第39話 ずっと捧げてきた
ヨークシャーまで足を延ばして調べてきただけのことはあった。彼女の実家と思われる地域までバスを乗りついで行ってみたが、丘の上に見えた大きな教会は、日曜礼拝のためか多くの人が集っていた。教会から出てきた一人の老人を捕まえると、ヒカルは近くのパブに誘った。昼過ぎからアルコールとは不健康極まりないと思ったが、その爺さんはスコッチを二、三杯呷ると口を滑らせはじめた。
『もう10年、いやもっと経ってるなあ。20年近いんじゃないか。アクランド家の令嬢って言ったらここらじゃあいいうちのお嬢さんって奴でなぁ。』
カウンターバーでもう一杯買ってきたヒカルが、老人にコップを手渡す。
リーズ市郊外の彼女の地元では、モニーク先生のことは結構な醜聞だったらしく少し年配の人達に尋ねると、誰でも知っていることらしい。
『パリから来たなんとか言う実業家の息子と駆け落ち同然で家出したんだが、破局したのか翌年に嬢ちゃん一人が赤ん坊を連れて戻って来たんだよぉ。聞いたら結婚の届けなんかも済ましてたらしいんだが、相手の男は逃げちまったらしくてな。嬢ちゃんは赤ん坊を両親に預けて進学し、そのままロンドンへ行っちまったんだ。』
つまり、モニーク先生はリーズの専門学校に入る前に一度結婚している。そして出産後すぐに離婚していると言うことだった。
スコッチが大分効いてきたのか、禿げた頭頂部までも赤く染めた老人は、もう一杯所望する。
ヒカルの財布の中身が帰りの電車代しか残らなくなった頃、
『一度も実家には戻ってねえって話だ。・・・預けた赤ん坊?そういやどうしたんだろうなぁ。死んだって話はついぞ聞かねぇが。』
そう言って、ついに老人は潰れた。
マズイと思ったヒカルは周囲で飲んでいた男性に彼を頼むと、
『ああ、その爺さんか。大丈夫だよ、あと30分もすれば孫が迎えに来るから。ほっといていい。』
と気楽そうに言うので、そのままに店を出て来てしまった。電車の時間もあるのでそれ以上の長居は出来ない。
その足で駅へ向かい電車でロンドンに戻り、ミスズに指定されたこの場所へやってきたのである。
本当は一度家に戻ってアイコの顔を見ておきたかったのだが、その余裕もなかった。
フルーツの盛合せを摘まむミスズが足を組み直す。
「その赤ん坊・・・ちょっと心当たりあるんだけど。」
スマイルカットされたオレンジを皮ごと口に放り込んだ彼女は、もごもごしてそう言った。
「どういうこと?」
口に運んだペリエのグラスに口を付けながら尋ね返す。
「防犯カメラに映っていた人を発見して、その人の素性を調べて貰ったの。先輩たちは凄いわ、ほんの二時間くらいで生まれた場所から現在の住居まで全部見つけて来てくれた。」
「えっマジか。じゃあ、もう犯人はわかったも同然だろ。」
「うん。まあ、そうなんだけどね。・・・ところでさ、ヒカル。」
口調を改めたようにミスズが声音を変えて、座り直した。
「なんだよ?」
「ママは大丈夫なの?こっちにかかりっきりで、最近ママのこと構ってないんじゃない?」
「そうなんだよ。僕だって早く帰ってアイコと一緒に居たいんだ。だから早くこっちを片付けないと。」
切迫したような声で言うヒカルの芝居がかった様子に、ミスズは鼻で笑う。
「あんたのことを聞いてるんじゃないわよ。ママがどう思ってるかってこと。多分ママは何も聞かないわ。ヒカルから話してくれるのを辛抱強く待ってると思う。そういう人だもの。でも、何も話してくれないってことの方が、ママは傷つくんじゃないかしら。ヒカルからすれば話したくない事なのはわかるけど、もうすぐクリスマスだって言うのに、こんな生活してたらママだって荒むわよ。去年のクリスマスのこと覚えてる?ママは仕事帰りに奮発して七面鳥を買ってきたでしょう?アタシが食べたいって言ったからよ。ママはアタシやヒカルから何か言ってくれるのを待っているのよ。」
「それは、母親と子供としての話だろ。これからの僕たちは違う。」
双子の妹を睨み付けるように凝視する。
妹にまで子ども扱いされるのは心外だ。ヒカルはもうアイコのパートナーである。今までのような親子という関係ではない。外側から見ればただの仲良し親子かもしれないが、実態はラブラブなカップルなのだ。こまめに連絡は入れているし、いつだって彼女の事を思っている。彼女のためを思えばこそ、今回の事をさっさと片付けなくてはならない。でなくては、素敵なクリスマスだって迎えられないではないか。
ミスズの言葉に耳を傾けようともしないヒカルの態度に、彼女はため息をついた。
『アイク、あれ、見せてやって。』
傍らの相棒にそう頼むと、彼女は温くなってしまったジンジャーエールに口を付けた。
アイザックが懐から携帯端末を取り出し、その小さな画面に映った映像をヒカルの方へ向ける。
それを見た途端、ヒカルは彼から奪うように端末を取り上げ、目を近づけ、食い入るようにその映像に見入った。そして凍り付いたように動きを止める。
夜の街を楽しそうに歩く二人連れが映っている短いその映像には、ヒカルの目をくぎ付けにするだけのものが映っていた。
ベージュのコートに身を包んだ愛子と、見知らぬ背の高いブルネットの男が談笑しながら歩いている。写真ではなく映像であるから、僅かながらアイコの楽しそうな笑い声までが聞こえていた。男は黒い革のコートを着ていて、随分と体格がいい。時にこちらを見てさえいる。隠し撮りではないのか。
「たまたま用事があってボンドストリートにいった時、この時間ならもしかしてアイコがジムにいるかもと思って連絡したのよ。ちょっとだけでも会おうって話になって出て来てくれたの。そしたらこの人と一緒だったわ。紹介までしてくれた。32歳の独身でバーニィさんって言うんだって。」
アイザックに端末を返す手は、僅かに震えていた。
「・・・ただの、知り合いだろ。」
それが、ヒカルの強がっている声だというのは、すぐに分かった。
「そうね。ただの知人かもね。実際ジムのトレーナーだって言ってたわ。」
「アイコは大人だし社会人だ。顔が広いのは当然だろう。」
「そうね。当然だわ。・・・でも、あんたそんなにも動揺してるじゃない。」
図星をさされ、二の句が継げないでいる。
そうなのだ。
だって、この十年間、愛子がこんなふうに双子に異性の知人を紹介などしたことは一度も無かったのだ。彼女の人間関係の全ては、ほとんが双子のための人脈ばかりで、愛子の職場の同僚のことなど二人はまったく知らないままである。そのくらいに、愛子は人生の、生活の全てを双子に捧げて来たのだから。
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