育愛手記

なかoよしo

第1話 唯識

今となっては、もう昔の話になるが、唐という国に父親を亡くして途方に暮れる少年がいた。

まだ十歳の彼には人生の不安が重く、のしかかって思うのだった。


僧になって生きるしか道はない。


と。


世界は貧困に喘いでいる。


その日暮らしでも幸せなのだ。

ただ生きて、日々をやり過ごせるならば、それだけで。


しかし、そんな人生に何の意味があるのだろうか。

生活も神経も貧しいだけなんて我慢がならない。


彼は科挙(試験)を受けて僧になるため努力した。

それこそ死ぬ想いで勉強した。


「年齢制限もあるし、国でも五本の指に入るくらい頭がよくなければダメだ。

君のような雑種が科挙を受けること自体、国家への冒涜じゃないのかい」

と責める者も少なくない。

出自の貧しい彼にとって、世間は冷たく、味方は誰もいなかった。

だからこそ、反骨精神が強い青年になった。

孤独だから、やり遂げたと言える。


十数年後には彼は僧として仏教を学んでいた。


そして、さらに数年後。


誰にも許されずに生きる。

その覚悟によって、彼は一生の孤独を受け入れていたからこそ、誰もが抱かなかった疑問に立ちどまる。


「なぜ、おなじ仏教なのに考え方がひとつじゃないんだろう」


彼は疑問の追求を怠らなかった。


誰にも求められてはいない自分は、他人のために生きることはできない。

ならばいっそ、死をも覚悟して、己の道を追求するべきではないのだろうか。


「仏教発祥の地で、本来の仏陀の言葉を学び、真実の言葉で貧困の国の心を救済する事ができるのではないでしょうか」


それは無謀な絵空事だった。


国家も許可を出さなかった。


わかりきった事だが、国抜けは死罪。

だからこそ、生命がけでやる価値がある。

大義名分としての『救済』を大風呂敷に、彼は誰にも認めてもらえない旅を始めることになる。


もう後戻りは許されない。


不東。


その言葉を胸に彼はひたすら西に向かった。


連れは一頭の痩せ馬だけ。

絹の道を何度も行き来していると聞いて、投げうった私財の使い道のひとつになっていた。


そうして旅をはじめたのだが、予想どおり過酷な道すじ。

貧困には慣れていたが、身体を動かす事には慣れていない。

神経毒の様なものに気をやられて、何度も発狂しそうになる。

関所を避けるために、敢えて、けわしい道をいくしかない。

それも苦行に等しかった。


「しあわせにはなれませんでした」


僧侶が病に伏せている。

それは路傍の石の様だった。

見過ごせなかったのは単に気まぐれだった。

その僧侶は彼の腕の中で息を引き取った。

死に際に経典の巻物を彼に手渡して。


「しあわせにはなれませんでした」


僧侶の付き添いの女が言った。

彼は病に詳しいからと薬を調合してみたが助けることはできない。

最後には思いもよらずに涙がでた。


「あと数年は必要です。

もしかしたら十数年。

あるいは数百年後。

とはいえ、世の中は変わります。

それをするのが自分とは言えませんが」


と、その答えは出せなかった。


なんの自信も根拠もない。

成果を誇る事も出来ないんだ。


彼は旅を続けるしか道がなかった。


魂と踵を削り、すり減らしながら、その先の不確かな未来を目指して進んだんだ。


死の砂漠・タクラマカン。


なれぬ道に手をすべらせて、水筒をおとして砂漠に水を吸わせてしまった。


それが昨日の事となり、先日の事となり、先週の事、先月の事・・・


日は無闇に通り過ぎていく。


絶食は幼き頃よりの日常だったが、断水には意識が殺られて、己が内から壊れていくのを感じていた。


そんな時だ。


彼は死んだ男から譲りうけた経典を手にしてみた。


般若心経。


数珠を数えながら声に出して読むと不思議と苦難が軽くなる気がした。


そして、運命を受け入れるかの如く、自分は死ぬのだと実感していた。


こわくはないの?


