3-11 鏡
室内に戻り、私に渡されたのは身長の半分ほどの長さの棒だった。太くはないがしっかりとした鉄の棒で片側の先端は持ち手のようになっている。
「見た目はただの棒かもしれないけど、これは杖って呼ばれるものだよ。右脚はまだうまく動かないみたいだから、これを支えに歩いてみよう!」
私の足が動くようになった日のために前々から用意してくれていたそうで、とてもありがたく感じた。そう、ありがたく感じているのだが……
「リンさんんんん、やっぱり全然歩けないんですけどぅぅ……」
「でも立ってますよチホさん……! すごいです!」
杖に掴まったまま立ち尽し、情けない声を出す私にアヤちゃんは励ましを送ってくれる。ケイさんも私の横で手本を見せるようにゆっくりと歩いてくれるが、私にとってそれはただ歩ける自慢をされているだけのようなものだった。
私の立つ数メートル先で待っているリンさんが腕を組んでアドバイスをする。
「チホちゃん、歩けないのは右脚を出し忘れてるからだよ」
「えっ、みぎあし……?」
私は自分の足元を見た。立つために必死に右手で掴んでいる杖の近くにあるのは左足のように前に進む気のない右足。
「あー!!! もう、なんで私こんなに右脚のこと忘れちゃうんですかね?! これで何回目?!」
「六回目」
私から距離のある場所にある椅子に座りこちらを眺めるマルさんが丁寧にも数字で答えてくれた。しかしそれは私が今欲しい言葉ではない……。
「やっぱりちょっと厳しいかー……。でも仕方がない現象なんだよ、チホちゃん。
「はんしん……ふ……?」
一度車椅子に座り休憩をする私にリンさんが説明をしてくれるが、聞きなれない言葉が含まれていて首をかしげる。
「まあ半身不随のことは一旦忘れて、チホちゃん。とりあえず……チホちゃんの左脚が動くようになったのは、夢の中で頑張って歩く自分を体験したからだと私は踏んでるんだ。今まで見た夢でも歩いたりはしてただろうけど、今回はより強く『歩く』ことを意識したんじゃないかな」
確かに昨晩見た夢は人混みに負けないよう、懸命に足を踏み出す自分がいた。リンさんが言いたいのはつまり、夢で歩いたおかげで現実世界でも脚が動くのではと脳が気づいた、ということだろうか。
「でも右脚は戻らなかった。車椅子で歩く練習したときのこと覚えてる? あの時の私の推測通り左脚が――割れた右目とは反対の左側の脚が先に戻った……」
「じゃあ右脚はどうすれば……?」
アヤちゃんの質問に待ってましたとばかりの顔をするリンさん。
「チホちゃんの脳を騙しまーす!」
意味がよくわからないことを言って立ち上がったリンさんは、なぜか自身の部屋に何かを取りに行った。
しばらくしてから大きな長方形の板を抱えて帰ってきたリンさんに即座に反応したのはアヤちゃんだった。
「か、鏡ですか?! えーっ?! ど、どこで見つけたんですか?!」
アヤちゃんはとてつもなくはしゃいだ様子でリンさんに駆け寄った。大きな板を床に下ろしながら、愛おしむような目で微笑んでリンさんは答える。
「私の部屋の奥にあったんだ。この建物、私たちが見つけたときから色々とガラクタが置いてあったでしょ? その中にあるのを最近見つけたの!」
「最近……? そんなでかいもの最近まで見つけられないくらいお前の部屋散らかってるのか……?」
ケイさんの突っ込みを気に留めず、リンさんは大きな板の面を私の方に向けた。鏡と呼ばれた板にはぽかんとした顔をこちらに向けた少女が一人。
「……え? 誰?」
私と鏡の中の少女は同時に目を瞬かせた。鏡を壁に立てかけたリンさんはクスクスと笑った。
「お、鏡知らないのかチホちゃん。今チホちゃんの目の前にいるのはチホちゃん自身だよ」
「これ、私なんですか……?」
鏡の中で車椅子に座る少女をまじまじと見つめると、少女も同じようにこちらを見つめていた。試しに手を振ってみると時間差無く振り返される。
