愛のカタチ
解説書
愛のカタチ
ここは辻第一高校。一見どこにでもある普通の高校だ。まあどこまで見たところで何の変哲もない普通の高校だ。
「ねえねえ、相馬、私の話ちゃんと聞いてる?」
「ん?ああ聞いてるよ」
「そう?ならいいんだけどね、それでさっき言ったサキちゃんが……」
僕、こと相馬は唯々退屈な文字の並んだ本を読む。梨穂子はそんな僕の横で心の底からどうでもいいとしか思えない話を延々と話し続ける。
僕が読む本に彼女が興味を持つことはない。なぜなら彼女には難しくて理解できないから。彼女がする話に僕が興味を持つことはない。なぜなら僕には理解できないから。
いつも通りの普通の光景。
僕が話を聞かず、適当に相槌を打っていてもどうでもいいことであるのでこのいかにもかわいい現代風の女の子はいちいち気にはしない。ただ一人で話している頭のおかしい人だと思われるのが嫌なので、彼女は僕に問いかける。
僕にとってもこの目がくりくりした愛らしい小動物のような幼気な少女のファッションの話や、少し性格が悪いのだが根はいい子だと話す彼女のどう考えてもただ腹黒いとしか思えない友達の話など、どうでもいいことなのでいちいち理解しようとはしない。ただ彼女と話すことができているという事実が欲しいので僕は彼女の話に適当に相槌を打つ。
僕は基本一人でいることを好むとはいえ、年頃の男ではある。なのでやはり可愛い女の子と話したい年頃ではあるのだ。だが、羞恥心が邪魔をし気軽にそんなことなど出来はしない。だから何もしなくても話しかけてくれる彼女の存在は僕にとってかなり大きいのだ。
そんな僕に話しかけてくれる彼女は可愛い。この世界にもし神がいるならば神はその恩寵の振り加減を間違えたのではないかというほどには可愛い。そしてそんな彼女には何もせずとも暗闇の中に一つぽつんと佇む柔らかな街頭の明かりに群がる蛾やカブトムシ、その他諸々のように上から下まで多種多様なものが集まってくる。そんな彼女にとって幼馴染である僕はいい虫除けになるのだ。
そしてつまりこの関係はおたがいにとってウィンウィンなのである。
◇
学校帰り、僕は梨穂子と連れ立って歩く。日が沈みかける夕闇の中、小さく柔らかい手のぬくもりが僕の手のひらを通じて血液のように体の中を駆け巡る。
もうお気づきの方もいるかもしれないが、僕らは恋人である。
高校一年生の時のバレンタインデー、僕の靴箱には白い手紙が入っていた。その手紙に書かれていた場所に行くと、その時学校一番の美少女ではないが、ある一定数以上のファンはいるであろうと思われるぐらいの可愛さと儚さを身に付けた、よく見知った少女が立っていた。彼女は、あなたのことが好きです、と言って僕に頭を下げた。後で思えば、ここで好きだから何なのかと問い返したほうがよかったのかもと思ったが、何分僕にとって初めてのことであったので、僕もあなたのことが好きです、と言って僕と梨穂子は無事に世間でいうところのカップルとなった。
そしてその出来事があってからは、僕と梨穂子は毎日のように連れ立って帰る。
そんな幸せな毎日の延長のようなある日のこと、彼女は帰り道に僕にこう言った。
「ねえ、今日うちに誰もいないからちょっと寄ってかない?」
僕はこの言葉を聞いたとき、ついにこの時が来たのかと思った。もちろん僕だって男であるので、こういったことには憧れている。だがこの時ばかりは少しばかり不安のほうが勝っていた。男であるからにはエスコートしなければならない。そんな気持ちがあふれ出る僕の心の内など知るはずもなく梨穂子はいつものように、下手したらこの時の僕にとって宇宙で一番どうでもいい話を相も変わらずそのきれいな顔と声で動かし揺らし、話し続けていた。
そうこうしているうちに梨穂子の家に着き、僕は彼女の部屋にいた。
彼女の部屋はなんとなしに甘い匂いがした。まるで彼女の声を匂いに変えてみたかのような、そんな何とも言えない甘い香りがした。
そんな部屋の匂いを味わっている僕の横に梨穂子が座り僕の肩に頭を乗せもたれ掛かってきた。
より匂いが強くなった。頭の奥のほう、首と頭の付け根のあたりが痺れたかのようになって何も考えられなくなった。
僕は梨穂子のほうを向いた。
梨穂子が僕のあるのかどうかも怪しい心を鷲掴みにしようとその大きな目に愛しさを湛えてこちらを見つめ返した。
僕と梨穂子の顔がゆっくりと近づく。そして互いの顔の薄い粘膜を重ね合わせ、相手がそこにいることを確かめるかのように練り合わせた。
