第2話 父さんを愛した。
愛子が夕食後の食器を洗っていると、台所へミスズがやって来た。
手伝ってくれるのかと思いきや、
「ママ、ねぇ見て。叔父さんが今日出てるわよ。」
端末をこちらの方へ向けてくる。
家事を手伝ってくれるという期待を裏切られ小さく息をついた。
ミスズが見せたがったのは、国営放送の番組に出演している彼女の叔父がカメラに向かって微笑んでいる画面だ。
双子の叔父は結構な有名人であり、マスコミにも時々顔を売っている。カメラに映った彼はスタイリッシュに整えられた金の巻き毛に特注のスーツ姿で、真っ青な瞳はいつものように自信に満ちていた。
「本当ね。いつ見ても格好いいわ。」
ミスズが青い眼で見上げるように養母を見る。
「そうね。叔父さんは俳優みたいよね。」
私とは違って、あなたはよく似ているわよと心の中だけで呟く。
ミスズは父親に色彩がよく似ているので、その父親の弟である叔父にも似ている。彼らの一族は余程優性遺伝であるのだろうか、混血であってもその特徴を強く子孫へ残していた。
そこへ唐突に呼び鈴の音が鳴った。
来客があったのかとインターフォンに指を伸ばせば、それを遮る様に長い指が先にボタンを押す。
「ママとミスズは出ちゃ駄目でしょ、女の人なんだから。」
リビングにいたはずのヒカルが飛ぶようにやってきて二人に注意すると、インターフォンに応じた。
英語で応対する息子を、思わず呆然と見つめる。いや、恍惚と見つめたと言ってもいいかもしれない。
いつからこんな頼れる紳士みたいなことをするようになっていたのだろう。夜間の訪問者を警戒して、男の自分が出ようとするなんて。
ずっと子供だ子供だと思っていた彼らを守るために、好奇心からインターフォンに出たがる彼らを押しとどめて来訪者に応対した愛子だった。それはつい昨日までの事だった気がするのに、ヒカルはまるで当然のように飛び出して来たのだ。本当に、大人になったんだなぁ、としみじみと感じ入る。
ふと急に我に返って、振り返った。
青い眼を細めてにっこり笑ったミスズが軽く手を上げてヒカルにハイタッチし、その後に軽く私の頬にキスをする。
「アイザックが迎えに来た。じゃあママ、ヒカル。あーとーで。今夜中には帰るよ。」
「ちょっと、どこ行くのよこんな時間に。」
「いつもの所に踊りに行くだけよ。わかってるって。ヤクもウリもダメ、ゼッタイ。でしょ?」
ミスズがひらひらと手を振って玄関のドアを開くと、茶色の髪のハンサムな少年が笑顔で待っていた。軽く手を振って挨拶する。
夜遊び好きな娘にはボーイフレンドが切れたことがないという。社交的で陽気なミスズは学校でもいつも男子を数多く連れて歩いているそうだ。奔放な彼女の私生活が心配になるけれど、
「ママ、心配することは無いよ。ああ見えてしっかりしてるんだ。」
そんな養母の心境を見透かしたように、息子が言う。
「・・・貴方はどうなの?ガールフレンドを作ったって話をついぞ聞いたことがないけれど?」
親バカで恐縮だが、自分の子供達が異性にもてないはずはないと確信している。双子の妹の方は実際そうらしいし、兄の方だって絶対に女の子に人気があるはずなのだ。
だって二人は、あの人の子供なのだから。
他人を惹き付けずにはおかない。
かつて自分を魅了した彼らの両親のように、誰からも好かれるものを持っている。
「全く興味ないんだ。学校の女子には。」
意味深な笑いを口元に浮かべたヒカルは、玄関の鍵をしっかりと閉める。
「あら、どうして?」
「子供っぽくてうるさくて我儘だから。うちには既に一人いるでしょう?二人もいらないよ。」
双子の妹を揶揄して言ったのか、言葉の後にもう一度玄関のドアを見た。
兄の方はどうやら大人の女性がお好みらしい。なるほど。確かにヒカルは年の割には妙に落ち着いているから、同世代の女の子が子供に見えるのかもしれない。そう思えば学校の子に興味を持てないのは納得できる。
さいですかと相槌をうって、台所に戻り、洗い物の続きをしようと両手をシンクに伸ばす。娘に逃げられてしまったので、最後まで自分でやらなくてはならない。
とっとと終わりにして、溜まっている洗濯物を畳みたい。それが済んだらお風呂に入って化粧を落として、明日に備えて眠るのだ。
「アイコ」
突然低い声でファーストネームを呼ばれ狼狽する。心拍数が跳ね上がり、振り返る間もなく急に背中が何かに覆われた気がした。
シンクに下ろした両手が、背後から伸びてきた両手で挟まれる。
「なっ・・・何っ?」
声が裏返ってしまう程動揺したのは、それだけ驚いたからだ。
異性の声がファーストネームを呼んだのはいつ以来だろうか。職場では皆ファミリーネームを使うのが普通なので滅多に低い声で呼ばれない。
まあ年齢から言ってそろそろ大人になるのだから、いつまでもママ呼びではおかしいと思う子は、母をファーストネームで呼ぶこともあるだろう。
ただ、ヒカルが最後にそう呼んだのは、随分昔の事だった気がする。
「アイコこそ恋人は?」
頭の後ろで囁くように言われると、なんだか頭蓋骨までが震えるような気がした。
そして、どうして息子は、愛子の両手を挟んだまま指を這わせているのだろう。甘えているのだろうか、手を繋ぎたいという年でもあるまいに、ヒカルは時々妙にスキンシップをしたがる。背中によっかかってきたり、今みたいにやたら手を触ったりするのだ。
そのくせ、ミスズが年中してくれる両頬のキスは滅多にしてくれない。誕生日などのお祝い事や、イベントの時くらいである。
まあ、困るようなことでもないから別にいいのだが。
「何、言ってるの、よ。もう、私はそんな年じゃないわよ。」
皿を洗っている手を、くすぐるように彼がいじるので、取り落としてしまいそうだ。
「僕らのせいで、結婚出来なかったの?」
「違うわ。私には結婚は向いてなかったのよ。」
彼らのせいなんて事はない。絶対に。
私が未婚のまま母になったのは、好きになった人の事を最後まであきらめきれなかったからだ。
他の誰の事も、初恋の相手以上に好きになれなかった。
だから、断じて、ヒカルとミスズのせいなどではない。
「そんなことない。アイコは仕事も出来て家庭のことも出来る立派な女性だ。僕らを育ててくれたアイコには、幸せになって欲しい」
本当にそう思ってくれているんだろう。ヒカルの声は優しい響きだ。嘘をつかない声音だった。
「ありがと、ヒカル。」
いい子に恵まれたから、結婚なんかしなくてもいいのだ。
そんな風に言ってくれる息子がいるのは、とても幸せな事だから。
「幸せになって欲しいけど、でも、正直言ってどんな男をアイコが連れて来ても僕は反対してしまいそう。」
聞きながら眉根を寄せる。嬉しい事を言ってくれた息子に感動していたのに。なんか言動が矛盾してないか。
ママは自分たちだけのママでいて欲しいって言う、あれだろうか。
「心配しなくても、ママにそんな人はいないし、結婚する予定もないわよ。」
「・・・アイコは、父さんを愛していたんだものね。」
シンクの中に皿が落ちて甲高い音がした。
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