第四章
4-1 夜空
鏡のおかげで右脚の動かし方を思い出し、歩く練習を繰り返した私は杖さえあればほとんど自分で歩けるようになるまで回復していた。最初は派手に転ぶことも多かったが、だんだんとそれも減っていった。
そんなある日、私は突然平衡感覚を失って床に崩れ落ちた。気づいたリンさんが駆け寄ってくる。
「珍しいね、チホちゃん。ここ最近は上手く歩けて……」
そう言ってリンさんは私のそばにしゃがみ、そして言葉を切った。私が手を震わせ、呼吸を荒らげていることに気付いたからだろう。
「チホちゃん? ……もしかして、あの笑い声?」
「ごめ……なさ……。歩けるように、なってきた頃から、また……」
耳の奥で響く笑い声に抗いながら咳き込む。頭の中がぐるぐるする。私の背中を優しくさすってリンさんは頭を振った。
「何も謝ることはないよ。チホちゃんは悪いことひとつもしてないんだから」
リンさんの言葉にどこか安心して私は目をつむった。頭の中を支配する声と音。自分のせわしない呼吸音がうるさく頭の中に響く。
しばらく大人しくしていたはずの笑い声やノイズはここ最近少しずつ戻ってきていた。母の夢を見る事も増え、決まって彼女は私が扉を開けると倒れていたのだった。何度か母との幸せな夢を見ていた分、起床時の疲労は少なからずあった。どちらも放っておけばどうにかなると思っていたが、どうやら悪化してきていたらしい。
私が詳しく説明するまでもなくリンさんは状況を把握し、説明してくれた。
「歩く練習は旅に戻るための準備ではもちろんあるけど、笑い声から気を逸らすためのものでもあったからね……。歩くことに余裕が出てきて、思い出すようになっちゃったんだと思う。もしかして最近またお母さんの夢も見始めているんじゃない?」
目を薄っすらと開いた私は頷いた。いつの間にかリンさんのほかにアヤちゃんとケイさんが私の元へ駆けつけていた。
「……なあリン、仮にその笑い声を頼りに記憶を辿ってみたらどうなるんだ?」
ケイさんの提案にリンさんは唸る。あまり勧めたくはない案のようだ。しかし私は試しに記憶を、そして夢の先を辿るために笑い声を受け入れてみた。
何かを思い出すという訳では無かったが、変化があった。じわり、と胸の奥に滲み始めたのは焦燥感、恐怖感、それとも……
快楽――?
ビクン、と脚が勝手に動いた。驚きと身に覚えのない感情の気持ち悪さに思わず声が漏れた。
「うっ?!」
「チホちゃん?! ……もしかして何か思い出そうとしたの?!」
床に倒れ込みそうになった私をリンさんが受け止めた。私を馬鹿にしたような笑い声がもう一度頭の中で大きく響き、そして消えた。
「チーちゃんごめん、俺がいらないこと言ったから……!」
ケイさんはそう謝ったが、私は笑い声が消えたことに大きな安堵を覚えていた。それにこれは私が勝手に試したことなのだから誰のせいでもない。ゆっくりとリンさんの腕から離れた私は俯けていた顔を少しだけ上げて返事をした。
「ケイさんのせいじゃ、ないです……。それに今、笑い声が止まって、ようやく静かになりました」
震える呼吸を整えながら私は微笑んで見せた。しかしアヤちゃんは悲しげな顔を見せて私の手を取った。みんなを安心させるために笑ったはずなのに、アヤちゃんはまるで何かを祈るように私の手をおでこにくっつけていた。
しばらく全員が黙ったままだった。リンさんは指を口元に当てたままま難しい顔で何かを考えていた。アヤちゃんは変わらず私の手に顔を埋めたまま動かない。
それは私にとって久しく訪れた静寂だった。ここ数日気を抜くと笑い声が聞こえ続けていたせいか、音がないことでむしろ耳が痛くなっているような気がするくらいだった。
そしてその痛いほどの静寂は、これから先への不安感を高めた。
「笑い声……今は聞こえないけど、きっとまた思い出してしまうと思うんです……」
みんなが、私が紡ぐ言葉の続きを静かに待っている。静けさと三人の悲しそうな目は私の胸の奥に潜む弱さを浮き彫りにした。
「でも私、怖いんです……。旅に戻るには、この声のことを思い出さないといけないって、わかってる……。でももう、もう聞きたくない……聞いているだけで狂ってしまいそうで……。でも、でも……、私――」
再び震え出す私にイヤイヤとでもいうように頭を横に振ったアヤちゃんが私の手をさらに強く握った。アヤちゃんの手の温もりは私の手に伝わり、気休め程度に私の震えを抑えた気がした。
太陽はとうに暮れ、窓の外は暗闇に包まれていた。終わりのない沈黙に耐えかねたケイさんが頭をぐしゃぐしゃと掻いたとき、マルさんが部屋に入ってきた。部屋が暗くなっているのに明かりをつけない私たちに首を傾げ、壁にかかっているランプの明かりを灯した。
「マル、どこに行ってたの?」
明かりをつけたマルさんにリンさんは何気なく、静かに尋ねた。
「……星」
マルさんはそう答え、しばらくの沈黙が流れる。その後、彼はもう一度口を開いた。
「……さっきまで星、見てた。たぶん、きれい」
するとリンさんは息を飲み、ぐるりと私を振り返った。どこか興奮したような顔をしていたがそれはすぐにしまわれた。代わりに優しい微笑みを私に向けてこう言った。
「チホちゃん。色を見る練習、しよっか」
*
どういう訳か、私たちはアヤちゃんの運転する車に乗っていた。私たちが普段過ごしている建物は砂漠の遥か彼方に消え、辺りは車のライトが照らす先以外真っ暗である。疲れ切ってぼーっとしている私を挟んでリンさんとケイさんが話していた。
「この間チホちゃんが全然乗り気じゃなかった色を見る練習をするって……。それにこんな暗いんだから色もへったくれもないんじゃないのか?」
「だからいいのよ。明るいとどの色も鮮明に見え過ぎてしんどいだろうからね」
マルさんに抱きかかえられて車を下りた私は、砂漠に腰掛ける形で地面に下ろされた。ランプを持ったリンさんが隣に来て私に目をつむるようにと指示をする。
「チホちゃん、今からゴーグルを色が見える設定にするね。そして見ていいのは上だけ。私たちのことは見ちゃだめだよ、きっと色にびっくりしちゃうから」
私は目をつむったままこくこくと頷いた。ゴーグルからカチカチと音がする。
「よし。上向いて、目開けていいよ」
指示通り私は顔を上に向け、目をゆっくりと開いた。初めて色を見たときのように驚くまいと、ゆっくりと──
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