#1.久咲先生とクトゥルフの神

 私は内内にされていた事実を、口にしていた。


 女性の泣き声がする。


 あっ、妻だ。




 時間をさかのぼろう。全部お話しするために――……。






「だめ。48時間ですよ? もっと何か、できるはずです。真面目に考えて!」




「構想の段階であれこれ言わないでくれよ。悩んでる途中なんだから」





 久咲先生の話だと、花田担当編集者は、じだんだしたそうだ。


 そうまでして、原稿をとりたいかって? 当然だった。


 久咲先生は作家だ。自称、天才。担当は花田華。





「ワトソン君とでも呼ぼう」


 ほんのちょっとの茶目っ気はある種の魅力だ。


 久咲先生はそこらへん、間違ってない。


 だが、花田は違っていた。



「が、いつまでたっても校了にすら持っていけない。私の骨折りはどうなるのです」



 花田編集が原稿の一部を読み上げる。



「<「現場を見ていたのは、君だけなんだ。君だけが頼りなんだ」>」




 花田編集によると(有名な話ではあるけれど)、久咲先生は考えこまないと書けない人なのだった。




「まじめにやってください!」


「やってるよ」




「久咲さんはテン……頭からテン……着る毛布をかぶってテン……瞬間的に眠りに落ちたらしかったマル……ガバッと起きてきょろきょろする三点リーダー二個……夢かエクスクラメーションマーク」



 なんだか自分で自分を実況する形になっていた。


 自らを追いこむのは、小説の中でだけで充分なのに。



 久咲先生は、ペンネーム久咲通(くさき かよう)で、今、タイトル、主人公も『久咲通』の作品を書いていただいている。


 その時、その瞬間の味わい深い世界が人気で、臨場感あふれる文章表現は、まさに芸術作品だった。


 今作だって、あんなことにさえならなければ、何十万部と売れただろうに……。




「クトゥルフの夢ですか?」



 聞かずもがな、言わずもがなな質問をあえてしてしまう、花田は少々、アス*ルガーっぽいと言われたことを気にしている。


 ア*ペルガーならば、気にしないと思うので、大丈夫。


 おまえは凡人だよ。




「やれやれ、また眠ってしまわれたんですね。もう、寝ようかなあ、私も」




 陰に回ると、彼女はうだうだと益体もないことを鬱っぽくくだくだ言うのが常である。




「初めてのことで外れたくない。この人の、担当から。構想を練っているこの人からは、何も期待できない。粗相をしてはいけない、いけない。でも我慢できない。クトゥルフ神話が欲しい」



 花田担当編集と、久咲先生は阿吽の呼吸で叫んでいた。




「「クトゥルフ、クトゥルフ! 何が何でも欲しいのよぉ!」」


 久咲先生は唸るように神の名を唱えたあと、ぶつくさ言ったそうだ。


 先生の癖で、自分のことを全部、口に出してしまうのだ。


「ようし、少し寝て……で、ターミネーション」




「割と進んだよ。えっちらおっちら」




 せっかくの報告に、花田はうーんと首を傾げた。




「違うなぁ……」




 久咲先生は瞬時にめげると、引き出しから禁断の物品を取り出した。



「消してる。消しゴムが無駄になるから、よしてほしい。チリ紙交換に出せるくらい書けるのに……欲求不満のときだけは。クトゥルフ、クトゥルフ! ああん、もう!」




 そのとき、クトゥルフの神は見ていたのだろう。





 編集部はささやく。

『――どうなるのかなぁ……』


『――結局、でき上がった雑誌は、文句なくクトゥルフ。名前だけ久咲さんのPNが載っている。まあ、私には関係ないけど』





 ……。






「この時の私にはテン……後々の後悔などテン……どうでもいいのであったマル」


「……今に見てろマル……お世話になったからにはテン……倍返ししてやるからなエクスクラメーションマーク」




「けっこう、物騒な話だった。……しかも久咲さんはテン……編集者の気持ちがテン……わからない人なのだったマル」





 今現在――つくられた原稿を見てみると、



【<ふと、世界が暗転した>】



 とある。



 クトゥルフの神たんとうへんしゅうしゃは、なんで、と思った。なんでいきなり世界が暗転するのだ、と。



 ――――立ちくらみか?


 実はそうだった。



 ――立ちくらみならよかった。




【<世界が暗転したのは私だけのようだ>】


 なるほど。


 ――そばにいるハズの、自称天才作家、久咲先生はなかなかすすまないようだな。




 花田は前途多難の線がある。










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