二 囀り
◇
野鳥の
「さっきはありがとう、けど、手持ちがないんだ」
彼女はさも同然だという様子であった。それに男は破顔して、
「構わないよ。百円ちょっとで麗しい女性と話が出来るなら安いものだ」
「成程、君は軟派かな。悪いけれど間に合っているよ」
「滅相もない、ちょっとした辞令さ」
「ふうん、じゃあ、ぼくが麗しいというのもお世辞なのかな」
そうだね……。男は口元に手を添えた。男の目は、彼女の全身を這った。その動きはさながら美術品を値踏みする鑑定士のようであった。
「それこそ滅相もないだろう。――緩いウェーブのかかったセンターパートの黒髪ボブ、銀の細縁丸眼鏡に、その紺の長丈のスカートとカーディガンは線の細い御身に良く映えていて、白地と思しき頬は淡く赤らみ、かじかんだ指先をカーディガンの袖口に潜り込ませて、時折それに息を吹きかけている時の横顔が頗る端正であり、また――」
「ああもうわかった!」
女の頬には、男の言葉に追随して赤みがさしていった。今やひとたび、ぽうっと、火がふき出してしまいそうであった。
「……それにね、いくらなんでもこんな山中に、ひとりの女性が眠りに落ちるというのは、些か物騒ではないかね」彼は少し長めの前髪を指先で払いながら、彼女を訝しんだ。
底に溜まった珈琲など落ちてこないと知りながらも、女はそれを傾けて、下げぬまま、
「いやあ、別にここで夜を越したわけじゃないよ。朝の山を散歩するのが趣味でさ、ついつい気持ちが良くて横たわりたくなったんだ」
「朝って……こんなにも早くにかね」
「そう。親が早く寝ろって言うせいで、こんなじじ臭いことが趣味になっちゃってね」
「成程、君は大層変わった人間らしい」
その時、女の蟀谷は微かに震えた。そしてやおら容器をおろしながら言った。
「君こそ――なんで白衣なんて着て朝早くこんな所に?」
「私もここらに散歩に来るのが好きでね。昨日早く寝たおかげで今日は早くに目が覚めてしまってね、コンビニで珈琲でも買って山道を歩いていたら、まさか君のような人が寝ているとは、全く、微睡の中にでもいるようだったよ。――あと、白衣はただの防寒具さ。薄手とも厚手とも覚束ないような時期には、もってこいの装いだからね」
男は紺のチノパンを穿き、ワイシャツに紺のベストを着つけ、脛の半分を覆い隠すほどの丈の白衣を羽織っていた。胸ポケットには油性マジックで小さく『南雲』と書かれていた。
「そうなんだ。……ジャケットか薄手のコートでも買ったらどうなの」
「成程。だがね、私は服装などには、とことん無頓着でね。実験着ならば改めて買う必要はないだろう。どうかね、倹約的だろう」
「貧乏性の間違いじゃないの……。でもその形、うちの高専?」
「ああ、裏手の。では君は私と同じ生物化学科だろうね。しかし、私は君を見かけたことがない。一年生かね」
「うん。君は?」
二年だ、と男は答えた。すると、先輩なんだね、と女はひとつの委縮や謙遜だとかをみせなかった。
「おや、敬語は使わないのかね」
「うん、ぼくそういうの嫌でさ」
「誠に同感だ」
「まあでも、君には、なんか敬語を使う気なんて起きないんだけどさ」
「誠に遺憾だ」
「ふふっ、冗談だよ。でも、敬語は使わない。いいよね」
「構わないよ。その代わり名前を訊きたい。私は、南の雲に、秀でるという字で、
「ぼくは、香る月に、マツリカっていう花の名前からとって、
「いい名前だ。確と覚えておこう。……しかし、この山には美人でも寄せ付けるなにかがあるのだろうか……」
南雲は勘弁してくれないか、と切に願った。誰へかといえば、勿論、彼自身であった。
「なにか言った?」
「いいや、運命だと思ってね」
「なに、結構恥ずかしいこと言うんだね……」
「毎日がエブリデイ……間違えた、毎日がホリデイだ。つまり、運命だとか、特別だとかなんてものは普通のものであって、それは遍く私たちの主観で変化するものなのだよ」
「ホリデイじゃただのニートだよ」
「え、あ! ……まあ、気にすることではないよ。どれどれ、私の誕生日はいったいどんなに特別な日なのか、ゴーグル先生に訊いてみようではないか。――ほう、『一・三三三……』とは随分と揚げ足をとるような真似をするのだね。まあ、いい。成程、将棋の公式戦で、初めて女流棋士が男性棋士から白星を挙げたようだ」
「将棋好きなの」
それに南雲は苦い笑みを浮かべて、
「いや全く」
◇
「君は何部なの?」
茉莉花には予想がつかなかった。彼女自身は部活動に加入することができなかったから、その類の話にはめっぽう弱いのだった。
南雲は小さく頷き――果たして、意表を突いた。
「私は文芸部だ」
「普段は部誌用に小説を書いている」
その風貌で……! 茉莉花は驚きを隠せずにいた。あっけらかんとしている彼女に、南雲は問うた。君は、と。
「ぼくはなにもやってないよ」
「成程ね。――時に、君はなぜ高専に入ったのかね」
そう彼が訊いた時、茉莉花は少しばかり憂鬱を顔に出した。否、抑えきれなかったのだ。
「……ぼくの両親はどちらも化学者でさ。問答無用で高専を受けさせられたよ」
「ほう、私も父親が化学者でね、就職先の安定から母は私を小さい頃から理科漬けにしてきてねえ……君の気持は痛いぐらいにわかるよ」
南雲は胸を押さえて、顔を綻ばせていた。それに茉莉花は添えた手から笑みを溢した。
「なんか似た境遇なんだね。はあ……ほんと、高専なんて入りたくなかったよ。君もでしょ」
「――いや、今ではそうは思わないよ」
「え、なんで」
「私はこの高専に入学したおかげで、大切な人に出会うことができた。この革靴も彼女に貰ったものなのだよ。……あまり汚したくなかったのだがね、良い靴だからどこでも歩きたくなってしまう」しかし彼が微笑みながら語る様子はやもめのようであった。その足の焦げ茶の革靴には少しの泥がはねていた。
「へえ、彼女さん居るんだ」
「はは、なんとも、そう言っては差支えがあるのかもしれないね……」
「――南雲くん。君、なかなか面白い人だね。ぼく気に入ったよ。ねえ、またここへ来てくれないかな」
「ああ、暇を見つけて来られるようにするよ」
南雲はそうしてまた綻んでみせた。
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