十 餞別

 ◇

 学園祭二日目。

 茉莉花は、万が一、演劇の裏方やキャストの人間らと鉢合わせてしまうと、どうも気まずくて、化学科の演劇が始まる時刻に合わせて家を出た。

 舞台は第一体育館の特設ステージで、そういえば一昨日にヘルメットを被った業者の人たちが組み立てていたのを思い出した。館内は開始五分前であったが、客席は溢れかえって、とうに立ち見を強要されているようであった。おそらくひとつ前の電気科がぎりぎりまで演じたために、客がそのまま残っているのだろう。また、化学科の上演が最後になるということも、少なからずと。脇から急いで電気科が退散していくのを、舞台セットを持って壁に沿って並んでいる化学科の演劇集団は、逸る気を目力に代替していた。

 ステージには靄が立ち込めていて、そのあちらこちらに光の帯が突き刺さっていた。――すると暗幕が閉じられ、中央にまん丸の光の淀ができた。後ろからはガタガタと走り回るのが聞こえてきた。


 アナウンスが入った。

『これより、生物化学科演劇【形而上の愛】を上演させていただきます』

 照明が全て消えた。浮き立つのは、音響のパソコンの画面と、館内に張られた遮光カーテンから漏れ出す屋外の光とであった。

 すると、音があった。

 拍手の音であった。

 茉莉花もそれにつられて、拍手を送った。次第にそれが弱くなるのを見計らって、手を打つのを緩めていこうと思った。しかし、いつまで経っても、それが止まないのである。皆が訝しんで、手を止めていくと、一様に上から降り注いでいるのに気付いた。

 そう、雨の音であった。そして、若々しいながらも、少し砂の混じったような男の声もひとつ、落ちてきた。


「――鬱蒼としたブナの回廊を歩いていると、ふといっそう仄暗くなって、葉音交じりに雨が追いかけてくるのに気付いた。次第に、雨脚は葉を踏みつけるようになると、太く、白い軌道で私を打つのだった」


 さあ、開幕だ。光は再び靄を照らし出した。


 やがてそれが晴れると、男がひとり、森を駆けていた――。



 ◇

 閉幕につれて、館内に再び雨が降ったようであった。

 するとまた幕は開き、一行が、横並びで一斉に頭を下げた。惜しげもない、客席から立ちのぼる喝采であった。

 拍手が止んでいくと、南雲が一歩前に出て、一礼してから、語り始めた。格好は寒そうであった、暗闇から覗かれる身体は震えていた、だが彼の恍惚とした表情は、有頂天とでも言うべきであった。

「脚本の原作を務めさせていただきました、南雲秀と申します。皆様に、最大の感謝を。これは、私の自伝小説であります。そして、ノンフィクションでも、あります。きっと、皆様からしたら、なんと奇怪で、異質で、不気味で……でも、それを上回るほどの感動を受け取ってもらえたものと、確信しております。この作品は私の小説を、書き下ろしてもらったものになっていて、やはり文章だけではだせない味が出ていたことでしょう。……はて、なにを話そうとしていたことでしょう。ああ、小説の方も見たいという方がおりましたら、ちょうど、出口に文芸部誌の【一夜草】を、部員が配布しております。是非。――今宵、皆様とともに舞台を創り上げられたことに、改めて、最大級の感謝を!」


 ◇

『ええ、会場の皆様。今からすぐに閉会式及び表彰式をさせていただきます。そしてその直ぐ、今年度の学園祭を締めくくる、花火が打ち上げられます。例年、表彰式が終わると、演劇のキャストたちと写真を撮られる方が大勢いますが、それは進行の妨げとなりますので、どうか一度、第一体育館を出てもらい、高専坂から花火を眺めてからにしてもらいたいと思います。それでは、学生会長、司会をよろしくお願いします』


「……五反田、よろっと始まるようだね。では、私は行くことにするよ」

 南雲はアナウンスを耳にすると、白衣を羽織り、抱えていた白衣をも羽織り、防寒対策に万全を期して、出口の方へと足を向けた。すると、五反田は届かぬような小さな声で呼び止めた。

「……ああ。承知の上であっても、悪かったな」

 南雲は興味がないように振舞ってはいたが、その耳はよく立てられていた。

「……なにを言うんだね。気持ちが悪い。――まあでも、そういった悪気というか、後ろめたさのようなものがあるのは、私にとって都合の良いことだ。では、ふたつほど頼み事がある」 

