第44話 一人で寝られない
肩を貸してゆっくりと起き上がらせると、モニーク先生がしなだれかかって来る。
『先生』
『うふふ、久しぶりだわ、貴方に触るの。相変わらず優しいわね、ヒカルは。』
『大丈夫そうなら下ろしますよ。』
彼女は軽く埃を払って作業台の上に腰を下ろした。
離れていくヒカルの手を名残惜しそうに眺めてから、小さく笑う。少し腫れた両頬を軽く手で押さえてるのは、やはり痛むからだろう。
ポケットからハンカチを取り出して、準備室の隅に設置してある水道でそれを濡らす。
『ありがとう。悪いわね、新しいものを返すわ。』
きつく絞ったそれを押し当ててやる。
『そんなこといいよ。・・・それより』
『そうねぇ。・・・まあ、夏に実家に帰ったわけよ、わたしもあの子もね。祖父母が余計な気を利かせて、わたしが母親だって教えちゃったもんだから、あの子一層ひねちゃったんだわ。そうよねぇ、いやよね、わたしなんかが母親だったら・・・。わたしだっていやだもの。』
そういって笑い声を立てる彼女は、笑っていたけれど、いつもと少し違っていた。疲れたような、笑い声だったのだ。
『今年の夏、せっかく親子が再会したんだからちょっと旅行でも行ってらっしゃいとか、そんなことを祖父母が言い出してね。十何年も会ってなかった親子だって言うのに、二人きりにされたって困るじゃない?そういうところがちょっとズレてるのよね、わたしの両親は。・・・多分、あの人たちだってアリシアが可哀想だって思ってたのよ。でも、どうやっていいかわからなかったんでしょうね。だから大枚はたいて養子にだしたんだわ。自分達じゃ、アリシアに十分な事をしてやれないし、リーズにいたんじゃ皆わたしのことを覚えているから、アリシアにとっては針の筵でしょう。』
『先生は、アリシアがロンドンへ養子に出されたことをご存じで?』
『知ってはいたけど、名乗り出るつもりはなかったのよ。この広い街で出会う事なんて無いだろうって思ってたから。・・・まさか偶然わたしの職場に入学してくるとは思わなくて。それでもずっと黙ってるつもりだったわ。・・・ああ言われるのがわかってたから。』
彼女が先生に投げつけた言葉を思うと、胸が痛んだ。あんな風に言われれば、たとえ自覚していてもいい気持ちはしないだろう。まして、実の娘に言われてしまえば。
『貴方とお母様・・・お綺麗な方だったわね。スコットランドへ行っていたでしょう?実は貴方たちとほぼ同時期にわたしとアリシアもあそこへ行ったのよ。・・・勿論レジデンスなんかに泊ったわけじゃないわ、普通の民宿よ?ただね、地方民放で小さく報道されていたのを見てしまったのよ。貴方たちが事件に巻き込まれてたわよね。外国人は目立つからほんのちょっと見えただけでもすぐにわかった。侯爵家の事はあの時点ではわからなかったんだけど、何か秘密があるんじゃないかって、アリシアが言い出したのよ。』
スコットランドでのことは、確か観光客を狙った悪質な傷害事件として報道されたはずである。実際は侯爵家の身内を狙った誘拐未遂だったのだが、そのまま報道させるわけにはいかなかったのだ。
それを、アリシアは見ていたのだ。ロンドンにいるはずの同級生が、同時期に同じ場所を旅行していた。偶然だろうが、それも巡りあわせなのかもしれない。
モニーク先生はハンカチをあてた口元を僅かにほころばせた。
『不思議ね・・・貴方の家を探ったりカメラを仕込んだり、悪い事をしていたのに。そんなことをしていたのに、何故かわたしとアリシアは妙に気が合っていたのよ。一つの目標に向かって奇妙な一体感があったんだわ。長年会った事のなかった親子が、そんな形で行動を共にして、悪だくみを実現させようって。おかしいでしょう。・・・貴方には悪いけど、楽しかったの。』
『・・・いい迷惑なのは間違いないですが。』
『そうよね。ごめんなさい。・・・訴えるなら訴えてもいいわよ?』
『盗聴した記録とカメラ撮影した映像を全て渡してくれたら、それだけでいいんです。』
『ええ、いいわ。持ってても仕方ないしね。マスコミに売ったって、どうせ揉み消されちゃうんでしょ?』
ヒカルは静かに頷いた。
