五 猛火
◇
茉莉花は昨晩、考え事をしていたら眠れなくなって、それで結局、至極単純に、
「ねえ、演劇の主役、やっぱりやってもいいよ」
と五反田にあくまでも許しを与えるように言ってみせた。五反田は笑んだ。声を立てて笑んだ。それにつられて茉莉花も笑んでやった。そして五反田は襟足を弄りながら、
「そうか、それは嬉しいんだけど、すまない。――もう裏方だった人がやってくれることになって、キャスト完成しちゃったんだよね」
「え……」
茉莉花は、開いた口を閉じることも儘ならなかった。……なんだって、もうキャストは完成した? そんなことがありえるの、たった一晩で? 茉莉花の蟀谷にひとつ汗が流れた。それはまるで冷水のように、這った部分を粟立たせるばかりではなく、指先に、爪先にまで伝播した。もしかすると、誰かが謀ったのではないかと疑心暗鬼になった。そんなわけがない、五反田がまたしつこく勧誘をしているのを見かねた裏方の人間が回って来たのだろうと推測した。
「――でも、演劇に協力したいという気持ちがあれば、是非、裏方でもいいからやって欲しい」
「ちょ、ちょっと、待ってよ。……あれだけぼくのこと誘っておいて、それで、ぼくがこうして『やってもいい』と言っているんだよ」
「けれどもね、あの娘は、あれだけやる気があって、もう決まっちゃったんだよね。ああっ、神よ! そんな気持ちをっ、俺は裏切ることなんてできないっ!」
そう言って、徐々にまた喜色を呈する五反田だった。こちらに飛ばしてくる笑みのうち、その視線だけは鋭かった。茉莉花は半ば演劇への関心を無くしていた。珍しく彼女は焦りに焦っていた。冷静な判断などできずに、もしかしたらこれを逃すと、次にあの男に会うことは、非常に困難を極めるのではないかと思い立って、心ともなく、
「……いいよ、やる、裏方でいいから」
後に彼女が平生に戻ったと時、いくら嘲ても足りないことは明白であった。だが、それを自ずと理解できるまでに至るには、少しとばかり彼女の胸を焦がす猛火は、激しいのであった。
◇
ひとことに演劇と言っても、裏方とキャストのする活動は全く違う者だった。したがってあたら南雲に会うこともできずに、無感情に仕事をこなさなければならなかった。元も子もない話であった。
また、その仕事というのも、大概楽なものではなかった。茉莉花が回されたのは、大道具の作成だった。主に背景だ。巨大な方眼紙を幾つも繋げて、教室にぎりぎり収まるぐらいの一枚の背景として使用する。つまりはその背景に根気よくペインティングしていかなければならなかった。茉莉花が参加したのは、ちょうど背景の構図が決まって、いざこれから白紙に下書きをしていくところ、即ち初期状態だった。茉莉花が手に持つのは横十センチほどの刷毛。これを用いて、背景総数五枚を仕上げなくてはならない。茉莉花は既に気が滅入ってしまって、今にも刷毛を投げ出したそうな様子であった。
……こんなの絶対この人数じゃ無理でしょ。
背景紙の周りにいたのは茉莉花を含めて三人ばかりだ。
「南雲くんのところに行けばわかるかもしれない……」
茉莉花は四年教室を出て、キャスト達の練習する五階教室へと向かった。いざ扉を開けようとした瞬間。扉の小窓から覗いたのは、亜麻色の髪を肩甲骨のあたりまでおろし、薄桃色の清楚なワンピースを纏った、御堂朱莉の姿であった。彼女は、相も変わらず白衣に身を包んでいる南雲の腕を小さく掴んだ。
五反田の言っていた、裏方からヒロインに転化したのは、御堂朱莉で違いなかった。茉莉花は暫く扉の前で立ち尽くしていた。音は茉莉花のところに漏れてはいたが、耳に入ってしまうことはなかった。無音性の映像を観ているようだった。
「南雲さん背高いですね! えと……あたしが南雲さんの腕に抱き着く感じでいいですか?」
「あ、ああ、君も平均より高いがね。……しかしあまり結ちゃんはそういったことは恥ずかしがってしないのだがね……」
「ねえ、南雲くん、白衣は脱ごうよ……」
「なにを言っているのですか、松田先輩! これは私の私服です!」
「まあ、いいじゃないか桐子ちゃん。これぐらい外見に異様さがないと、とても高専共通パスワードに恋をするような頓珍漢には見えない」
「五反田! 彼女を頓珍漢だというのかね!」