「随分な吝嗇家だな」と五反田は苦笑し、眉を下げて、目で問うた。

それに南雲も微笑んで、折り畳まれた二枚の紙を彼に渡した。

「言い方に気を付けたまえ? こうすれば後腐れないだろう。ひとつは、この手紙を、私が仕事に向かったら読むこと。もうひとつは、もし香月くんを見かけたら、この地図を渡すこと。以上だ」

「ここで開けたらいけないのか」

 すると南雲は腕を開いて、手をひらひらさせながら、「わかってない、わかってないね」とため息を吐き、

「味が薄いだろう? 手紙というものは、その場で開けるよりも、当人が去ってからの方が、考えさせられるものだ。――それでは、阿久津くん、仕事だ」

 と言うと、脇に控えていた阿久津もちょうど黒のウィンドブレーカーのファスナーを一番上まで閉めて、準備万端という様子で敬礼のような動きをした。

「はあい、わかりましたよ秀さん。……はあ、損な役回りですよ、全く」

 そう言った阿久津の額を、南雲は何度も指先でつつきながら、

「そう、いう、こと、を言うものではないよ。これは、君にとって、都合のいいことでもあるのだからね。きっと後ほど私に、感謝感激雨霰だ」

「はあ……意味がわからん。まあ、行きましょうか」

 ふたりは非常用の出口から外に向かい、やがて高専坂を下っていった。


 

「お疲れ様、とっても良かったと思うよ」

 茉莉花は、舞台から降りてきた御堂に感想を述べた。すると、満面の笑みが咲いて、

「そう! それは良かったあ……!」

 ひとつくしゃみをした。「うう、教室にコート置いてきちゃったあ……」しかし第一体育館から教室までは長い、長い廊下があって、窓硝子から景色を望めば、いかにここが郊外だということに気付かされる。十二月の冷気は、下弦の月の光を伝って、滲み込んでくるのであった。

 想像するだけで身震いをしてしまった茉莉花は、「ぼくのコート使いなよ。トレンチだから少し重いかもしれないけど」と直ぐにコートを脱いで、御堂の肩に掛けてやったものの、薄桃色のシャツに深紅のカーディガンを合わせたのが、大型ストーブのふたつだけついている館内には、寒そうであった。それでもあの茉莉花が、ここまで好意を向けてくれているということには、流石に敵わないのであった。

「ありがとうね、マリちゃん!」

「いいよ。ほら、もう表彰式じゃないか、君は行かなきゃ」

「マリちゃんも背景手伝ったんだから参加しなよお!」

「いいんだよ、ぼくは。ステージに立つのは、当日に尽力した人だけさ」

「そうなのかなあ……。マリちゃんには、後ろから見守ってて欲しかったんだけどなあ」

 すると御堂はおもむろに、照明を仰ぐようにして言った。眩しくて、ちょっとも目が開けられないようであった。「あのね、マリちゃん。あたし、ちょっと派手なこと、するんだあ」そして手で庇をつくって、薄目を開くと、言った。

「きっと、優勝する。……あたしはあ、あんまり自分に自信がないんだよね、でも、この大舞台を成し遂げた今なら、行ける気がするんだよねえ。だから、告白する。優勝して、そこで、秀先輩に告白する!」

「え、ちょっと待ってよ。それは――」と茉莉花が言いかけたところで、五反田が邪魔立てでもするように、声を掛けてきた。

「おっ、居た居た! おうい、ふたりとも!」

「あっ、祐希先輩! 秀先輩どこに居るか知りません? そろそろ閉会式ですけどお……」

 五反田はどうということのない顔をして、「ああ、あいつなら、仕事へ行ったよ。花火警備の」

 すると御堂は狼狽えるとともに、二三歩うしろに足跡を落として、

「そんなあ……場所は知らないんですかあ」

「知らないな。どこでやるんだろうなあ。というか、一般の学生は危ないから足を踏み入れるようなことはできないんじゃないのか」

 そう言いながら五反田は、御堂の肩を抱えて、ほら、とステージの方へと目を向けさせた。そうしてまたなにか話し出すとともに、後ろ手に、地図を振って、茉莉花の注意を引き寄せた。