「ああ、もう大丈夫だ」


どうやら死ぬには、まだ無駄話が足りないようだ。


痩せ馬に声をかけて、会話をしていた。


頭がどうかしていた訳じゃない。

森を見つけたから安心したのだ。

「お前のおかげだよ」

痩せ馬がそれを彼に知らせたのだ。

絹の道を何度も行き来してきた馬だからこそ、私を救ってくれたのだなと彼は感謝した。


そこは小さな王国だった。


思いもよらずに歓迎されて、得意になって、説法していると王様に呼ばれて仕えるように命令される。


王は彼のような高僧を身近においておきたいといったが、人間さえもコレクションにするのは間違いだと彼はそれを断って牢獄に捕えられてしまった。


ここで死んでしまうのだろうか。


彼は断食をして、自分の身が滅んでも構わないという意思表示をして対抗した。


それが幸を制し釈放される。


ついでに道案内に何人かの配下と食糧を融通してくれた。


彼は思った。


「旅をはじめた頃は、外界は魑魅魍魎が跋扈する妖怪の巣だと聞いていたが、私の道を遮っていたのは、いつも普通の人間でした。


そして、私を助けたのも、いつも普通の人間でした」


と、自嘲のような呟きだった。


さらに幾月。


ようやく目的地に着いた。


バーミヤンの巨大石仏もみた。


三年がかりで着いて、三十歳になった。


何度も盗賊やならず者に傷つけられもしたが、辿りつけたことが良かったと、彼はそう思ったのだが、彼はインドの実態を知らなかった。


仏教は、千年の歴史の中で無数の宗派が乱立して、仏教以外の外道という教えまで存在していた。


また仏陀が悟りをひらいた菩提樹の下には菩薩像が転がっている始末。


様々な寺院や仏像が破壊されている。


そんな最中、シーラ・バドラという老人に会ったのはインドの僧の紹介だった。


百歳の老人だった。


三年前に仏陀からお告げを頂いて、彼を待っていたという。

彼は老人の勧めでナーランダーに腰をおちつける。

それから、十二年ほど仏教の神髄を求めて勉強した。


色即是空。

空即是色。


目に見える現実は、すべて頭の中でつくりだしているだけに過ぎない。


それを悟った彼は唐への帰郷を決意した。


同じ年月を要したが、帰りには協力者が存在した。


国法を破ってきたので罪人として処罰されることも覚悟はしていたが、民衆の心の救済を目的としての旅だったと、皆は彼を歓迎した。

それが国をあげての事だと知ったのは皇帝にお目取りしたからだった。


如何様な処分もうける所存ですと話す彼にたいして皇帝は言った。


出家したあなたに俗世界の法律など適用しませんよと、彼の活動を支援してくれた。


彼は仏教の正しい教えを広めるために仏陀の経典を翻訳する事に残りの生涯を費やす事にした。

真実唯一の仏陀の言葉を。


実際に彼は死ぬまで、それをやりきった。


それが彼の人生だった。


いったい、私は何者なのだろう?


と、常に、そんな事を考えながら。



人生は終わる。



ただ生活に追われ、誰とも絆を築く事はなく、痛みと苦しみ、絶望だけを自分の中に閉じ込めて、感情を露にする事もなかった。


彼は死んで極楽に辿り着けたのだろうか。


ただ遺骨は行方不明になったり分骨したりと、さらなる旅を続けたのだ。


彼の幸せとは心の救済にあった。


もちろん、そこには自らの幸せも含まれる。


彼の心は果たして救われたのだろうか。


俗名は陳褘。


そして、戒名を玄奘という彼の心は。


未だ尽きせぬ痛みの中にある。



自分とは何者かも解らぬ彼は、今も救済を求めて、やがて英雄と呼ばれるのだった。

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