第2章 ネイア2008

1.わらわの過去

“――ネイア”


 いつものように神殿で闇を見守っていると、ソータの声が聞こえた。


「……ソータか。今どこにいる?」

“ラティブの西……昔、領主屋敷があった辺りだ。ラティブの雫はこれでとりあえず集められたと思う”

「そうか。……大変だったな」

“かなり量があるから、一度ヤハトラに戻ろうと思うんだが”

「わかった」

「ソータ? 母さま、ソータと話をしているのか?」

 

 わらわの近くに居た7歳になる娘のセイラが、そう言ってわらわに抱きついてきた。


“――ん? セイラか?”


 わらわを通じて声が聞こえたらしい。


「そうだ」

「ソータ! いつ帰ってくるのだ?」


 セイラが嬉しそうに話しかける。

 ソータと直接会ったのは、2年も前になる。それ以降はわらわを通じて少し話をする程度なのだが、妙に懐いていた。

 やはり……女神ジャスラの血筋は、どうしてもヒコヤの魂に惹きつけられてしまうのかもしれない。


“んー……多分、1週間後かな”

「そうか……。まだ先なのだな……」

“ネイアの言うことをちゃんと聞いて、勉強して、おとなしく待ってろ”

「わかった!」

「こら、セイラ。長く話すとソータが疲れてしまう。いい加減にするのだ」

「はぁい……」


 セイラが少しふくれっ面をしながら、わらわから離れた。


「ソータ、すまなかったの」

“いや、別に。じゃあ、そういうことだから……”