そして顔が離れる。
僕と梨穂子は再び互いに見つめあう。
僕の手が梨穂子のほうに伸びた。
梨穂子も同じように僕のほうへ手を伸ばした。そしてその手は僕の腕をつかんだ。まるでその手から逃れることを望むかのように。
僕の手は梨穂子の白く細い首を握っていた。
僕であり僕ではないその僕の手は、細くもろそうな梨穂子の首を握りつぶそうとしていた。
涙の溢れてきそうな梨穂子の目が見える。その目は驚きと恐怖と、そして悲しみに満ちているように見えた。
僕は目を閉じた。
これ以上、梨穂子が苦しむ様子を見ていられなかったから。
そして手の中の確かな手ごたえに、より一層強い力を込めた。
「だず、、け、、、」
潰れた蛙のような音が梨穂子の喉から聞こえた。
「うんうん」
でも僕はそれをいつものように聞き流した。
だって、梨穂子の話は僕にとって何時だってどうでもよかったから。
僕の手を掴む梨穂子の手がだらんと垂れ下がった。
僕は念のため、それから体感で五分ほど首を絞めていた。
僕は小柄で愛らしかった梨穂子だったものを僕のリュックサックに詰め、梨穂子の家を後にした。
そして僕の家の裏庭に埋めた。
その後、梨穂子の失踪は小さなニュースになったが特に取り沙汰されることもなかった。
僕も何度か警察に事情聴取を受けたものの,不思議なことに何のお咎めもなく、むしろ同情される始末であった。
そうして僕にまた孤独で一人ぼっちの平穏な日常が戻ってきた。
◇
あれから時は過ぎ、僕は大学二年生になった。
入学してからしばらく、一般的な大学生と同じように、単位を落とさないための勉強に勤しみ、だらだらとサークル活動をし、資格の勉強をしなければと思いながらもどんどん先伸ばしにするような堕落しきった大学生らしいと言えば大学生らしい生活をしていた。
そして、そんな生活が一年ほど続き、終始僕を襲う気怠さにも慣れてきた。
あれは少し雪の降る冬と春の間くらいの時だった。
他の大学生と同じようにその日もバイトダルいなーと思いながらバイト先であるスーパーに行った。
そしていつものようにレジ打ちをしていたとき、
僕は恋をした。
夜の八時頃早く上がりの時間にならないかと時計を見上げた視線の途中に彼女はいた。
白いニットカーディガンとベージュのゆったりしたパンツを着ていた。
髪型は最近流行りのゆるふわショート。肌は雪のように白く透き通り、その目の輝きは光を放ちながらも全てを吸い込むような得も言えない不思議な感覚を呼び起こすようであった。そしてその雪原に差された紅は僕の心を撃ち抜いた。
彼女が僕の方へ歩み寄り、ココアをレジのカウンターに置いた。
「138円になります」
レジを通し、僕が金額を読み上げると彼女は無言でキャッシュトレイに150円を置いた。
無造作なしぐさもこの時の僕にとっては少ない記憶容量に刻み込むに値するものであった。
「12円になります」
僕の手は少し震えながら、十円玉を一枚、一円玉を二枚、レシートと共に彼女の方へ差し出した。
やはり彼女は無言でそれを受け取ろうとした。
その時、彼女の指先が僕の手に触れた。
その瞬間、僕の体に電流が走り、そこから心地よい暖かさが体中に広がっていくのを感じた。
一瞬彼女が僕の目を見た。
僕の心は彼女の目に吸い込まれていった。
◇
その日から僕にとってバイトの日はダルいものではなく、何の刺激もない日々の生活においてかけがえのないそして、代わるもののないものとなった。
ウィィン
彼女はだいたい八時頃に来る。八時より遅いこともあるが、早いときもある。
買っていくものはまちまちだ。食料品などを買っていくこともあるし、シャンプーを買っていたところを見たこともある。お酒や冷凍食品を買ったところは見たことがないのできっとあまり好きではないのだろう。
服装はだいたい薄い色で統一されている。だがいつの日も僕からすれば彼女が彼女である限り、この世のどんなものよりも美しく、純粋で、可愛い。
声は未だに一度も聞いたことがない。どんな声なのだろうか。鈴のようにコロコロとした声なのだろうか。それとも少しハスキーな甘い声なのだろうか。どんな声であっても彼女に似合うものであることは間違いない。
そんな風に彼女に想いを馳せ、愛しむ日が一ヶ月ほど続いた日のことだった。
僕はその日八時までのシフトだった。その日は彼女を見ることができなかった。少々落胆した気持ちで僕は着替えを済ませ、スーパーの入り口を出た。
