本当の顔
「……逃、げろ」
弱々しく命じても、ラスティは動こうとしない。
「逃げろ、ラスティ!!」
エドマンドは脚の痛みを押して絶叫する。
「シェリルを連れて、去れ!!」
するとラスティは蒼白になって
「あ、あんたはどうするんだ!」
「ぼくのことはいい! シェリルの方が重傷だ!」
「あんたも重傷だろうが!」
ラスティは腕の中のシェリルを案じつつ、エドマンドのことも捨て置けないようだった。逡巡する素振りを見せたあと、名案が浮かんだと言わんばかりに顔を輝かせた。
「ヴィーを呼んでくる!」
「それだけは絶対にダメだっ!」
エドマンドはすかさず叫ぶ。ヴィオレットの助力があったとしても、現況は好転しないだろう。
おそらく、ヴィオレットはハリーを目にした途端、幼児のように震え出す。挙げ句、ハリーに辛辣な言葉を吐き掛けられ、塞がりかけた傷を抉られるだろう。
「ただ逃げて、逃げおおせてくれ……。お前たちになにかあったら、ぼくは二度と彼女に顔向けできない」
「もう手遅れかもしれないがね」
酷薄な声と共に、右腿を貫通している槍が暴れた。ハリーが槍を掴んで左右に揺らしたのだ。
言語に絶するほどの激痛に、エドマンドは自分が嫌いになるほど情けない悲鳴を漏らした。
「ははっ、まるで凌辱された乙女のようじゃないか」
下劣な物言いをするハリーに、再度フレデリカがしがみ付いた。
「もうやめて!」
「フレデリカ、もしかして演技だったのか? あの男がセーラを救助するまで、私を足止めするために?」
冷たい目を向けられたフレデリカは、たじろいでハリーから手を放す。けれどすぐに眉をつり上げ、毅然と言い放った。
「演技なんかじゃないわ! 確かに、トムが目を覚ましたとき、あなたの気を引くように指示されたけれど……。無我夢中で、最初は自分でもなにを言っているのかわからなかった! でも、あなたを止めたかったのは本当よ! あなたに、誰も殺して欲しくなかった!」
「なにも知らぬ娘は黙っていろ」
「なにも知らないからって、口を閉ざす理由にはならないわ!」
勢いよくまくしたてるフレデリカに対し、ハリーは困ったように微笑んだ。手のかかる妹のワガママに呆れつつも、気が済むまで付き合ってやろうとする兄のような笑み。
「まったく、本当に小うるさい娘だ」
不意打ちで温かな笑顔を向けられたフレデリカは、ぽかんと口を開けた。
同時に、隙が生じる。
ハリーはすかさずフレデリカの首根っこを掴み、子猫のように持ち上げて自身から引き離した。
小さな悲鳴を上げて尻餅をつくフレデリカ。彼女が追い縋れぬよう、ハリーは霧となって遠ざかった。
移動先は、ラスティとシェリルの目の前。ハリーの手には、しっかりと赤い槍が握られている。
ラスティはかすかな怯えを見せながらも、ハリーへはっきりと語り掛けた。
「ハリー……。あんたのことは、なんとなくわかったよ。過去にヴィーとなにがあったか。ヴィーがたまにすごく辛そうな顔をするのは、あんたのせいだったんだな」
「その通りだ」
軽い調子で返事をするハリーがどんな表情をしているか、エドマンドの位置から窺い知ることはできない。フレデリカと共に、固唾を飲んで状況を見守った。
今は下手に声をかけて、ハリーを刺激するべきではない。
ラスティは果敢に言葉を続ける。
「なぁ……あんたの本当の顔はどれだ?」
「なに?」
「エドマンドやシェリルへ向ける残忍な顔か? フレデリカを見るときの兄貴みたいな顔か? 椿の花を愛でる優しい顔か? それとも――」
一旦口を閉じたラスティは、大きく目を見開いて、ハリーの面を凝視した。そして、意を決したように語り掛ける。
「それとも、
ラスティの言っていること、エドマンドには半分程しかわからなかった。残り半分は、彼らのみしか知り得ぬ思い出なのだろう。
ラスティが迷子になり、ハリーに『保護』されていたわずかな時間で、親交を深めたときのもの。『昔の男』と、『今の男』が、素性を知らぬままに関わってしまったときのもの。
「……黙れ」
ハリーはこれ以上なく不愉快そうな声で吐き捨てた。けれどラスティは止まらない。悲痛そうに顔を歪め、ハリーを諭すように言う。
「あんたがたまにすごく辛そうな表情をするのは、ヴィーの……」
「黙れ!」
怒号と共にハリーは槍を振りかぶった。ラスティはすぐに肉体を霧に変え、攻撃を回避しようとする。
「ラスティ!」「トム!」
エドマンドとフレデリカの声が重なる。
シェリルを内包した霧は地面すれすれを漂い、天に去ることもできず、朽ちた塔の壁にぶつかって人の形になった。
現れたラスティは左腕を負傷していたが、エドマンドの位置からでは傷の深度はわからない。痛みに顔をしかめながらも、ラスティはシェリルを離すまいとしていた。
ハリーが右手を掲げると、獲物を仕留め損ねて地面に突き刺さっていた槍が戻る。
槍を握り締めたハリーは、大股でラスティらのもとへ歩み出した。
その足取りはやや鈍重。裂傷、失血、術の連続使用で、体力が底をつきかけているようだ。
「頼む、フレデリカ……」
絞り出すようなエドマンドの懇願に、フレデリカはびくっと肩を震わせてから振り返った。
緊張みなぎる少女の顔を真っ直ぐに見据えながらも、エドマンドは二択を決めかねていた。
先ほどのように、フレデリカにハリーを止めてもらうか。
もしくは、エドマンドを縫い留めている槍を引き抜いてもらい、霧となって特攻するか。
どちらがより長時間、ハリーを引き留めておけるだろうか。どちらがより確実に、ラスティとシェリルを逃げ果てさせることができるだろうか……。
「ぼくに刺さっているものを抜いてくれ……。思いきり力を込めて、ひといきに……」
結局エドマンドは、己が傷付く方を選択した。幼さを残す少女ただ一人に重責を負わせることはできなかった。
尻餅をついたままだったフレデリカは、喉を鳴らしたあと、決然と立ち上がる。
「エ、エドマンド様とおっしゃいましたね。誠心誠意、務めさせていただきます。どうか、お気を確かに……」
気丈な物言いにエドマンドは安堵し、『頼む』と言って歯を食いしばる。
しかし、フレデリカが槍を掴んだ瞬間、槍はさらに深く地面へ沈んだ。
悲鳴を上げながらハリーを見ると、横目でこちらを睨んでいた。なんとしてもエドマンドを標本の虫のようにしておきたいらしい。
「くそぉぉっ、フレデリカ、ハリーを止めてくれ!」
焦燥と無力感に絶叫すると、フレデリカは今までの拙さが嘘のように全身を霧に変え、高速でハリーへと向かう。そのまま体当たりするようにしがみ付いた。
ハリーはわずかにバランスを崩したが、槍の投擲を阻止することはできなかった。
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