「承知した」


 しばらくしてソータの気配がふっと消えた。

 ふと、神殿の闇を見上げる。


 ――ミズナがこの中に消えてから……12年、経っていた。


 ミズナの浄化は、ゆっくりとだが確実に進んでいる。未だ姿は見えないが……。

 しかし近いうちにレジェルが浄化のためにヤハトラに来ると言っていた。

 浄化している間は闇が動き、ミズナの姿が垣間見えるようになる。

 ソータが戻ってくる頃に合わせて来てもらうのがよいかもしれない。


「母さま、ソータが帰ってきたらミズナも喜ぶ?」

「……そうだな」


 セイラの問いに返事をしながら、わらわは遠い昔のことを思い出していた。

 ――そう。あれは、わらわの母が亡くなる前のこと……。



   ◆ ◆ ◆



「ネイア。……十代目のヒコヤが現れたようだ」


 わらわが12歳になる直前……。第百一代ヤハトラの巫女である母が、わらわを神殿に呼んでそう告げた。

 母は神殿の中央にある椅子にもたれかかっていた。もともと身体が丈夫でない母であったが、このところかなり痩せたように思う。


「……そうか」

「今度のヒコヤはとても若い青年なのだ」

「そうなのか?」


 母がそっと合図をすると、傍に控えていた三人の神官がすっと前に出た。中央の神官が手を翳すと、楕円形の映像が現れる。

 見ると、まだ16、7歳ぐらいの元気そうな少年の姿が映った。


「ソータ、という名前だ」

「ソータ……」

「……過去に、これほど若い青年がヒコヤとして現れたことはない。ヒコヤの魂が目覚めるのが早いということは……おそらく、一番強く力を引き継いでいるのだと思う」


 母は映像を見ながら溜息をつくと、もう一度合図をした。神官が夢鏡ミラーを閉じる。

 そして静かに神殿を後にした。

 ――わらわと母の、二人きりになる。


「しかし……若いということは、それだけ心も揺らぎやすいということだ」

「……」

「しかもこの少年は、母を失い……少女を失い、心に空洞を抱えておる」

「母さま……!」


 わらわはギョッとして母を見た。


「まさか、夢鏡ミラーを通じて過去を視たのか?」


 わらわたちヤハトラの巫女は、過去を視る力を持っている。

 しかし普通は対象に触れることで視るものだ。触れずに視る場合はかなりの力を消耗する。


「そんなことをすると身体に……」

「おそらく三年以内にこちらに来るであろう。ネイア、そのときはよろしく頼む」


 母がわらわに構うことなく話を続ける。


「――わらわに……頼む?」


 わらわは驚いて母を見た。

 おかしなことを言うものだ。三年以内なら、まだ母が巫女のはずだ。

 三年後でもわらわはまだ14……いや、すぐに15か。

 しかし、ヤハトラの巫女は早くても、18ぐらいで後を引き継ぐ。わらわが巫女の訳がない。


「……お前にはまだ言ってはいなかったのだが……」


 母はそう言うと、ふと顔を曇らせた。


「わらわはおそらく半年ももたぬ。まだ若いそなたには申し訳ないが……覚悟をしておいてほしい」

「――!」


 母の容体があまりよくないことは重々分かっていた。

 そして……とても心優しい人だということも。

 ヤハトラの巫女は神殿の闇を管理し、暴れた時には抑えることもある。

 そのたびに闇に触れた母は、さまざまな闇の叫びや悲しみに触れ、いつも心を痛めていた。その負荷が身体にもかかっていたのだろう。


「そんな身体で、どうして……!」


 どうして、ヒコヤの――ソータの過去を視たりしたのだ!


「ソータの瞳が気になったのだ」

「瞳……?」

「――今度の……最後の旅は、恐らく過酷なものになる。先代もその前も、ヒコヤは戦を経験している人間だった。しかし今のミュービュリは平和そのものだ」


 母は溜息をついた。


「見たくもないものを見続ける旅になる。ただでさえ若い……心に憂いがあってはならぬと思っての」

「だからと言って……」

「せめて彼の憂いがなくなる手助けができればと思ったのだ。――わらわの命は残り少ない。してやれることは、してやりたくての」


 母はそう言って微笑むと、わらわを手招きした。

 傍に近寄ると、そっとわらわを抱きしめた。


「いいか、ネイア。ヒコヤはジャスラの民ではない。ヒコヤの、勾玉の欠片をジャスラに渡さなくてはならないという強い想いが魂に受け継がれているに過ぎない」

「……」


 母がわらわの耳元で囁いた。

 その声が……わらわの身体全身に、染み渡るように広がっていく。


「ジャスラのために旅をしてくれるのだ。感謝の心を忘れるな」

「それは……勿論……」


 母は私の身体を離すと、私を優しく見つめた。


「ソータの空洞の少女は――ミズナという名だ。憶えておいてほしい」


   * * *


 それから2カ月ほどで……母は亡くなった。

 わらわは第百二代ヤハトラの巫女になった。わらわは巫女としての力は強いと言われてきたのだが、まだ若く、慣れぬことも多く、大変だった。


 神殿の闇を守る日々が続き、これほど大変なものなのかと改めて痛感した。

 闇の叫びや嘆きは想像以上に重い。身体の弱い母がこれにいちいち反応していたのでは、それはもたないだろう、と思った。

 ――そうして巫女の役目に慣れた頃……ミズナが現れた。


   * * *


 いつものように神殿の闇を見上げる。今日はかなり荒れている。注意しなければ……。

 そう思っていると、ふいに神殿の中の空間に揺らぎが生じた。


「――何だ?」


 驚いて振り返る。

 扉の前に控えていた二人の神官が慌てふためいていた。


「ネイア様、しばらくここを離れた方が……」

「今日は闇が暴れておる。目を離せぬ」

「しかし……」


 次の瞬間、部屋の中央に大きな空間の裂け目が現れた。


「何……」

「きゃあ!」


 二人の神官が顔を伏せる。


「何だ……これは!」


 空間の裂け目が徐々に大きくなる。かなり大きな力を感じる。

 すると……一人の少女がゆっくりと落ちてきた。茶色い髪……茶色い瞳。

 次の瞬間、神殿から漏れた闇が少女に襲いかかる。


「あっ……」


 守らなくては、と手を伸ばすより早く、少女が手で闇を振り祓った。弾き返された闇の一部が……泡になる。


「くっ……!」


 わらわは少女が弾き返した闇を神殿に戻し、抑え込んだ。

 一息ついて振り返ると、空間の裂け目はもうなくなり……床に少女が倒れ込んでいた。


「ネイア様、いったい……!」

「今、何が……」


 普段は静かに待機している神官が、この唐突な出来事に対処できないでいる。

 外部からこのヤハトラに人が現れることは……ない訳ではない。勾玉の影響でごく稀にミュービュリとの穴が開くことがあるからだ。

 しかし、このような空間の裂け目から人が現れたのは初めてだった。


 しかも――この少女は、今……何をした?

 まさか……闇を祓ったのか?


「ネイア様、近付いては……!」


 神官の制止を振り切り、わらわは少女に触れた。


 ――颯太くん……。


 少女の微かな呟きが、聞こえてきた。

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