35 カイコガさんとハベトロットさん
明神市旧市街には未だ多くの旧日本家屋が残る。
大きさも武家屋敷ほどの大きさから平屋のようなものまで幅広い。
その中の一つ、土間がある大きな古い家に、背中に大きな荷物を担ぎ、ケーキ屋の紙箱を持った女性が訪れた。
彼女の衣装は単純なスカートとブラウスにスカーフというもの。
ただしスカートはひまわりの花が大きくプリントされ、ブラウスは真っ青、スカーフだけは白地に茶のタータンチェックと、派手なものだ。
「ルクーきたよー」
彼女は腰ほどの高さしかない門の柵を開けると、そう中に呼びかける。
返事は帰ってこない。
彼女は留学生で、名をベッキーという。
純粋な人間ではなく、亜人だ。
といっても、人とそう大して変わる部分があるわけではない。
ベッキーはガラスの嵌まった戸を引いて開ける。
「ちゃんと食べてるー?」
少しだけ返事を待ち、彼女は中に入り戸を閉めた。
背の荷物を板の間に降ろし、居間を覗く。
彼女は友人を見つけた。
「ああ、ちゃんと吐いてたのね」
ベッキーの友人、ルクス・シモンズがバケツを抱えている。
彼女の緩く開けられた口元からは銀色に光を返す糸がバケツに向け垂れ下がっていた。
ルクスはベッキーを目で確認すると、首を縦に振って頷く。
ルクスもまた、純粋な人間ではなく亜人だ。
全身白い毛に覆われ、その背からは本人と同じくらい大きく白い毛に覆われた翅が付いている。
頭からは金色の触角が生え、彼女の服装もまた白いファーに縁取られた白い服を着ている。
ただ一点、頭に載せられたレンズの大きいサングラスだけが黒い。
彼女はシルクモスマン。
カイコガのような人間のような、言うなれば蛾人間のような見た目の亜人だ。
蛾とは違って幼虫から変態はしないし、幼虫ではなくても糸を吐ける。
ルクスは口の中に人差し指を突っ込むと、掬うような動きをして糸を切り、糸の端をつまんでバケツの中に落とした。
バケツの縁には挟まれた糸の端が見えやすいようにクリップに挟まれてぶら下がっている。
「お肉食べたい」
ルクスが恨めしそうにベッキーに主張した。
「駄目よ。お肉だけならいいけど、塩胡椒で味付けしたくなるでしょう。塩分の取りすぎは糸質が悪くなるのはわかってるでしょう?」
「でも桑だけじゃ青臭いよー」
「今回分はあとバケツ一つだから頑張って」
ベッキーは板の間に腰掛け、持ってきた紙箱をルクスに見せる。
「ほら、終わったらケーキ食べて良いから」
「わ、ル・シャンセの? どうしたの?」
「コウモリちゃんの彼氏から。お礼だって」
靴を脱いだベッキーは板の間に上がって部屋の隅にある冷蔵庫に向かった。
ドライアイスといえど、長時間の放置には耐えられない。
「ほら、きちっとがんばんなさい」
冷蔵庫に紙箱ごとケーキをしまうと、ベッキーはまた土間に降りて靴を履いた。
「がんばるー」
ルクスはペットボトルに作っておいたプロテインドリンクを飲み干す。
栄養補給だ。
そして口を開け糸を少しだけ吐いて、先端にクリップを取り付けた。
糸の端を分かりやすくしておくことで、糸口を見つけやすくするのだ。
糸口が分かりにくいカイコの繭とくらべ、これだけで各段にやりやすくなる。
ベッキーは持ってきた荷物の中、はるばるスコットランドから持ってきた糸車を取り出し、組み立てる。
彼女、つまりハベトロットの家に代々伝わる古い糸車だ。
羊毛用だが、用は足りる。
彼女達のライフワークとなる趣味は、始まったばかりだ。
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