第7話 妖の世界

 日直の仕事はとてつもなく大変だ。

 黒板の掃除など、他の生徒以上に仕事を任せられ、下校時間になるまで教室に残って鍵を閉めなければならない。

 カバンが教室に残されていたら大変だ。

 そのまま帰ることはできず、一度先生に報告しなければならない。


「はぁ……暇だ……」


 日直は1人だけ残ればよいので、黒川に任せても良かったのだが、どうしても外せない用事がある言い放ち、加藤は渋々最期まで教室にいることを了承したのだった。

 土曜日の下校時間は午後2時となっており、12時30分頃に放課後となる蛍雪高校では、1時間半の待ち時間を有するということになる。


「今日は夕方までには帰れるから、寒川の家に行ってみようかな」


 校庭でサッカー部と陸上部の声援がこだまする教室で、加藤はポツリと呟く。

 部屋の空気を入れ替えるという理由で、大半が不要だと思っている窓を開けるという行為を、日直として加藤は行う。

 日直として仕方ないが、寒い風が容赦なく吹き込み、外からの声もうるさい。


「せ・ん・ぱ・い♪」


 全開状態の入り口から、加藤に向かって低身長の女生徒が入ってくる。

 厄介な爆弾低気圧が来たというように、ため息をつき加藤は来訪者である三木の方を見る。


「よぉ、三木。悪かったな、俺日直で教室を離れられなかったんだよ」

「あたし、まだ何も言ってないのに、最初のひとことが言い訳だなんて、びっくりなんだよ~」


 三木は確かにド天然だが、頭は良い方であり口論には一般人よりは強い。

 が、扱い方が分かっていれば、基本的には最弱キャラに生まれ変わるという面白い特性がある。

この面白い特性があるが故に、三木が所属している演劇部はいつも賑やかだ。


「なぁ、今日は寒川の家に行こうと思うんだが、お前も来るか?」

「寒川先輩の?」

「あぁ、ここ2日休んでるんだ」

「なにそれ……怖い……」


 加藤は簡単に三木を手玉に取る。

 2人の仲が良いのは、クラスでも周知の事実と言えるほど知れ渡っている。

 そんな加藤と三木が仲良くなったのは、高校1年生の4月のことだった。

 しかしながら、その時の話を知る者は少ない。


「じゃあ、あたしはカバンもってくる!!」


 詳しい話を聞くこともなく、その場の気分の高鳴りに全てを捧げるような彼女の行動は、いつものこととして認識されている。


「あいつが来るのには時間がかかるし、俺もお手洗いに行っておくか」


 下校時間が近づき、加藤はお手洗いに行くためにドアをくぐる。

 この何気ない行為で、世界が大きく変わるなどとは思いもしなかっただろう。


「え……?」


 その刹那、校庭から聞こえてくる声援、上の階から漏れでる吹奏楽の音色、廊下から聞こえてきたはずの生徒の話し声などが一瞬のうちに消え去り、静寂な校舎のみがひっそりと佇む空間が広がっていた。


「みぃーつけたぁー」


 静寂な廊下に響き渡る禍々しい声は、一瞬にして加藤の筋肉をこわばらせる。

 あまりの静けさから、その声には大きな存在感が伴っている。


「この声は昨日の……」

「今度は逃がさないから、覚悟しろよぉ?」


 加藤にとって問題なのは、その禍々しい声に聞き覚えのあることだった。

 あの時は、あまりの恐怖から顔を確認することができなかった。

 しかし今は違う。


「あ……ああ……」


 加藤の目の前には、口が耳まで裂けた異形の者が立っていた。

 避けた口元には皮膚がしわとなって溜まり、人の皮を被った化け物であることを如実に示していた。


「何なんだよ……どうして俺を狙うんだよ……」

「お前が美味そうだからッだよ!」


 勢いよく突っ込んでくる化け物に、加藤は思わず腰を抜かす。

 幸か不幸か、化け物の飛び込みをかわすことに成功する。

 よく見ると、化け物の足がバッタのように、あらぬ方向に曲がっていることに気付く。


「やっぱり人間じゃない……本当に妖怪だったんだ……」

「ヒヒヒッ、ここには陰陽師もこねぇ。ここまで我慢していて良かったぜ」

「陰陽師……? 我慢……? 何なんだよ……」


 加藤は絡みそうになる足を必死に動かし、校庭に向けて走りだす。

 しかし、すれ違う生徒の姿はなかった。

 必死に走る加藤を、妖怪は手加減していると言わんばかりのすまし顔で後をつける。


「誰か……誰か助けてぇ……」

「いいねいいね、香ばしい魂の臭いだぁ……そろそろ戴こうかなぁ」


 ようやく校庭に辿り着いた加藤だが、相変わらず人っ子一人見当たらない。

 それどころか、何故か見渡す限りグラウンドが続いていた。

 地平線の彼方まで続くグラウンドを見て、加藤は絶望する。


「え……校門は……? ここは山の上のはず……」


 まるで世界の全てがグラウンドの海で、そこにポツリと高校が立っているようだった。

 そんな加藤の疑問など意に返さず、妖怪はゆっくりと近づく。

 

「じゃぁ、いただくぜ」


 それだけ呟くと、妖怪は口から体くらい長い舌を出し、加藤の方に伸ばしてくる。

 力尽きグラウンドに膝をついた加藤は、その舌を見つめることしかできなかった。


本当に世話の焼けるやつだ・・・・・・・・・・・・


 どこからともなく響く声に加藤は安心感を覚える。

 この間のように目の前に鳥居があるわけではないにも関わらず、加藤には蒼銀の巫女の声が聞こえたのだった。

 心地の良い声に、加藤の意識は闇の中に溶けていく。


「この声……この間邪魔したヤロウだなぁ?」

「あぁ……」

「なっ……てめぇ、どうなってやがる……?」


 驚愕の目をする妖怪を他所に、加藤がゆっくりと立ち上がる。

 その姿は、先ほどの恐怖に引きつった表情をしていた少年のものではなかった。

 髪は少し伸びて肩まで届き、髪の一部が銀色に輝いている。

 

「ふぅ……外の世界は久しぶりだと期待したのだが、下級妖怪の領域内とは風情にかけるな」

「何もんだよ……てめぇ……」


 その質問をうけ、高校生の少年は口を開く。


「華月だ。よろしく頼む」


 誰もいないグラウンドで、余裕の笑みを浮かべた少年が佇む。

 世界に横たわる空気は、バチバチと音を立てて動き始めていた。

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