ショート・ショート集

甘木智彬

「ついてくる」


 ぺたぺたぺた。


 夜は遅くの帰り道、女はふと足を止め、怯えたように振り返る。


 ぺたっ。


 音が止む。

 しばしの沈黙。耳に痛い静けさ。

 気味悪げに、肩を震わせた女は、家路を急いだ。


 ぺたぺたぺた。


 ずっと、足音もついてくる。

 しかしこれは妙である。非常に妙である。


 ぺたぺたぺた。


 まるで裸足の音ではないか。

 こんな夜半に裸足で外を出歩く者が居るのか。

 いや、居るには居るかもしれないが。

 その者はまっとうは人間であろうか。


 考えるまでもないことだ。

 先ほどから後をつけてきている時点で、お里が知れるというものだ。


 ――早く、早く家に帰ろう。


 自然と、女の足が速まる。鞄のひもを握る手に力がこもった。


 速足で行く。

 こつこつと、女の靴が音を立てる。

 ぺたぺたと、足音がその後を追う。


 不気味だった。


 足音が、ゆっくりと、ゆっくりと、しかし確実に、近づいてきているような。

 そんな予感。

 脂汗が滲んでくるような重圧だった。

 しかし女は決して駆けださなかった。


 自分が走れば、足音も走って追いかけてくる。


 そして、もし走ってこられたら、追いつかれてしまうと。

 そう、半ば確信していた。


 ぺたぺた。


 近い。

 足音が近い。

 足を止め、振り返る。

 しかし、誰もいない。


 ――その者は、まっとうな人間であろうか。


 ――そもそも、それは、"人間"であろうか。


 肝が冷えた。

 しかし、それでも、女は駆けださなかった。

 追いつかれると、ろくでもないことになるのは、目に見えていた。

 理性は依然として、恐怖を抑えつけていた。




 どれほど歩いたか。

 長く長く感じられたが、実際のところはいつもの家路である。

 そう長くは歩いていない。

 家の明かりが見えてきた。


 しかしここで、女は不安に駆られた。


 ――このまま家に帰っていいものか。


 背後の足音は、既に、本当に近づいていた。

 このまま手を伸ばせば、届いてしまうのではないかと思われるほどに。

 しかし、振り返っても、誰もいない。


 妙なものを後ろにくっつけたまま、家に帰るのは憚られた。

 入ってくる、とは、思いたくなかったが。

 どうするか。


 とうとう、家の玄関が見えてきた。


 ぺたっ。


 近い、心なしか、自分のすぐ背後に、何者かの息遣いすら感じられるような。


 あと数歩。


 数歩で、家の中に入れる。


 しかし、――追いつかれる。その数歩のうちに。女は確信していた。


 どうすれば、あと、その数歩を稼げるか。

 半ば絶望しかけながら、立ち止まった女は、考える。

 そこでふと、妙案を思い付いた。


 その場で、靴を脱ぐ。


 「――どうぞ、使ってください」


 そう言って、一歩歩いた。


 足音は、無かった。


 さらに、一歩。


 足音は、無い。


 ――やった。


 女は笑う。


 背後の何者かは、今、靴を履いている。

 その時間を、稼いだのだ。

 残りの数歩、女は扉を開け、家の中に入った。


 安堵のため息とともに、家の鍵を閉め、その場にへたり込む。




 こつん。




 扉の外。


 ヒールが地面を打つ音が、響いた。

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