 茉莉花はそれを受け取って、広げてみると、果たしてそれは『花火警備地区・周辺図』というものであった。茉莉花はそれをさっと頭の中に落とし、体育館を飛び出した。

「あっ、マリちゃんどこに……!」

 茉莉花の方へと伸びた手を、五反田はぱっと取って、「――と、待て、朱莉。主役がふたりも抜けられたら、折角の優勝も見映えが悪いだろ。だから、追いかけるのは、駄目だ」

「そんなあ!」

「……だがな、まあ、少し待て。お前には話があるんだ、大事な」

「話ですかあ……?」

 五反田は頭を垂れて、床の木目をじっと見つめて言った。

「ああ。……朱莉、俺は、お前に謝らないとな」

「いえいえ、いいんです。なんでも」軽快に、頭を上げて欲しい旨を伝えると、五反田はのっそりと、視線を下げたまま、言った。

「だから、表彰式が終わったら、ふたりで飲みに行かないか」

「あたしは未成年ですよう」

「じゃあ、そっちはジュースで。とりあえず、どっか行きたくないか。……話したいことも、ないか」

「……はい」


 ◇

 星が、ある。高く澄んだ冬の空に懸かる月の寂しげな姿に追従して、彼らもまた燦爛と涙を流すようであった。

 寂しげな月と言うのも、明月を超え、半分ほど欠けてはいたが、それよりもずっと、輝いているようだと、茉莉花は感じた。彼女は街灯の点々と立つ勾配を下っていた。あたりの明るいのは、殆どそれらのせいではなかった。前方からは鋭く冷気が突っ込んできて、あとの三方からは忍び入ってくるようであった。

「ああっ、寒いな……!」

 茉莉花はあくせくと飛び出してきたものだから、羽織るもののことなど考えもしなかった。そして、戻る気にもなれなかった。全く彼女はどうしてしまったというのだろうか。あまりの無計画さには、自分で幾たびも嘆息を吐くと、目先で白く咲いた。比較的に厚手であるこのカーディガンも、この状況下では吹き曝しに同じだった。皮膚を掻き毟られ、耳を齧られ、鼻腔を切られ、唾液と涙をも干され、それでも、突き進んでゆくのは一心にである。

 坂を下り、新潟県道九号市井野牧線に沿って駆け、民家の方へと折れる時に見た電光掲示板は、摂氏一度であった。

 そして、地図通りに小路を抜けると、計り知れぬほどの冬田が広がっていて、そこに立つのは、穂先を夜露のために濡らした穭穂のみで、黒光りしているのが、星のように浮かんでいた。

 そして、白く続いた畦道には十数人ほどの学生らが居て、それらは二三人の固まりになって枝道の前に立っていた。そして進んでいくと、ひとりの男子学生がこちらに話しかけてきた。その声はやや申し訳なさそうに、夜風に乗って届いた。

「すみません。これから、花火を上げるので一般の学生は――」

「ごめん、急いでるんだ、南雲くんに用事があって」

 そう言って、茉莉花は彼をすり抜けていくと、特に他の学生は彼女を止めようとはしなかった。ただ、月の溶け込んだ黒髪と双眸の厳粛たる麗しさに、息を呑んでいるようであった。

 そして、地図で言えば、ちょうどこの畦道のど真ん中に花火師らが居て、そこからひとつ曲がった道に――白鳥のように白く、その首のようにしなやかで細い体躯が立っていた。茉莉花はその場で深呼吸に努め、なんとか胸の高鳴りを鎮めていった。

 向こうはこちらを視認すると、会釈して、二歩ほど歩み寄ってきた。そして、こちらも、ぎりぎりまで近づいてやり、精いっぱいに笑んでみせた。

「とっても素晴らしい演劇だったよ」

「そうかね。それは、良かった。私たちが五反田の言うように尽力したことと、そして君たちがなによりもこの一か月を後ろから支えてくれたからであろうね」

「でも、殆ど四年生のクラスがやってくれたから、予定通りに終わった。そして、ぼくは、肝心な本番には手伝わなかった。何度もこの身体に舞台セットをどのように動かすかって覚え込ませたっていうのに」