「まあまあ落ち着いてくださいよう。時に南雲先輩、なんで高専共通パスワードとのラブコメなんですか?」
「ふむ、それはひとことに尽きるだろう。――可愛いからだ」
「……えと、具体的にどのへんがですかね」
「朱莉ちゃん、きっとそんなの説明されてもわからないから聞かない方がいい。聞いても長いだろうし」
「ん、なんだね。そうかそうか、そんなに聞きたいか、ならば話してやらないのは些か可哀想だろうね。よし、ここはひとつ珈琲でも淹れよう。長くなるからね」
「そんなの淹れないでいい。こんなところで駄弁っている余裕なんてないんだ。――おや、茉莉花さんかな」
「――あ、いや……裏方というか、大道具の人数少なくて、他に誰か居ないのかなあって訊きに来たんだけど」
「あ、マリちゃん、ごめん言い忘れてた! あたしもともと裏方だったんだけど、主役やることにしたから!」
「え、あっ、ああそうなの……。ふうん、それはいいことだね」
「うん! マリちゃんも遂にやる気出してくれたんだね! あたし嬉しいよう」
「すまない、茉莉花さん。これ以上の人数はまだ送れそうにないんだ。明後日から増える予定だから。それまではなんとか三人でしのいでくれると助かる」
「……そう。わかった、他の人にも伝えておく」
「香月くん、ありがとう。裏方も貧窮していたところなのだよ。本当に、助かる」
「え、ああっ、いいよ。好きでやることだしね」
「……なあ、朱莉。少し来てもらえるか、大事な話がある」
五反田の呼び掛けに朱莉は、構わないですよう、と首肯した。
◇
五反田は、南雲に茉莉花を見送るよう言い、自分は屋上と六階の間の踊り場に、御堂を連れ出しだ。随分としめやかで冷たい場所であった。見やった窓は、鈍色の雲が詰まっていた。リノリウムの緑が暗さを交えて濁っていた。
「祐希先輩……マリちゃん、演劇やる気あるみたいですよ。あたしなんかよりも、マリちゃんのほうがいいんじゃないですか」
「いや、そんなことはないんだ。君は今作のヒロインを務めるものとして、良い素質を持っている。モデルのように細身で背が高く、そして綺麗に鼻が通っている。きっと亜麻色のウィッグも違和なくつけることができる。……これは、彼女にはできない。もっと言えば、君にしかできない。その高い声も舞台ではくぐもることはない、安心して欲しい。それに、茉莉花さんは、ほら、ヒロインをあれだけやりたがらなかったじゃないか。あきらかにやる気のない彼女を舞台に立たせるのは俺らも、彼女も得をしない。それと――あれだ、秀くんも君がやることに絶賛していたしさ」
「そうなんですか……! わかりました! 精一杯やらせていただきます!」
「ああ、よろしく頼むよ」
五反田はまたもや冷淡な笑みを抑えられなかった。
◇
大道具の方に増援があったのは、あれから二日後のことだった。三人ぽっちのものだった。糅てて加えてようやく下書きが終わり、色を付け始められる段階にあった。それはこのまま滞りなく仕事を進められたとして、当日に間に合うことなどある筈もないのだった。五反田にこのことを相談するも、「探してみるよ」とだけ言われ、必然的に居残る時間も増えていった。
当初は六時半には帰れていたが、今や八時まで残って当然の空気。他の裏方たちは、「部活動が……」だとか「家庭上の都合が……」などと信憑するに足らない予定を口にして、部活動も親にも呼ばれることのなく、一年生にして裏方の長のような立ち位置に成りあがってしまった彼女は責任に押し潰されて、合理的になることが出来ずにいた。これもやはり、あの男の存在という石炭が、彼女の猛火に焼べられているからに違いなかった。
今日は特に酷いのだった。五人のうち、三人が「今日は用事があるからいけない」とメールを寄越し、もうひとりはなんの連絡なしに来ず、結果気の弱い四年の男子学生がひとりだけ、小一時間ほど手伝って姿をくらませてしまった。つまり現時点で教室には茉莉花ひとりだけであった。文句なんて言えやしない。もし文句を言ったとして、それで彼らが辞めてしまったら? ただでさえ人手不足だというのに、それこそ一身上の都合で、演劇界隈全体に迷惑を掛けるのは打算的に賢いとはいえないからだった。
人数よりも多く用意された刷毛と、まだ一度も開封されてない業務用の絵具が、妙に茉莉花を不安がらせた。そんな時、一本の電話があった。祖母からであった。