その時だった。
「やめてください」
「いいじゃんよ、なあ?」
女と男の言い争う声がした。
いつものバイトに疲れた僕であったなら、ここでその争いのほうへ向かいはしなかっただろう。
だがその日の僕はいつもとは少し違った。
彼女を見れなかったからかもしれない。
バイトに行く途中で自転車のチェーンが外れたからかもしれない。
なぜかはわからないがその日の僕はその言い争いの声が聞こえるほうへと向かった。
そして彼女が見知らぬ薄汚い男に腕を掴まれているのを見つけた。
見つけてしまった。
「おい、やめろよ」
気づいたときには僕の口から制止の言葉が飛び出していた。
「なんだよ兄ちゃん? 彼氏かなんかか?」
薄汚い男が黄色い歯とぼろ切れのような唇を動かし、カビたパンのような顔面にこびりついた頑固な汚れのように下卑た笑みをくっつけ、自分の行動に混乱している僕に言った。
その言葉に僕は何も言い返せなかった。
固まったままの僕に対して男は図に乗ったのか、今度は激しい口調でこう続けた。
「彼氏でもねえんなら引っ込んでてくんねえかな?! こっちは取り込み中なんだよ?!」
その時、透き通ったガラスのような声がした。
「助けて」
その時僕の中で何かが弾けた。
体が勝手に動き出す。
足が前へと進んで行く。そして男が彼女の腕を掴んだまま呆然としているところにドが付く素人のとはいえ、体重の叱り乗った右ストレートがきれいに決まった。
男は思ったよりも軽く、後ろへ勢いよく飛んだかと思うと地面へぐしゃっと崩れ落ちた。
僕は逸る心臓を抑えつけ、彼女のほうへ振り向いた。
彼女はやはり足跡のついていない雪のようで、僕の好きになったそのままの姿でそこに立っていた。
澄み切った宝石のようなそれでいてすべてを吸い込む闇のような瞳から発せられる視線と僕の少し熱を帯びた視線が交わった。
どのぐらいの時間そのままでいたのだろう。
何時しか僕の心臓は平常運転に戻っていた。
そして僕はふと我に返り、人を殴ってしまったこと、そして夢にまで見た彼女と夜、人目の少ないところで二人きりになっているという恐ろしいような素晴らしいような信じがたいような現実に気づき、急いでその場を立ち去ろうとした。
「待って」
だが立ち去れなかった。
僕を呼び止める声がしたから。
今度は振り返ることもできず、その場に固まった。
そしてそんな僕に彼女は言葉を続けた。
「ありがとうございます」
その言葉に僕は何と答えたらいいかもわからず、とりあえず後ろを向いたまま頭をぺこりと下げ、そそくさと立ち去った。
自転車を取りに帰るのもカッコ悪いのでその日は歩いて帰った。
◇
「あの、こんばんは?」
僕は目の前の光景が信じられなかった。
あの日から一週間経った。
あの出来事の後、僕はこの季節特有の寒暖差のせいからか風邪をひいてしまい、しばらくバイトを休みにしてもらっていた。
そして今日が復帰後の初勤の日である。
僕が担当するレジに彼女が来た。
来ただけでなく、話しかけてきた。
「138円になります」
「この前はほんとにありがとうございました。はい、150円です」
「12円のお返しです」
「上がり何時ですか?」
「もうそろそろ上がります」
「じゃあ外で待ってますね?」
彼女は嵐のように過ぎ去っていった。僕はそっけない対応をしてしまったことを心の底から悔やみながら、ゆるみっぱしの顔を引き締め、19年とちょっとの人生においておそらく最速であろう速さで着替えを済ませスーパーを出た。
「早かったですね」
入り口を出てすぐのところに彼女は微笑みながら立っていた。
「急にすいませんね、この前のことでお礼がしたかったんですけど、名前も聞いていなかったので」
そんなことを言って少しはにかむ彼女は僕の心を現実から根こそぎ捥ぎ取り、ここではないどこかへともっていってしまった。
「それでですね、このスーパーでいつも見かけるので、ここならもう一度会えるんじゃないかと思いましてって、聞いてますか?」
可愛らしく小首を傾げる彼女を見て、僕ははっと我に返った。
「聞いてますよ」
またそっけない答えをしてしまった、と猛烈な勢いで自責の念に駆られる僕の心をおくびにも出さぬよう必死に踏ん張る僕を見て、彼女はくすりと笑い、話をつづけた。
「なので、お名前聞いてもよろしいですか?」
「よろしいですよ」
彼女の瞳を見つめながら、僕は、この時間が永遠に続けばいいのに、などと思考を吸い取られたようにぼんやり考えていた。