「なにを言う。その四年だって、本番にまで手を貸してくれたのはほんの僅かだ。気にすることはないよ」

「そう……。で、ぼくをこんな寒空に呼び出して、いったいなにをするっていうのかな」

「おやおや。君がこのような場に足を運ぶよう、私が差し向けたとでも言うのかね」

「なら、なんでこの地図、渡したのさ。有り余る慇懃は無礼じゃないの。赤丸までつけちゃってさ」

「ただの親切心からさ。いやあ、『君が私に』伝えておきたいことがあるのではないかとね」

「そうだね。じゃあ先ずはこれを先に渡しておこうかな」

 そう言って茉莉花がカーディガンのポケットから取り出したのは、茶封筒の小包であった。南雲はそれを開けて見ると、それは、翡翠色のストーンがまん丸の金縁に嵌められた、小奇麗なループタイであった。

「君はいつもワイシャツを着ているからさ、ちょうどいいと思って。誕生日、明日でしょ?」

「ほう……冴え冴えとした、これまた美しい作品だね。ありがたい。……時に、君に誕生日を教えたことがあったかね」

「初めて会った時、今日はなんの日ってことで、君の誕生日を調べてたでしょ。『一・三三三……』みたいなことを。あの循環小数はきっと誕生日を数字、スラッシュ、数字と検索したんだろうね。でも、これを満たす曜日は……たくさんあった。けど、『女流棋士が男性棋士から初めて白星をあげた』のは、十二月九日、明日さ。だから、残りの三時間のうちは、ぼくと君は同い年なんだ」

「実に素晴らしい記憶力だね。ただ……」と南雲は白衣のポケットから、先ほど彼女の渡した小包と全く同じようなものを引き出した。「まさか被ってしまうとはね」

 中身は果たして、同じ形状のループタイで、ストーンが菫色なのと、縁が銀色であったのが救いであった。「いや、君は本当に演劇が嫌だと言っていたのに、よく努めてくれたと、お礼をしなければならないと思ってね。ちょうど近くの芸大との共同作品らしい。これまた同じようだが、君もワイシャツを好むようだから」

 ふたりは月光に晒してやって、煌々と照り返すストーンの風雅な様に、心を呑まれていった。やがて、持ち上げる手も疲れてきたのか、茉莉花はゆらりと口を開いた。

「……そういえば、昨日君が一緒だった女の子。あの人が、ぼくは、君の語る南雲結のモチーフなんだと思ってた。身長が高いというのも、ただ君の嗜好で書き足しただけなのだと思ってた。けど、あの作品が、君の言うように『自伝小説』だというのなら、彼女は、鮎川早百合という人物である筈なんだ。彼女の口調や、慄いてしまうような笑顔からも。けど、わからない。どこまでがノンフィクションなのかがね」

 南雲はそれを聞きながら、ループタイを襟に通していた。剣先がぶつかって、静かにちんと鳴った。「今宵は一段と冷えるようだよ」と白衣を一枚だけ脱いで、茉莉花の肩に掛けてやった。「珍しくそんな丈の短いスカートを穿いているようだけれど、白衣なら安心、きっと足元まで暖かいよ」

「……あったかい。裾を引きずっちゃうのは謝るしかないんだけど」

 茉莉花はボタンを留めていった。指は震え始め、ボタンを掴む感覚がなかった。

「二枚着ているなんて……、あのコート着ればいいのに」

「私はこちらの方を好むのだよ。それに、それぐらい洗えば済む話だ」

「あの、はぐらかされているような気がするんだけど?」

「順序があるだろう。健康あってこそだ」

 そして、愁眉をあつめて、言った。

「御明察だ。それと、あれの一切はノンフィクションだよ。どだい、結ちゃんの存在など信じ切れるものではないだろうけどね。君は私がこう言ったことで、考えを変えるに至るのかね」

「信じるよ……」

「若干引っかかるようではないか。私は、そう、観たであろう通りに、虚言癖なのだよ。それをどうしたら、信じる気になるのかね。もしかしたら。君はどこか気が違うのでは……」