『茉莉花さん、今はどこに居ますか』
「……教室だけど」
『何年生のです』
「四年生の」
『そうですか、わかりました。……今から向かいますので』
「はい?」
――音を立てずに扉が開いた。そこから入ってくるのは、紛れもなく、茉莉花の伯母であった。痩せぎすな年増の女で、焦げ茶色のナイロンのロングコートに着せられていた。
「ど、どうしたの伯母さん……!」
「最近貴女の帰りが遅いですとお母さんに相談したら、連れ戻してくれと言われました。なにを……しているのでしょう」
茉莉花は演劇だと伝えた。伯母は教室内を一望し、ふう、と大きく息を吐いた。その表情は完全に呆れていた。
「貴女はそのようなことをしている場合ではありません。今日の授業の復習、明日の授業の予習、専門分野の勉強……まだお母さんから与えられたタスクはこなされていない筈です」
「それよりも、今、ぼくには、勉強よりも、やりたいことがあるんです」
「それは私に言われましても、困ります。ただ、やりたいことよりも、やらなければならないことが優先の筈だと。私はそれで苦労したんですから……」
「お願いです。どうしたって、勉強のようにいつでもできるわけじゃないんですから」
「……わかりかねます、学生で居られるのは、ほんのちょっとです。その間に完璧に勉強をするのに、少しも余裕なんてないでしょうに。それに、貴女はそんなことを言ったことはありませんでした、親の言うことを良く聞く良い子ではありませんか、勉強も随分と楽しんでやってるではありませんか……」
「――まだ誰か居るのかね。もう裏方の人たちは帰っても良い時間だろう……おや、茉莉花くんか」
「……南雲くん」
「あら、茉莉花さんのお知り合いでしょうか」
「同じ化学科の演劇で、お世話になっております。二年の南雲秀と申します。香月くんのお姉様でしょうか」
「いいえ、伯母の香月志保です。丁度良かったです、貴方から責任者の方にお伝えしてください。『茉莉花さんは演劇の手伝いを止める』と」
「……ほう。それはまた急な話ですね。やはり君のような非凡な人間には、裏方仕事はあまりにつまらないものだったかね」
「違う! それでも楽しかったんだ!」
「茉莉花さん……」
伯母は、困った風を漂わせた。それから、南雲に向き直って、
「お願いします、そのようにお伝えしてください」
「……彼女はそれを望んでいないように見受けられのですが」
「そうですね……。ですが、この子はこのようなことに加担している暇はありません。そう、彼女の母からは賜っております」
「彼女の意見に耳を貸さないのですか」
「私はこの子の伯母であり、母でもありますから。道から外れてしまいそうならば、導いてあげなければなりません」
「そうですか……」
南雲はひとたび俯いたかと思えば、途端顔を上げて、
「では、私もこの度は、彼女の意見を一切聞き入れません。――香月くん、こちらに来なさい。私は、私たちは、君の存在を必要としている。ハナから五反田が君にきっと言っていたように、君にやって欲しいのだよ」
「なにを勝手なことを……! 私はこの子の将来を心配して言っているんです、それがまあよくも赤の他人の貴方がいけしゃあしゃあと……」
「人間なんて無責任なものです。他人なんてもの、いくらでも利用します、だからね、利用されてくれないかね、香月くん。どうか、この通り」
と言って、深々と頭を下げた。
「貴方、プライドというものを持ってはいないのですか」
「私ひとりのちっぽけなプライドで、この演劇に携わっている皆が救われるのなら、いくらでも使ってごらんにいれましょう」
そう言って、にやり、とお道化てみせた。
「お願い、伯母さん。ぼく、勉強も両立出来るぐらいに、頑張りますから」
「……今更お願いだなんて知りません。貴女に自主性があったなんてことも知りませんでした。せいぜい、頑張るといいですよ……」
「伯母様には、感謝を申し上げます」
「……奪っておいて白々しい。けれども忘れないでください、この子を傷つけるような真似はしないで、必ず」
そう吐き捨て、伯母は去っていった。
「香月くん、君がこうして裏方の仕事をやってくれていることが、私は大変誇らしいよ」
◇