真っ暗な校庭を通って、走っていた足をやがて歩みに変えたアリシアに、ミスズは少しずつ近づいた。
更に後方に、アイザックが足音も立てず付いてきている。
『アリシア、送って行くわ。』
『ミスズ・・・』
ミスズが、彼女の小さな肩を抱いてその隣に並んで歩きだした。
『女の子が一人で夜道を変えるなんて危険だからね。寒くない?』
『・・・わたしのことなんて放っておきなさいよ。貴方だってわかってるんでしょ、わたしが何をしたか。』
『うん。・・・ていうか、ヒカルより先に知ったのはアタシの方だからね。』
『それなら』
『びっくりしたし、ショックだったよ。アタシ女子にあんま好かれないのに、アリシアは仲良くしてくれたじゃない。ヒカル目当てだって知ってたけど、諦めたって言った後もアタシに普通に接してくれてたからさ。・・・あんたはアタシ達が羨ましかったって言うけど、もうそう言うの気にしても仕方ないよ。どんなに妬んだって羨んだって手に入るもんじゃないんだから。』
いつもの底抜けに明るいミスズ。
堂々とした彼女の姿に、アリシアは疑問を抱く。
だって、まるで。ミスズ自身が妬んだり羨んだりしたことがあったかのような言葉。そして、それを乗り越えたかのような。
『だったら手の届く範囲で自分のできることをやるしかないじゃん。・・・それに、アリシアが思ってるほど、そんなにいいもんじゃないかもよ?』
にやりと笑って軽くウィンクする。
まるでライオンのような彼女。学校ではいつも数人の男子を連れて歩くようなミスズ。でもそれは彼女の取り巻きというよりも、本当にただ楽しくて一緒に居る友人とか仲間のようで。
ただ単に男子にモテたいだけならば、ミスズのような態度はとらないだろう。
彼女は媚びを売らない。甘えた態度も無い。逆に甘やかしもしない。
だからこそ、アリシアはミスズに惹き付けられ、ヒカルに惹かれた。そして、妬み羨んだのだ。
『そりゃミスズのお母さんはいい人だから』
そういう人に育てて貰えれば、アリシアも、ミスズのようにヒカルのように。
胸を張って生きられたのだろうか。
『ママはいい人だよ、それは否定しない。でも、アタシはモニーク先生の生き方だって肯定すべきだと思う。彼女が子供と一緒に暮らせないって思ったのは、多分こんな自分じゃまともに子供なんて育てられないって悟ってたからでしょ。それよりはマシな方法を選んだってことじゃないかな。養父母の人のことは知らないからなんともアタシには言えないけどさ。先生としては正直好きな教師じゃなかったし、同性として彼女の全てに賛同できるかって言われれば疑問だよ。でもね。子供のために多くを犠牲にする生き方が必ずしも正しいとは、幸せだとは、アタシは思わない。母親だって、一人の人間だし、女なわけでしょ。』
『・・・ミスズ・・・』
『家庭が幸福だって人もいる。それを守ることが全て正しいと判断する人もいるだろうね。だけどさ、それは全部本人の意思ありきじゃん。・・・それにね。』
いったん言葉を切って続けた。
『人は変わるから。先生もあんたも、変わるから。大丈夫だよ。』
にっと笑ったミスズがアリシアの肩を抱く手に力を込める。
優しくてやわらかい少女の手は、自分と同じで小さいのにとても大きく思えた。身長の割に、ミスズの手は小さいのだ。
双子の養母だという女性は見たことが有る。外国人だと言うその人は、隠し撮りしたカメラの映像に映っていた。母親とは思えないほどに若く綺麗な人だった。ヒカルと交わす睦言が自然に思えるほど、二人は親密でお似合いに見えたものだ。それが悔しくもあり羨ましくもあり、いたたまれなかったのだ。
だが亡くなったと言う実の母親はどんな人だっただろう。今のミスズを見つめていると、知り得ないはずのその人が、なんとなく彼女と似ているのだろうなと思わせる。
ビッチだなどと言ってしまったけれど、あれでもアリシアの母親だ。自分とモニーク先生はやはり似ているのだろうか。自分はけしてあんな風にはならないと、何度も心に誓ったけれど。
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