「失礼だね! そんなの当然だよ君が好きなんだから!」

 すると、後ろで笛が鳴った。ひゅうと、音は遠ざかっていった。どこへと。――上である。

 しかし茉莉花は、彼をまなこから逃すことは、その一瞬たりともないのだった。また南雲も、彼女の炯々とした眼光に射られてしまっていた。

 ――そして。ひとつの轟きのあと、天には皓々たる大輪が懸かった。その輝きは、南雲の輪郭をなぞり、瞳を潤ませるようであった。

「ぼくはね、そこそこ顔が良くて、そこそこ運動神経も良くて、そこそこ勉強もできた。だから、よく他人に期待された。本なんかでよくある話だと、どうも優等生っていうのは、周りから期待に応えるが為に、必死になるらしいね。それに、親の理想を実現させようとするらしいね。でも、ぼくはずっと昔から、自分を貫いてきたんだ。周りの意見なんて興味もなくて、親の言葉もぼくが正しいと思っているから辿ってきたまでだ。でも、ほら、君が助けてくれた時、あの時に、ぼくは、ああ、やっぱり全部が正しいわけじゃないんだなって改めて思った。ぼくはこれを親不孝だなんて思わない。ぼくの人生だもの。勝手にやらせてもらうよ。勝手に産み落とされて、烏滸がましいだなんて笑止千万だね。でも、そういう傍若無人なのに、気さくに関わってくれる人なんてほんの少しさ。それは、才能なんだと思う。ぼくにはなにがなんでも手に入れることができないものを君は持っているんだ。優しさだよ。君はよく嘘を吐く人だ。結局、あれから一度もあの場所になんて来やしなかった。けど、君がいくら卑下していたとしても、その根底には常に優しさがあるから、虚言を必死に吐こうとするだけなんだ。虚言が優しさなんじゃなくて、優しさ故の虚言なんだ。君はそういう人だ。そして、優しさというのは、罪から生まれる。君は作中で罪を犯した云々言っていたじゃないか。けど、そこから君はまた優しくなれた。もう君は許されてもいいはずだ。その優しさっていうのがね、ぼくが正直に生きようと、打算的に生きてやろうと、捨てたものなんだ。だから、そのやさしさを、その優しさを持つ君を――初めて、ぼくは欲しいと思えたんだ」

「……君は、君は全く正直者だね。だが君は、こちらに歩み寄るために、その邁進を、少し緩めたのではないかね。それこそ、君の言う優しさだったりするのではないのかね。私も、つい、惹かれてしまったよ」

「それって……!」

「だからこそ、君とは、距離を設けなければならないのだよ」

 茉莉花はきっとその言葉が、花火の轟音に揺られたものだと、切に願った。

「君は最愛の人が居なくなってしまったとしたら、いったいどうなってしまうと思う。……私は、どうしても、忘れられなくて、辛いよ。でもね、また違う女性と付き合おうだなんてちっとも思わない。なぜなら、私は彼女を一番に愛して――」

 しかし、南雲は口を噤んだ。

 それは、彼女が目を伏せて、しとどに睫毛と頬とを泣き濡らしているからであった。「君って人は、酷いね、全く……」手の甲で拭い、泣き腫らした目を、重たそうに上げて、

「昨日はさぞかしお楽しみだったんだろうね、首に歯型までつけてきてさ……。君の言う最愛の人とやらが遠くへ行ってしまったら、今度は鮎川って女の子とも仲良くして、御堂さんと、ぼくまで惚れさせたんだ。全く、全く……」

 胸が張り裂けてしまいそうなほど、澄んだ声であった。

 それに南雲は少しとばかりに俯いて、口端を固く結ぶと、

「……やはり、君にも嘘が吐けないね」

 花火は続いていた。校舎の方からは、学生らの叫ぶような笑い声が弱々しく届いてくる。南雲の顔が幾色にも照らされてゆく。そして彼は語り続ける。それが写真のように茉莉花の目に切り取られた。