キャストらはその界隈で学生食堂に足を運び、肩の荷を取敢えず下ろし始める。ここで寮生らは本来寮食堂の方へ向かう筈であったが、今日の五反田は気前が良く、御堂を使わせて、彼らを学食に呼び集め、ひとりにひとつだけ振る舞ってやった。大盛も許した。サラダも、小鉢でもとにかく、嫌な顔ひとつ見せなかった。
茉莉花も裏方ではあったが、南雲の思し召しもあって、この場に混じることができた。だがしかし、この場に南雲の姿は無かった。それと、御堂もだった。彼女はそれに不安が芽生えてやまなかった。――散々不信感を抱いた挙句に、茉莉花は特別棟を飛び出した。
また、それを追う者もなかった。
◇
化学科の五年教室は、すっかり机も元通りに、ホワイトボードも隅に書かれている課題の期限以外綺麗に消され、月明かりを青白くはね返していた。そこへひとつ影が入った。男のものであった。男はミディアムヘアでその毛先をあちらこちらに揺らしていた。立ち止まると、ぼんやりと光の立つ白衣の裾の翻る様は、神々しくもあった。ちょうど彼は逆光にあった。表情はうかがうことができず、ただ小高い鼻先が銀色に照っていた。携帯を取り出した。メールには『少し待っていて欲しいです』とあった。
男は教壇の椅子に坐って、首を左に向け、戸口の小窓から月を見上げた。満月よりも、やや過ぎて、右側の縁が微妙に欠けていた。男はそれから目を背けた。月夜になると彼女のことを思い出しては、その掴んだ空気の冷たさに震える。こうして腰掛けた時の、彼女の位置を、未だ覚えている。このぐらい手を差し出せば、彼女の小さな手はこちらに寄り掛かり、握り返してくれる。このぐらい手を持ち上げれば、彼女の柔らかな頬はこちらの手を吸い寄せ、受け止めてくれる。そしてこのぐらい顔を寄せると、彼女の潤った唇がこちらの唇を捕らえ、口づけを交わしてくれる。そしてその熱は、昼のように明るい月夜に、そこへと現れ、抱きしめようとして、消えると、それはただの冷たい空気である。そんな時、いつも、男の前には、その眩しい月を背景に、それよりも遥かに目の眩むような輝きを被って、ぼんやりと消えてゆく――。またそんな時、彼女はいつも笑んでいる。涙を目尻に実らせ、懸命に持ち上げる口端を震わせ、男のことを拉げるぐらいに、強く、強く抱きしめながら。
……ああ。もし、もしも、もしかしたら、きっとこんなにも美しい月夜というのは、私のした罪悪から目を逸らさせないためのものなのかもしれない。それも、君の見ているようなところでさ。私は、君に会うために、あと何度ほど、この取り調べ室のスタンドライトのような白の下に照らされ続けなければならないのだろう。どうしてこんなにも辛いのかね。君を思い浮かべるたびに、私は段々と、君に会うことを咎められているようなんだ。
「……結ちゃん」
――だがね、それでも、会いたいのだよ。
そして、南雲は月を睨んだ。しかし、そんなものは、たった今くすんでいた。
――燦然たる月をも畏怖させる、純一無雑の煌星であった。
「――――結ちゃんっ!」南雲は駆け出した。そしてそのかたちを抱きしめた。
果たして、それは、確と、抱き留められた。けれども、南雲は決定的に違うのもだと瞬時にわかった。ただ、そうだとしても、南雲は、もう全くわからずに、泣きつくように、しがみついた。「……南雲先輩、あたしですよ」そう声が掛かっても、その腕の掴むのが弱まることはなかった。
――その時ちょうど、茉莉花は六階に上がって来た。静謐とした夜の校舎に、呻き声は良く通った。すると化学科の教室からはひとつの塊がふらふらと飛び出してきた。それは、抱き合った男女であった。男は長身痩躯で、白衣が月夜に眩しい。女は、華奢な胴体からすらりと手脚が伸びていて、亜麻色の髪は揺れて浮き立ち、このような寒い季節に、素足でフラットサンダルを履き、半袖のワンピースを装っている、その薄い桃色は月光に色を飛ばされ、白銀を呈していた。
「……南雲、結……」
茉莉花は息を呑んだ。
あの大人びた南雲が、女に包まれて泣きじゃくる姿は、未だ無辜の幼年期を思わせた。
茉莉花はただ月光が眩しくて、俯いているようにも見えた。――そのまま踵を返し、坂を下って、郵便局までたどり着くと、バス停で屈み込み、月をひとたび仰いでから、項垂れるのだった。彼女の手には緋色の蕾が残るばかりであった。
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