恐怖さえ覚えるほどの、幸福なひととき
「ところでヴィー、俺にも読める本はないか?」
就寝の直前、これから
すでに寝転がっていた女は上体を起こし、意外そうに目をしばたたかせる。
「お前、文字が読めたのか」
「孤児院で、読み書きは一通り習ったよ」
ラスティは苦笑しながら説明する。ヴィオレットは、ラスティが文字を読めることさえ知らなかったらしい。確かに、それを披露する機会はなかった。
「どういう風の吹き回しか知らないが、何冊か見繕ってやる」
ヴィオレットは軽やかにベッドから飛び降りると、本棚へ向かって行った。
すっかり入眠体勢だったのに、わざわざ起き上がるなんて。まったく思い掛けない出来事に、今度はラスティが目をぱちくりさせた。
ヴィオレットは本棚の前で少し悩んでいたが、中段に収まっていた立派な装丁の本を手にして戻ってくる。
「これは恋愛物語だが、登場人物も少ないし、一人称だから読みやすいだろう。主人公の年齢もお前に近い」
「そうなんだ」
返事をしつつ、ラスティはひどく戸惑った。面倒臭がりのヴィオレットが、こんなにも丁寧な対応をしてくれるとは。
ヴィオレットはラスティにぴったりと身を寄せると、膝の上に本を乗せ、最初のページを開いた。まるで、母が子に絵本を読んでやるように。
「読めるか?」
「……うん、たぶん大丈夫だ」
文字の羅列に目を通したラスティは、これなら読めるかも、と胸をなで下ろす。あとは集中力や飽きの問題だろう。果たして、内容が頭に入ってくるだろうか。細かい文字にうんざりしないだろうか。正直、今もちょっと後悔している。
「無理をするな。いざとなったら、私が朗読してやる。毎晩、少しずつな」
「ヴィー……」
優しさの詰まった台詞に、ラスティは己の耳を疑った。隣にいる女は、本当にヴィオレットだろうか。ラスティが本に興味を持ったことが相当嬉しいようで、口元に穏やかな笑みを浮かべている。
「ラス……」
甘い囁きが耳朶をくすぐる。
「その代わり、約束してくれる……?」
なんでも誓う、とラスティは熱い目でヴィオレットを見た。女は、笑みを濃くする。
「本を開いたまま、裏返して机に置くな。読む前には必ず手を拭け。菓子を食いながら読むなど言語道断」
言葉が進むほど、笑みが消えて
「どれか一つでも破ってみろ。二度とまともに小便できないようにしてやる」
やはりいつものヴィオレットだ。いや、ことさらに苛烈だ。あまりの迫力に、人質にされた部位が縮み上がった。
きっとこの本は、とても思い入れのあるものなのだろう。それを貸してくれたということは、信頼の証であると思いたい。
眠りにつく前に、数ページだけ読んでみた。
ずいぶん時間がかかったし、主人公が現在の境遇を語るだけで、なんの面白味もなかった。
しかし、ヴィオレットは眠ることなく付き合ってくれた。難しい言い回しに引っ掛かっていると、解説してくれた。物語の舞台になっている国の話をしてくれた。
少女のように優しい顔つきをして、うきうきと弾むような声で、ラスティのためだけに夜語りをしてくれた。
ラスティの方が先に眠くなってしまったが、決して機嫌を損ねることはなかった。
翌日は居間で、庭で、寝室で読み進めた。ヴィオレットはずっと
シェリルも、ずっと微笑ましそうにしている。従者として、ヴィオレットの歓喜に感化されているらしい。
あまりに幸福だった。恐怖さえ感じるほどに。
***
ラスティが読書を始めてから、一週間が経過した。
進捗状況は半分以下。ようやく主人公とヒロインが出会い、もどかしくなるようなやり取りを始めた。会話シーンが多くなったため、読みやすくなった――と思いきや、回りくどい表現が増えた。
しかし、ヴィオレットは相変わらず親切に解説してくれる。数行に渡る文章を丸々読み上げてくれたこともあった。
今もまた、ヴィオレットの寝室のソファの上で、彼女と肩をくっつけ合って、架空の男女の恋愛模様を覗き見している。なんだか妙な気分だ。
「私、この場面が好きなの」
突如、ヴィオレットが囁いた。蜜のように甘く、しっとりと濡れた声で。
どきりとしたラスティは、ヴィオレットの表情を窺った。彼女は陶酔したように目を細め、ラスティの手元を見つめている。
やがてそっと目を伏せて、台詞を
ヴィオレットの美声で紡がれる、大仰すぎない朗読は耳に心地よかった。しかもその内容は、恋する男女の睦言。耳から侵入した熱は、やがて全身を巡り、胸を高鳴らせる。
「……聞き惚れたよ」
静聴のあと、それだけ絞り出すのがやっとだった。ヴィオレットは当然だと言わんばかりに笑って、ラスティの肩口に顔をうずめる。
こうなると、もう読書なんてに集中できない。ラスティはどぎまぎしながら本を閉じ、テーブルに置いた。
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