「私の罪というのは、なにも作中で全て語られたわけではない。原作にも書いたわけではない。つまらない身の上話になるけれどもね、私の母は酷く短気だったのだよ。幼年期の私は、祭りのあとに南雲結と別れることになって、なにか無邪気さというか、子供っぽさをその時に失ってしまったようでね。他人の機嫌をうかがうようになって、一番に母の機嫌を損ねないために、朝は早く起きる、食事のたびに食器は並べておく、夕食では麦茶と酒のどっちを飲むのかを訊いて、酒だったらグラスを冷蔵庫で冷やしておく、風呂掃除、ごみ捨ては率先してやるなどと、まあ、よくやったと思うよ。まあ、そんなこんなで、私は女性というものへの扱い方を知ったのだよ。中学に入って、いよいよ辛くなってくると、私は女遊びに明け暮れた。持ち前の虚言癖というのは、元来、自分の身を守る為のもので、また自分を慰撫する為のものだったのだよ。でも、これには、相手方はいつしかはっと笑わなくなって、私に背中を向けてしまうのだよ。これが、どれだけの罪なのかということを知ったのは、もう中学を卒業するような時だった。だから、私は高専に入ってからは、この虚言癖を、今更治せないからと、人の為に使おうとしたのだよ。人の願いをできる限り聞いてやるような、そんな度量の広さを私は仮初につくったのだよ。でも、私だって人間だ。時にはどうしようもなく、馬の合わないようなやつもいれば、どうしようもなく虚言の通用しないような者も居る。そういう者はね、私のこれまで積み上げてきたものを、易々と打ち砕いて、本能を擽ってくるのだよ。そうすると私は、理性では抑えきれなくなってしまうみたいなんだ。なあ、不埒者とはなんなのかね。人間というのは、ひとり愛する者が居るからといって、他の者を好いてはいけないのかね。だが、私は、そんなこともわからずに、ひとりの幼馴染を狂わせてしまったのだよ。彼女は言うんだ、私がどうしようもない不埒者だと。美しいだとか、可愛いだとか、そういった褒め言葉には同時に責任が伴うものだと。どうなのだろうね。やはり、私は不埒者だろうか。美しい者には美しいと、可愛い者には可愛いと言うことが、いったいどれだけの罪なのかね。そして、それは彼女が私の好意を懐疑するに至るものなのかね。……わからない。だから、いっそ、これから言うこともが、この夜風に舞い上がって、やがて吹き下した時に、君に届いてくれればいいのだ……」

 本当に、彼の瞳の潤むのは、花火だけのせいであろうと言うのか。声風も、今にも散ってしまいそうに儚いもので、平生の嘯くようなものとはやはり違えていた。

「私は、ちょうど南雲結に花を贈られた時を境に、花言葉を勉強するようになった。茉莉花の花言葉を知っているかね」

「……知ってるよ。茉莉花は一夜花なんだ。それに温順だとか、気立てがいいだとか――大っ嫌い」

「そうかね。なら、君はさしずめ『黄色の茉莉花』ではないかね」

「黄色のやつなんてあるの」

「おや、知らないかね。カロライナジャスミンというのだがね。花言葉は、優雅だ。そして、毒性がある。君にぴったりではないかね」

「喧嘩、売ってるのかな」

「違うよ。君には、もっと相応しい名があると思ってね」

 南雲は、ほら、と後ろを見上げるように言った。茉莉花はその通りにすると、手に握っていたループタイを奪われ、掲げられた。そして、皓々とした光を、ストーンは吸い込んで、輝いた。

「――菫。なんてどうかね。菫は一夜草と言ってね」

「菫も、一夜で朽ちてしまうの」

「いいや。これは私の大の苦手の古典でやった、万葉集の話なのだがね。どうやら、菫を摘みに訪れた者が、あまりの美しさに一夜をそこで越してしまったという。それぐらいに、君は、美しい人だよ」

 茉莉花は鳩尾を殴られたような息苦しさを感じた。そのたびに、つんと目の奥が痛んで、脚がわななき、雫が伝う。

「それでも、君はぼくのものにはなってくれないんでしょ」

「私は、最愛の人が居るということ以前に、誰をも愛する権利が、どこにだってないのだよ。それに、私だけが良く見えるのは、私が耳当たりの良いことばかり言うからだ。私は、彼女の前でさえ、正直になるのが、大変恐ろしかった。けれどもね、君も、もっと綻びを見せてやるべきだ。私ではなく、もっと、適当な男にね」

 は、はは。と茉莉花は失笑を広げた。腹を抱えてまで、笑った。零れ落ちた涙は、地面に落ちるまでのひと時に何度も煌めいていた。彼女の口角は上がりっぱなしであった。

「……あーあ、フラれちゃった。どうしてくれるのさ」

 そう言って、南雲の胸をとん、とんと拳で叩いた。それに南雲はにいっと笑ってみせた。

「それなら、君にうってつけの者が居るではないか。長でもないというのに、花火警備の仕事があるからと、嫌な顔をつくってまでして、表彰式へ参加せずに、ずっとこのやりとりをそこの茂みに隠れて耳をそばだてていた者がね。ほら、出てきたらどうかね」

