん這いでは無く、二足の後ろ足で直立する姿や全身に生えた色とりどりの羽毛を見ると、鳥類的な特徴も備えている様子だった。
男は絶叫しながら抵抗していたが、鳥類とも爬虫類ともつかない生き物の後ろ足に上半身を抑え付けられ、仰向けの状態から少しも身動きが取れずにいた。よく発達した後ろ足に生えている、ひときわ大きな鉤爪を男の体に突き刺すと、鋭い歯を備えた顎でひと噛み、男の首をごきり、とへし折った。
周囲の人々は呆然としながらも、その様子を目の当たりにしていた。
全身をびくびくと痙攣させながら、男は自身の新鮮な
爬虫類のようでありながら、鳥のように賢く、獣のように獰猛。
私の中に浮かんだ考えを、私自身の理性が「あり得ない」と掻き消した。
そう、だってこの生き物は既にこの世に――
「きょ……恐竜?」
間の抜けた幼馴染の言葉が、私にあり得ない可能性を信じさせた。
爬虫類――もとい恐竜のような生き物は、男の鮮血で濡れた鼻面を上げ、冷徹な眼光を私たちのほうに向けた。
そしてビルの隙間から二匹目、三匹目と、同じ姿形をした生物たちが、次々と群れを成し、私たちに黄金色の眼を向けた。鶏のようにひょこひょこと首を動かしながら、唇から鋭い牙を剥き出しにした。獲物である私たちを見定めるかのように。
無論、パニックが巻き起こるのは必然だった。
人類が霊長の支配者として君臨してからこの方、自身が狩られる側の獲物になるだなんて、誰が思うのだろうか。まわりの人々が素っ頓狂な悲鳴を上げ、四方八方に逃げ始めた時、私はようやく、周囲の状況を把握するに至った。
見慣れた新宿駅前の街並みが、鬱蒼とした緑色に覆われていた。まるで始めからその場に存在していたかのような巨木がアスファルトを突き破り、地面のあちこちが隆起し岩石混じりの土壌が露出していた。高層ビルの壁面にはびっしりと苔やツタがまとわりついており、足下にはシダのような植物が茂っている。まるで一瞬にしてこの世界が、在りし日の自然そのものに還ってしまったかのような光景が、辺り一面に広がっていた。
まるでこの東京に、古代の世界がそのまま移動してきたかのように。
「なん、なの……これ」
絶句する私の手を握り、永理はぶるぶると震えている。
彼女を守らないといけない気持ちと、ここから一刻も早く逃げ出さないという気持ちが相まって、私は永理の手を引いた。
「……逃げるよ!」
永理の手を引いて、パニック状態の人ごみを掻き分けた。背後から聞こえる悲鳴と同時に聞こえる甲高い鳴き声に怯えながら、私は前だけを見据え走り続けた。
走れ、走れと自分に言い聞かせた。心臓が早鐘を打ち、耳元で鼓動がばくばくと聞こえていた。背後に迫り来る死の恐怖から逃れようと、生存本能が自分を駆り立てるままに、ただ足を動かし続けた。自分と、何より自分よりもよほど女の子らしい親友と一緒に生き延びるために、ただ息を枯らして走り続けた。
しかしその瞬間、頼りなげな親友の手の感覚が、右手から消えた。
振り向いた瞬間には既に遅かった。永理の姿は既に無く、彼女の体温の名残だけがわずかに掌の中だけに残っていた。
後ろから、私の名前を呼ぶ永理の声が聞こえた。
逃げ惑う人混みの渦の中から、右手を伸ばす彼女の姿が見えた。
――この時のことを、私は今でも後悔している。
僅かな逡巡の後、私は彼女から目を背けた。
なんで、どうしてと言うように当惑した永理の表情が、今でも目に焼き付いて離れない。私の中の生存本能がそうさせたのか、あるいは単純に、自分が恐怖という感情に負けただけなのか。
果たして親友を見捨ててでも、生き延びたいだけのことだったのか。
後悔を振り切るかのように、無我夢中で走り続けた。
そのあとはもう、何も覚えてはいない。たったひとつの事実として、私はまだ生きている。そして永理はまだ、あの東京の中にいると言う事だけ。
――あれから、二年の時が経った。
数百万人以上の行方不明者と数万人の死傷者を生んだ、人類史上最大規模の大災害。首都機能を失った東京の代わりに打ち建てられた臨時政府は非常事態宣言を発令。先史時代の自然環境が2019年の東京都に発生したこの不可解な現象を、研究者たちは『局所的なワームホール発生による時空間転移現象』と仮定した。
結局、私は今ものうのうと生き延びている。駆け付けた自衛隊に救助された私は、およそ二週間のあいだ昏睡状態を彷徨った挙句、ようやく意識を取り戻した。
永理が帰っていないことと、事件の全容を知ることになったのはその後だ。
初動対応の遅れもあり、事件発生後の日本政府はこの異常事態に手も足も出ず、結果的に国際連合主導の元、極端な環境変化が観測された地区一帯を包囲するように、高さ50メートルにも及ぶ巨大な隔離壁を建造するに至った。現在も多くの行方不明者が壁内に取り残されていると予想され、自衛隊や在日米軍、研究者たちで編成された調査隊が、日々領域内の探索に挑み続けている。
そして。
私は高校生になった。永理は今も、あの東京から帰ってきていない。
私の時間は、あの時から凍りついたままだった。日々何をしようとも、頭の片隅に荊のような罪悪感が絡みついて離れない。
それは永理を見捨て、自分だけが生き延びようとした罰なのだろう。親友を見殺しにしてまで幸せになろうだなんて、おこがましいにも程がある。
もし私が帰ってこなければ、つまりはそういうことだと思ってほしい。
私の名前は
今、私はあの狂った世界に足を踏み入れている。
熱帯雨林のように蒸し暑い気温、所狭しと密集したシダ植物、天を埋め尽くすほどに葉を伸ばす針葉樹の密林で形作られた、人類誕生以前の原初の領域。茂みの向こうには、既に絶滅したはずの古代生物が、我が物顔でのし歩いている。
幼馴染を助け出すため、ついに私は戻ってきた。
戻ってきてしまった。
一億六千五百万年前――人類が生まれる前の遥か昔、有史以前の世界からやってきた古代生物たちが支配する、あの忌まわしい東京に。
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