「鏡はその前に立つ人や物の光を反射して、そっくりそのまま写すもの。これを使ってチホちゃんの脳を騙すんだよ」
「さっきも言ってましたけど、騙すってどういう意味ですか?」
私の疑問にリンさんは両手を高く上げて嬉しそうに笑った。
「いえーい! ようやく《ハーフ》っぽい知識が使えるー! 私は戦わない、治療という名の修理専門だからこういう時にしか頑張れないのよね」
そう言ってえへんと胸を張り、意気揚々と説明を始めた。
「さっきもチラッと言ったけど、半身不随……簡単に言えば体の半分の感覚が無くなってしまった人はその存在すらも忘れちゃうことが多いんだ。チホちゃん見てるとこれは
リンさんは私の車椅子を鏡の右側面に向き合える場所まで押した。私にはもう鏡に写る自分も、鏡の面さえも見えていない。リンさん以外の全員がその意味を理解できず頭を悩ませた。
「あの……せっかくの鏡が見えないんですが……」
「見るんだよ、ここから! もうちょっと押すね」
リンさんは私の左右の太ももが鏡を挟むくらいのギリギリまで車椅子を近づけた。
「ちょっと体乗り出したら見えるでしょ?」
確かに身を乗り出せば鏡を覗き込む自分映っているのが見える。私の背後に立ったままのリンさんはにこにこと笑って指示を出した。
「じゃもう一回普通に車椅子に座って、右脚動かそうとしてみて?」
「えーと、ピクリとも動かないですが……」
鏡の裏側にある右脚は無論動かない。リンさんの意図がわからず後ろを振り返るとリンさんは私の顔を両手で挟み、ぐるりと顔を前に向かせた。
「うん、それでいいよ。じゃあ次は鏡見ながら左脚を動かしてみて?」
「はい……、え?!」
思わず大きな声を出してしまい、その場にいた全員を驚かせてしまった。私は確かに左脚を動かしたのに、鏡の中の私は右脚を動かしていた。目をぱちくりとさせているとリンさんが私の前に回ってきた。
「まるで右脚が動いたみたいに見えたでしょう? この訓練を繰り返せば、チホちゃんの脳も右脚が動かせるものだって気づくはず!」
この言葉で私はようやく左脚が鏡に映り右脚に見えていたことに気づいた。騙すというのは脳に両脚が、つまりは右脚も動いている、動かせるものであると訴えかけることだったのだ。
「すごいなあ。俺にはただ鏡に映る脚にしか見えなかったけど、チーちゃんには衝撃的な景色だったのか……」
「右脚の存在忘れるほどだからねー。この方法が有効そうでよかったよ」
リンさんは私にぱちんとウィンクして見せた。ウィンクの意味をなんとなく覚えてきた私は「よかったね」という言葉として受け取っておいた。
私は鏡を使った訓練を毎日か欠かさず行った。朝の充電の後と、太陽が空のてっぺんに来た時の一日二回。十日ほど経った頃には右脚を少しずつ動かせるようになっていた。リンさん曰く、
練習の合間にアヤちゃんが鏡の使い方を教えてくれた。戦前、人々は衣服を何着も、何種類も持っていて、その組み合わせを鏡の前に立って確認したりしていたそうだ。髪の毛のセッティングや化粧と呼ばれる顔の見た目を整える行為にも使ったらしい。
しかし私たち五人は服を一着ずつしかもっていないし、その見た目もほとんど同じ。違いといえばケイさんとマルさんがズボンであることに対して私を含めた他の3人はスカートであることくらい。髪を細かくいじったり化粧をすることもないので、昔のように鏡を使うことはあまりできないようだ。
ある程度脚を動かすことができるようになり、歩く練習を本格的に始めた。練習は苦痛ではなかったが、体の動かし方を思い出しながら実際に歩くことに体が追いつかないようで、疲れて私は毎晩泥のように眠った。身体的疲労は《ハーフ》の特性で全くなかったので、精神的な疲労だったようだ。こうして暫くの間、私は母の夢を見ることはなかった。
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