 がさがさと茂みから飛び出してきたのは、黒のウィンドブレーカーに身を包んだ、阿久津であった。

「え、阿久津くん……! なに、ずっと見てたの! 趣味が悪いにもほどがあるんじゃないかなあ!」

「いやあ、だって秀先輩がいいことがあるって……」

「南雲くん……!」

「ははは、あとは若い者たちに任せるよ。さて、宴も酣。フィナーレだよ。仰ぎたまえ、阿久津幸太郎、香月茉莉花!」

 襟を引き寄せようとする彼女の手を、南雲はこしょこしょと擽って掻い潜り、遅い足で、なんとか花火師のトラックの隅に隠れることに成功した。夜空を仰いだ。「オリオン座しか私には判然としないね」すると、星が落ちてきた。彼はトラックの荷台に背を預ける花火師に、声を掛けた。

「星が、落ちてくるようですね」

「おおう、南雲さん。いやあ、なんとか雪が本降りになられる前にゃ打ち上げられそうで、良かったですわあ」

「雪……、おや、これは雪ですか」

 途端、頬に冷たさを感じた。しんしんと降りてくるのを見つめていると、濡れそぼつ頬から、ひと粒滴った。

「牡丹雪だあなあこりゃ」

「直ぐに融解してしまいますね。あっ……、目に入った!」

「お、南雲さん、花火! 最後、大きなの来ますよ!」

「え、ちょっと目が……」

 南雲の目は溢れ出しても、止むことのないほどの液体を抱えていた。そして、視界が金色に満たされた。――ああ、これは、雪融けの水であろうか。否、身を知る雨水であろうか。

「……ああ、今宵は、雪月花ですね」

「言いえて妙だなあ」



「阿久津くん、手を放して。彼を見つけ出して、ぶん殴ってやらないと……!」

「……あっ! ほら茉莉花ちゃん! 花火が落ちてくるよ! 火傷しちゃう! ほら早く逃げないと……!」

「あ、阿久津くん、ちょっと待って! 待ってってばあ!」

 そして阿久津は花火に背中を押されるように、茉莉花の手を引いて、ずっと向こうにまで畦道を駆けてゆくのだった。


 ◇

 どこかへ行ってしまった阿久津はさておき、南雲は他の学生らと花火の破片を拾い、花火師に後始末を任せて、撤収した。

 そし小木研に預けた荷物を取りに行くと、そこにはひとつ、緋色の日傘が置かれていた。

 南雲には向かう場所があった。

 自動ドアを潜り、一号館の正面玄関から出ると、身震いをした。「そういえば香月くんから白衣を返してもらってないね……寒い」そう言いながらも、蛇の目を空に向けて、緋色を被る。「まだ、積もらないような雪だから良かった」アスファルトに浸透してゆくのを、靴底で踏みしめて、軽い水音を立てた。そして、傘を持たぬ手には、花束が握られていた。



 九十九折りになった階段を下ってゆく。周囲の木々は、前にこの山で見たペンキのような黄色や、猛火のような紅葉などからはすっかり寂しく、いっぱいに敷かれた落葉が、水浸しになって、黒々と光っていた。

 泳ぐようにして渡った、背の高い草本も、今や根っからの坊主であった。

 そして、あの四阿は相変わらず閑散として、石畳の上に建っていた。割れや滲み、蜘蛛の巣の健在を一絡げに確認したあと、彼女が坐っていた左端の腰掛に、花束を添えた。紫苑の花束であった。そして、南雲は腰掛に頭を垂れて、

「まさか、私の無知で渡した二輪の白百合の髪飾り……あれが、本当に手向けの花になってしまうとはね」

 そして背凭れに傘を引っ掛けて、「これも君に返さなければならないね」微笑んだ。

「今までありがとう。私を愛してくれてありがとう、愛させてくれてありがとう。君と交わした睦言や、時間はあまりに幸せ過ぎた。私には、勿体ないほどにね。……私は、これから、償いを始めるよ。君にも、悪かったと謝る。君には、幸せになって欲しい。だから、もう、帰るよ。さようなら」

 南雲が四阿を飛び出ると、その髪に雪は積もってゆく。それがやがて融けて、水粒となって落ちた時、ひと時の煌めきのあとに、霧散するのである。

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