第5話 落ち着いていられない
いくらか予想しないでもなかった。
双子の兄弟は18歳になった。大人になる時期で、これからの将来について本気で考え始めるだろう。高校を卒業するから、ここから先の事を相談したいのかもしれない。
寂しそうなヒカルの横顔に、親離れを予感して、愛子も少し感傷的になる。
長男の進路希望は美術系専門学校だったはずだ。彼は美術史学を専攻し教師になることを望んでいる。言動の割に芸術家肌な彼は、幼い頃からそちら方面の才能の片鱗をよく見せてくれていた。幼い頃に描いていた『ママの顔』なんて、彼の実の母親にとても似ていたことをよく覚えている。造作よりも雰囲気が出ていたのだ。彼の母親は、恋敵であり親友でもあった。ヒカルの父親に片思いしていた愛子にとっては憎い恋敵だったが、その人柄はとても憎めず、気づけば誰よりも近しい友人となっていた。その雰囲気は彼女の娘に受け継がれていて、ミスズは母親に明るい性格もよく似ている。
「何かしら?学校の事?」
努めて明るい声を出して尋ねると、ヒカルは向かい側に座っていたのにわざわざこちら側へきて腰を下ろした。
「この間聞いたでしょう。アイコは、結婚する気はないかって。」
意外な余り、変な顔になっているだろう自分の顔を軽く叩く。
「へ?ママのこと?そうよ、ないわよ?ヒカルとミスズが大人になって自立して出て行ったら、もう少し小さな部屋へ引っ越してのんびり暮らそうかなって思ってるくらいだもの。」
閑静な住宅地へ引っ越して、お気に入りのカフェにでも通い詰めて。
あの人を好きだった思い出に浸って余生を送りたい。
若いまま亡くなってしまった双子の父親は、10年経った今も私の中では変わらず美しいままだ。いつしか彼の年齢を追い越した私はすっかりおばさんになってしまったけれど、彼が好きだった紅茶を飲みながら過去に浸るくらいの事は許されるだろう。そして、いつしかヒカルやミスズが孫の顔を見せてくれる日が楽しみになる、そんなおばあちゃんになるのだ。
アナウンスが流れて、列車が走り出す。揺れも音も少ない高級列車だが、旅の情緒あふれる出発だ。
窓の向こうに見送りの人がちらほらと見えた。勿論、愛子とヒカルを見送りに来る人などはいないけれど、雰囲気だけは味わえる。
急に膝上に乗せていた手が握られた。
驚愕の余り、顔が揚げられない。
あの人と同じ、大きな白い手が、この両手を捕まえている。
一度もあの人は愛子の手を取ってくれたことはなかった。彼は、彼の大切な若い妻を溺愛する余り、よそ見する暇さえなく。
そんな風に愛される彼女の事を心底羨ましく思っていた、若い自分が懐かしくて。そういう苦い思いさえも懐かしくて。そのくらい遠いのだ。
息子に握られた手が、妙に汗ばんでしまうのさえ、新鮮に思えた。
「アイコは僕らに出て行って欲しいの」
黒い眉根を寄せて、辛そうに言うヒカルが顔を近づけてくる。
「何言ってるのよ、そうじゃなくていつかは子供は自立するものだから、ね。その時に子離れできない駄目な母にならないよう、今から心の準備を」
「僕はどこへも行かない。アイコから離れるつもりはない。」
可愛い息子が大きくなってもそんな甘えたことを言うなんて。
思わず目を見開いてヒカルの顔を見上げた。
どこか思いつめたように見える息子を安心させるように、できるだけ優しく笑ったつもりだ。
「そんなこと言ってもねぇ、可愛い彼女が出来ちゃえば変わるって」
恋人が出来れば母親の存在などうっとおしいだけになる。それが恋と言うものだ。きっと息子にもそういう女性が出来れば、現状維持する安心感などよりそちらを優先する気持ちが生まれるだろう。
「愛してるんだ。」
低く掠れた声がそう告げる。
急には反応できずに、愛子は生唾を飲み込んだ。音が聞こえたような気がした。
「やっと18になったんだ。僕は大人だ。貴方を欲しいと言ってもいいでしょう?」
私の両手を握っていた手が、急にそこから離れて肩と背中を引き寄せた。
驚愕の余りに身動きが出来なくなる。呆然としたままだった。
どうするべきか判断がつかないから、抱き寄せられたまま硬直する。小さな個室の座席の上で、息子に抱きしめられたまま、心臓が早鐘を打ち鳴らした。
これは、もしかして、マザコン、という奴ではなかろうか。
幼い頃に実の母親を亡くしてしまったから、養母に対して必要以上に執着している。そういうことなのではないだろうか、と愛子は結論付ける。
若い彼が自分のようなアラフォーに対して恋愛感情を抱いているとか、そのような有り得ない甘っちょろい話などではない。
だとしても心臓に悪い。
昨年の健康診断で、血圧が上がっていると言われたのだ。必要以上に脈拍数が上がるようなことをされては今後の健康に関わる。
スカートで汗ばんでしまった手の平を軽く拭うと、そっと息子の背中に手を回し、優しく撫でた。
「勿論、ママもヒカルのこと愛してるわよ。大人になっても、おじさんになっても、ヒカルは私の大切な息子だわ。貴方がどんな遠くへ旅立ってしまっても、いつだって貴方が帰れる場所になって待っているから、安心していいのよ。ママなんかよりずっと好きになれる人に出会えるからね。」
我ながら、理解ある母として十分過ぎる言葉を選んで言えたと思った。
自画自賛してうんうんと頷く。
大丈夫。多少マザコンでも理解してくれる女性はいるから。心配しなくても、ヒカルならいくらでも素敵なお相手が見つかるだろう。
「僕は貴方がいい。ママじゃなくてアイコが欲しい。実母が亡くなる前から僕は貴方が大好きだった。貴方は覚えていないでしょうけど、幼い頃何度も貴方にプロポーズしたんだよ。道端で摘んできた花を差し出して、結婚してくれる?って貴方に聞いた時、貴方は『ヒカルが大人になっても好きでいてくれたらいいわよ』って答えたんだ。」
かっと顔が熱くなった。
言われて思い出したのだ。確かにそんなことが有ったかもしれない。
だって、息子が5歳か6歳頃の話だ。ヒカルがそれこそ天使みたいに可愛らしい幼児だった時の事だった。その幼い申し出を無碍に断れるほど、当時の愛子だって鬼ではない。いつもお土産やプレゼントをくれる面倒見の良いに彼女に対し、息子も娘もとても懐いていたから、そんな申し出がでただけだ。その証拠に、その直後にミスズも同じように花を摘んできてプロポーズをしてきた気がする。天使のような双子に取り合われて、こそばゆいほど幸せだったあの日のことを、久しぶりに思い出した。
「そ、そういえばそんなこともあったけど・・・、貴方が幼児だった頃の話じゃない。」
「もう大人になったって、さっき言ったよ。」
「ヒカル、ちょっと落ち着いて?らしくないわよ。」
軽くポンポンと背中を叩いてみる。
一体どうしてしまったのだろう。日頃穏やかで冷静な息子が、おかしなことを口走っている。誰かに何かおかしなことでも吹き込まれたのだろうか。
「貴方と二人きりで密室にいるのに、落ち着いていられるはずないでしょう!」
ぐっと首の後ろを捕まれ、顔が上を向く。
見上げた先には、ヒカルの思いつめた表情があって、それが徐々に近づいてくる。個室の照明が影を作って、息子の顔が良く見えなくなった時には、唇にキスが落ちていた。
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