汚れた顔の天使と悪魔

○比翼雫は、その人のことを考えるだけで泣けてきた。


「なぜ、あなたは笑っていられるんだろう?」


 疑問。


 彼は死をも厭わないほどに狂えるから、その行為が正義だと信じられたのだったが、その思考理念が雫には理解のできないものだった。


「そんなに簡単に他人の罪を背負える人なんて、この世にはいないわ」


 雫の問いは空をきるだけ。

 彼の心には届かなかった。

 彼の名前は楓晋哉。

 彼女にとっては赤の他人。

 少なくとも当時は赤の他人だったのだ。


「もう十五年も前のことで、法的にはもう咎められることもないんだけれども、ボクは人を殺したんだ」


 と雫。

 彼女は人付き合いが得意な人間ではなく、以前、外見で眼を付けられたというだけで、見知らぬ男に犯されそうになったことがある。


「そのとき、抵抗して突き飛ばした相手が壁に頭をぶつけて死んだんだよ」


 それ以来、彼女は自分のことをボクと呼ぶ癖をつけていた。


「あなたのことは、よく知らない。

 だけど、あなたはボクを救ってくれたんだ」


 やぶけた衣類をまとっていた彼女は、自分が何処にいたのかなんて解っていない。

 ただ必死だっただけ。


「自分が拉致されるなんて思ってもいなかったから。

 ボクの頭が緩かったって自覚もあるよ。

 だけど、そんなボクを守ってくれる人間がいるなんて、それ以上に信じられるものではなかったからさ」


 彼女は人通りの少ない山頂にある小屋に連れ込まれていたのだった。

 無闇に逃げだした彼女が舗道を見つけたのは三時間後、さらに舗道に沿ってバスの停留所を見つけたのは一時間後、そこに立っていたのが晋哉だった。

「ボクは他人が怖くなっていたから、人影を見つけると逃げだそうと思っていたんだ。

 だけど泥まみれでさ、ひどい汗をかいていたし、体力が限界に来ていたんだよ。

 だからボクは気を失って、倒れたんだ」

 晋哉が彼女を介抱したのは、暇を持て余していたからだった。

 当時の恋人に別れを告げたばかりの晋哉。

 旅行の途中で、彼女から車を降りるように言われ、山の上に置き捨てられて其処に立ち止まっていたのだった。


「全部を話したんだよ。

 すこしでも誤魔化したり嘘をついたら助けては貰えないような気がしたから。

 彼はすごく、冗談の通じないような真面目な雰囲気があったから。

 もちろん、冗談を言うつもりなんてボクの方もなかったけどさ」


 くるしいのは、おたがいさま。


「彼は、ボクに同調してくれたんだ。

 だから罪をかぶってくれたんだ」


 彼にとって命は必要不可欠なものではなかった。

 たとえ、いま死んでも後悔はない。

 そう思い始めたのは、もう随分と昔のことだった。

 幼い頃、子供部屋の窓から見あげた雨空は窒息するほどに息苦しくて、そんなことを考えていた頃には既に、この世の中に飽き飽きしていたのだった。


「もしも、あのとき、俺が、おまえの代わりに自首をしなくても、俺は警察に捕まることになっていたのさ」


 と楓晋哉は自嘲する。


「それはどういう・・・?」


 比翼雫は彼の眼を黙って見つめている。


「うまく言えなかった。

 愛しているって白々しい言葉が。

 だから彼女を傷つけた。

 彼女も俺を傷つけた。

 あらゆる過去の清算と決別のため、俺は彼女を殺すしかなかったんだ」


 眈々と語を連ねていく彼の体は震えていた。

 自分の感情を抑えることができないのだ。


「人を殺したって良い人はいるよ」

「人を殺す人間が良い奴なわけがない」

「キミは彼女を殺してはいない」

「今、殺しにいこうと決意していたところだ」


 これ以上にはないというほどの強烈な痛みがあるとすれば、それは肉体にではなく、精神に響くものなんじゃないだろうか。

「共鳴しているんじゃないだろうか、ボクたちは」

 夢うつつ。

 そんなことは日常茶飯事。


「十五年は、けっこう長いよね。

 ボクも人並みに学校をでて就職して、恋をしたりもしたんだよ」

「それで、君は幸せだったのかい?」

「ボクはいつも幸せだったよ。

 家族の愛にも恵まれていたし、職場にも友人にも悪い人はいなかった」

「それは幸せだな」

「だと思う?

 本当に?