「小林相馬っていいます」
「そーまさんですね? わたしは雪村小町です。よろしくお願いします」
「こちらこそ」
この時、僕の名前は彼女に呼ばれるために僕に付けられたのだな、と世界のどこを探してもこれ以上に素晴らしい頭の持ち主はいないであろう考えが僕の頭の中を占めていた。
◇
それから何回か僕たちは逢瀬を繰り返し、交わす言葉も増え、自然古来からの人間が生物として行う行為もした。
いわゆる恋人という関係に僕らはなっていた。
そんなある日。その日も僕たちはいつものように言葉を交わし、いつものように体を交わした後のことだった。
「私ね、好きな人ができたかもしれない」
最初、この柔らかな肌を僕に密着させた生き物が何を言っているのか全く分からなかった。
「私最近新しくバイトを始めたんだけどね、そのバイト先の先輩のことを好きになったの」
「へえ、そうなんだ」
僕は相槌を打つことしかできなかった。
「だから、もう今日でソーマ君とは会えなくなっちゃうなーって思いながら今日はここに来ました」
「ふーん」
もういっそこの場から消えてしまいたいなあ、とぼんやり考えながら僕は生返事をした。
「だから、私と今日で別れてください」
「いいよ」
「うん、急には受け入れられないと思う。でもね……っていいの?」
「うん、だって小町ちゃんがそういうんだからしょうがないよね」
「そっかありがとう」
そう言って彼女は僕に抱き着きその柔らかい肌を僕が忘れることがないように、記憶から消えぬようにするかのようにより密着させた。
僕もその抱擁に応え、最後の彼女をしっかりともうそばにはいてくれないことを頭ではわかったふりをしながら抱きしめ返した。
◇
翌朝、僕はいつも通り朝早く彼女が起きる前に起きた。そして彼女の付き合い始めたころから何も変わらないその愛くるしくこの世の祝福を受けているかのような寝顔を見ていた。
そしてこの寝顔を僕以外の誰にも見せたくないと思った。
思ってしまった。
その瞬間、僕の中の獣と人としての僕の意見は一致した。
僕の手はあの時と同じように彼女の細い首を絞めていた。
「ぅぅう……」
首を絞められる彼女は苦しさに顔をゆがめ、僕の手を強く握ってきた。だが僕はその手を緩めはしない。なぜなら彼女を愛しているから。
そのバイト先の先輩とやらに彼女を渡したくなかったから。
そしてついにその時が来た。
彼女の手の力が抜け、完全に彼女にともっていた命の灯が消えた。
ついに彼女は僕のものになった。
だが僕はそれだけでは満足しなかった。
命の源である何かを失った彼女の体をベッドに置き去りにし、僕は台所から包丁を持ちだした。
そして再び彼女の前に立ち、銀の刃を彼女の美しい体に突き入れた。
腹を裂き、内臓を取り出し、骨の周りの肉を一片たりとも残すまいと丁寧にこそぎ落とし彼女を少しずつ解体していった。
途中、何度も血が飛び散り顔や体にかかったがそれすらも愛おしく思いながら、僕は解体を進めていった。
そして、解体し終わり美しく雪のようであった彼女の首を食卓の上に飾り、それを見ながら僕は少しずつ彼女だった破片を調理し少しでも彼女と一緒となる部分が増えるように彼女を食らった。
少しづつ少しづつ彼女を食らった。
彼女の顔に蛆虫が湧き、腐臭を放ち始め、見る面影すらもなくしたころ僕は警察に出頭し僕のやったことのすべてを話した。
途中、変な男が泣きわめきながら僕のところにやってきたが何もせずに帰っていった。聞くところによると彼は彼女の彼氏になる予定の人であり、彼女のバイト先の先輩であったらしい。
僕と彼女が付き合っていることを知りながらも、彼女にずっと言い寄っていた変態だそうだ。
彼の愛情は確かに深かったかもしれないが僕のそれには遠く及ばない。
彼は確かに彼女の命を奪い取った存在である僕に憤りはしたが彼女を殺した犯人である僕に対して法による裁きを求めただけであった。彼の愛情は所詮その程度のものに過ぎなかった。
だが
僕の愛情はそんなものではない。
彼とは比較にもならない。
そしてその差がこれだ。
僕は彼女と僕の命の灯が死神に吹き消されるまで一緒に居られる。
彼には些細なくだらない取るに足らない思い出しか残らない。
そう思いながら僕は取調室で頭の悪そうな警官の質問に答え続けた。
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