第2話 ミシェル

 大学に入ってすぐ。

 生協の本屋で声をかけてきたのが、例の友人だった。


「好きなの、そのギタリスト」


 ぎりぎり女性だとわかる低いハスキーボイス。

 自分が呼ばれているとは思わなくて、振り返るのがワンテンポ遅くなった。


「え、わたし?」

「そう、あなただよ。その白黒財布のあなた」


 まるでモデルみたいな長身だった。

 細身の黒いスーツで全身をびしっときめ、反対に黒い髪は肩のあたりでぼさっと流している。顔つきも体つきも全体的に細長くて、突き刺すような雰囲気があった。

 八年前のわたしはゆるふわな服装で、体つきもあくまで平均的で、声をかけてきた黒スーツの彼女とも、当然いまのわたしとも、真逆だった。


 教科書を買おうと出していたわたしの財布を、彼女は指差していた。

 財布は黒字に白いラインで角ばった迷路のような模様が描かれている。

 とあるギタリストのファンクラブで買った限定アイテムだ。


「ご存じなんですか?」


 大学で声をかけられたのが初めてなら、お気に入りの財布に反応されたのも初めてで、わたしはつい嬉しくなった。スーツの彼女は顔をほころばせて、


「ため口でいいよ。一年生でしょ? わたしも一年生だから」

「一年生? 本当に?」


 見せてくれた学生証は本当に一年生だった。服装や雰囲気がどう見ても年上だったからちょっと驚きつつも、同学年だということがやっぱり嬉しかった。


「それでそのギタリストのことなんだけどさ――」


 財布の模様から特定のギタリストを導き出せるということは、それなりの音楽好きに違いない。

 会話は弾んで、お昼までいっしょした。


「ちょっとごめんね」

「あ――」


 食後の紅茶を飲み干したころ、急に彼女はわたしの左手を握ってきて、


「楽器はやってない?」

「うん。わかるの?」

「そんだけそのギタリストが好きなんだから、やる楽器といえばギターかせいぜいベースでしょ? でも左手の指は固くなってないし。さっき右手でご飯食べてたよね」

「いわれてみれば」

「わたしの左手、触ってみて」

「うわ、こんなにカチカチになるんだ……」


 恐る恐る触ってみると、彼女の指の腹はボンドを塗り固めたように厚かった。


「ギター?」

「そうだよ」

「どんなの弾くの?」


 彼女の口から出てきたのは、有名な洋ロックから最近のJポップまで幅広かった。


「そんなに弾けるんだ。すごい、聞いてみたい」


 社交辞令もあったけど、個人的な興味ももちろんあった。

 細身のスーツにぼさぼさ頭の彼女がどんな風にギターを弾くのか、見てみたかった。

 もしかしたらこのひとことが、すべてのはじまりだったのかもしれない。


「うん、いいよ」


 彼女は一瞬だけ両目をぎらりと光らせる。

 待っていたといわんばかりにスケジュールを決めて、連絡先も交換した。

 ついでに、いまさらになって自己紹介もした。


「じゃあ、あなたはクラリスだね」

「クラリス?」

「あなたのあだ名。略しただけだけど」


 初めての呼ばれ方だったけれど、すとんと落ちる心地よさがあった。


「わたしがクラリスなら、あなたは?」

「ミシェル」

「ミシェルって、あのミシェル?」


 彼女の持ち曲に何度も出たバンドだ。わたしも、名前だけは知っていた。


「うん。そのミシェル。愛してるから」


 黒スーツの彼女――ミシェルは、その日最高の笑顔を浮かべた。


 冷静に考えてみよう。

 自分の好きなバンドと同じ名前で呼んでくれという人間が、ろくな人間であるはずがない。そしてその事実を前提にすると、ミシェルの姿にもいろいろな意味が見えてくる。後になって知ったことだけど、細身のスーツはミシェルが愛するバンドのトレードマークだった。


 この熱狂ぶりは黒歴史になりかねない。

 でも当時のわたしは、いまのわたしも、彼女がそんな恰好をしてミシェルというあだ名を自称することに嫌悪感を抱いていない。

 それだけ、ミシェルという名前も細身のスーツも彼女に似合っていた。


「じゃあね、クラリス。また明日」

「うん、また明日」


 帰りの足取りは軽かった。

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