 世の中に、なんの不満もない人間なんていないんだよ。

 ボクにだって、あなたにだって、眼には見えたり、手には取れたりとか、そんなに確実なものじゃなくたって生きているって意味があるんだよ。

 だから、それだけでボクは不満を諦めることができるのさ」


 と雫は笑う。

 晋哉は、どうだろうなと首を傾げて見せていた。

 彼には不確かだったのだ。

 自分の存在意義すらも、彼には無意味な重荷にすぎなかったのだ。


「俺には生きるってことが解らないんだ」

 と自嘲。


 彼が罪を償って青空を見あげたのは情状酌量があり、模範囚であったことも大きかったが、それでも彼の心が晴れないのは、彼が今も悩んでいるからだ。


『こんな自分など誰が受けいれてくれるものか』

 という理由。


 だから彼を迎えた比翼雫を、彼は女神だと見誤り、縋る想いもあったのだが、彼は強情を張ったのだ。

 彼女とは別れ、知己の友人を頼ることにした彼。

 それでも、彼には誰もいなかった。

 旧知の友も窮地には厳しい。

 彼は一人で生きる術を考えなければならなかったのだ。

 しかし、人生は苦しい。

 彼は身寄りもいなかったから、身を寄せることのできる相手もいない。

 彼は再び人でも殺めて戻ろうかなどと、そんなくだらない思考に捕らわれはじめていたのだった。

 それと、同じくらい確実に彼を捕らえている思考もある。

 彼はコンビニで買ってきた安物のカミソリを手首に当ててみる。

 それを試しに引いてみた。

 皮膚に線がはいると、プツプツと小さな気泡が浮きあがり、そこから血が流れでる。

 なるほど、もっと強く刃を食い込ませて刺しこまなければ、動脈どころか静脈にも届かないものなんだなと納得しながら、彼はもっと深く死を実感したいと考えた。

 それから一日、まだ踏ん切りがつかないでいる彼は、やはり自分の可能性を諦めきれないから、未来に夢を見ていたいから、自分を滅ぼすことができないのだった。


「だれか俺を殺してくれ。

 そんな勇気が俺にはないから」

 彼が紛れこんだのは、かつて殺人があったと噂の非合法な連中が呑んだくれるために集まるライト&シャドウというバーだった。

 誰も彼のことなど知らない店で、彼の苦悩など解るものがいる筈もない。

 だから誰も彼を相手にはしていない。

 彼のことを笑っても、彼の話に耳を傾ける人間は誰もいない。

 そう、彼を除いては誰もいない。


「どこかで飲んで来られたのですか?」


 それはバーの店主ダラー・プラッチフォードだった。

 彼は元軍人であり元ボクサーだったとか。

 今は片足を無くして松葉杖をついている。

 年は六十に近かったが、物腰が柔らかく誰からも愛されてきた男だった。

 だから、その情けを彼にもかけてあげたかったのかもしれない。


「いや。

 ただ刑務所で過ごしてきただけで、このまえ其処は出たのだけれど、俺には行く場所がない。

 何をしたらいいのか解らない」

「仕事は紹介して貰えなかったんですか」

「それは刑務所がってことか。

 たしかに、そんな話はあったんだが、自分にはまだ仲間がいると思ったんだ。

 だけど、そんなには甘くはなかったんだ。

 何処にも、俺を受けいれてくれる人間なんかいなかった。

 俺は身の程を知らなかったんだ」

「それは一つ利口になりましたね。

 それだけでも価値があると思いますよ。

 だから次のことを考えてみればいいんです」

「俺には何をする気力もない。

 もはや魂さえも無力だと俺には理解できたんだ」

「いいえ。

 そう悲観するばかりではなく、まずはお酒を呑んでくださいよ。

 リバイバーカクテルには自信がありますから」

「俺には酒なんて不要だよ」

「それでも一杯。

 これでも一応、飲み屋ですからね」

 とダラー。

 彼はオリジナルのカクテルで彼を持てなすことにした。  

「これは?」

 琥珀色のカクテルにダラーは『portrate of the sky』と名づけていた。

「可能性ですよ。

 最後に残された唯一の希望」

「パンドラ?」

「そう。

 これは呑む人の感性に委ねられたカクテルです。

 あなたが、そう思うのなら、このカクテルは、あなたにとって、そんな名前をもっているのでしょうね」

 と、訳のわからない説明をした。

 楓晋哉は、それを一気に飲み干していた。

 



○ボクの世界は色褪せていた。

 涙の痕も、心の傷痕も、もはや数え切れないほどボクは痛みに耐えて生きてきたのだ。

 だから救いを求めているのだと自覚もある。

 モノクロの境界線の内側で、五里霧中の彼女は手探りで、無闇に人肌を求めていたのかもしれない。


「愛情なんて紙一重だよね。

 涙の言い訳も浮かばないよ。

 自分の心に言い訳なんて、ほんと出来るわけないのにね」

 と言ったのは比翼雫。


「後悔なら他でやってくれ。

 べつに、んな話は聞きたくないんだ」

 と言ったのは斐月要。

 互いに無愛想な二人だが、斐月の方は似合わない眼鏡をつけていた。

「それが本題だってのなら、俺には興味のない話だな。

 それに・・・

 苦手なんだよ。

 失せモノ、さがし人の類はな」

「じゃぁ、なにが得意なんだよ、あんた?

 下着ドロボーとかだっけ?」

「冗談には聞こえないぜ」

「冗談じゃないって。

 ボクはいつだって本気だからな」

 と比翼雫。

 彼女の眼は始終、真剣そのものだった。

 だから斐月は彼女を無視することができなかったのだ。

「まぶしい夕日に泣きたくなるなんてセンチなこと。

 たぶんキミにはないんだろうね。

 だけどビジネスとして、ボクを無碍になんてあっちゃダメだと思うんだけど」

「あいにく俺は金をもらって働いている人間じゃないんでな。

 クライアントと案件の取捨選択の自由ってものがあるんだよ」

「ボクじゃ不満だって?」

「かもな」

「報酬はお金じゃないって言ってなかった?」

「言ったかもな」

「じゃぁ、カラダが目当てってことなんじゃないのかな」

「とは言った覚えがないんだよ」

「って、どういうこと?」

「報酬は、まったく別のモノを違ったカタチで貰うつもりなんだよ、俺は」

「つまり、それが手に入らないと?」

「と言うことだ」

「それって何さ?

 何を満たせばキミはこの案件を取りあってくれんのさ」

「んなものは決まっている。

 誰だって空腹には耐えられない。

 俺が満たされたいのは心だけだ」

「こんなにボクが必死で頼んでいるのに?

 苦しみに耐えきれず救いを求めてさしだしたキミを君は見過ごしたりできるのかい?」

「んな奴は幾らもいるさ。

 俺が関与する事もない」

「でも・・・

 お願いだよ。

 君にしか出来ない事ってあるじゃないか。

 もしかしたら、これが世界の命運をわけるような大事件に発展するかもしんないんだし」

「それはないと保証するよ。

 それに俺が引き受けないのは、もっと他の理由だよ。

 行方も知らせずにいなくなったということは、彼の方が探してほしくはないからじゃないのか?

 俺はそう思うんだ。

 だから、俺は気が進まないんだよ」

 と斐月。

 彼の言い分が解らない雫ではなかったが、彼女は自分を止められない。

 抑える術を知らないのだ。

「それでも構わない。

 キミにお願いしたいんだ」

「俺の噂を知らないのか?

 慈善事業はした事がない」

「知ってるよ。

 金のためなら、どんな非合法なこともする。

 虚偽も偽装もお手のものの悪徳探偵なんだってね」

「わかってんじゃねぇか。

 クライアントに忠実とも限らないぜ。

 他を当たることを勧めるよ」

「ボクだって、できることならそうしたいさ。

 だけど、誰も手を貸してはくれなかった。

 誰も、彼を見つけだそうともしないんだ」

「俺の古巣には行ってみたか?

 お人好しのお姉さんがいる筈なんだが・・・」

「ムリだよ。

『名前のない探偵事務所』は身内の依頼を受けつけないだろ」

「って事は、あんたは彼処の従業員って事か?

 だったら自分でケリをつけるんだな。

 それが彼処の社風だぜ」

「でも、自分ではどうにもできないってこともあるじゃないか。

 ボクでは彼を見つけることができないんだ。

 そんなに遠くには行っていないとは思っているんだけど・・・」

「その根拠は?」

「女の勘って言ったら呆れる?」

「いや。

 べつに・・・それが重大な要因になることだってあるからな」

「そう言ってくれると何か気が晴れるかもしんないよ」

「だが、そんな話は俺にとって何の価値もない。

 どうしてもと言うのなら他を当たるんだな」

「だから何処へ?

 もう考えられないんだよ」

「俺が知るかよ」

「もしもボクがメチャクチャして殺されるようなハメに陥ったら目覚めが悪くなると思うんだけど」

「そうなる前に手を引くことだな」

「ひとでなし。

 最低だよ、キミは」

「よく言われるよ。

 まぁ、軽い暇つぶしとしては気にかけておいてやる」

「それって引き受けるってこと?

 そう解釈してもいいのかな」

「勝手にしろよ。

 とりあえず俺は呑みにいくところなんだ」

「捜査開始ってやつ?

 事情聴取だったらボクもいこうかな」

「いや、丁重にお断りしておこう。

 だから、おまえも過度な期待はしないでくれよ。

 俺には何の力もないんだからな」

「それでも・・・

 期待せずにはいられないかも」

「おまえバカだな」

「うん、解っている。

 ボクはバカなんだよ」

と雫は自嘲して笑っていた。



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