第三部

序章

なまえのないばけもの

 その少女は、ソファに突っ伏してずっとすすり泣いていた。

 ホレスという名のカルミラの民の元からさらってきた少女だ。

 頭からショールをかぶり、可能な限り顔を隠すそのさまは、まるで異教を奉じる国の女のようだった。


 テーブルを挟んで対面の椅子に座るハリーには、わかっていた。その少女はすでに泣き止んでいるということを。

 泣き真似をしてハリーを寄せ付けないようにしているのだ。もしくは哀れみを誘って油断させる算段か。


 したたかでこすい性格の娘だろうと、一目見たときからなんとなく感じていた。その予想が見事適中し、ハリーのくちびるは笑みの形につり上がる。


 少女の体力が尽きるまで我慢比べをしてもよかったが、時間の無駄だと思い至った。


「お嬢さん、名前を聞いても?」


 優しく語り掛けるが、返事はない。


「知らぬままでは不便だから、勝手につけてしまおうか? ――ええと、マ」

「フレデリカよ!」


 少女は顔を上げて、唾を飛ばす勢いで叫んだ。泣き真似がバレてしまう恥辱より、改名される屈辱を阻止する方を選んだらしい。これもおおかた想定通りだ。

 ショールがはらりと床に落ちたが、少女――フレデリカは拾うことなく膨れっ面をしている。


 ハリーは改めて少女の容姿を眺めた。

 泣き腫らして真っ赤になっているが、瞳は美しいグリーン。薄茶色の毛髪は真っ直ぐ腰まで伸びていて、つい触れたくなってしまう。


「どうして、こんな人攫ひとさらいみたいな真似を? あたしを売るの? カルミラの民や従者は、教会へ連れて行けば『異端者』として高値で売れるって……。そのため?」


 フレデリカは恐々としながらも、矢継ぎ早に問うてくる。ウソ泣きをやめれば、意外と饒舌だ。

 その問いを肯定して怯えさせる戯れをしてもよかったが、やめておこうと冷静に思い直した。意地悪して鬱屈を晴らすために連れてきたのではないのだから。

 ハリーはゆっくり首を横に振る。


「昔は魔女狩りの被害に遭った者もいたようだね。でも、そんなことはしないよ」

「じゃあ、どうして?」


 胡散臭いものを見るように、じろりと眺められる。


「仲間が欲しかったんだ。私のお手伝いをしてくれる仲間がね」


 正直に答えたのだが、フレデリカの眼差しはますます不審げになった。据えた目でこちらをじっとり見つめてくる。

 可憐な少女にそんな顔をさせるのが忍びなく、ハリーは安心させるように微笑んだ。己の笑顔が、他者にどんな影響を与えるかは経験則でよくわかっている。


「もちろん、うら若き乙女である君に相応しくないことはさせないよ」


 すると、フレデリカの態度は軟化したが、不安そうに自分の身体をかき抱く。


「ほんとうに……?」

「ああ、女衒ぜげんのように、女の子を騙す甘い嘘はつかないよ」

「そういう物言いが、すごく嘘臭いわ!」


 ぴしゃりと言われ、ハリーは片眉を上げた。


「紳士に向かって、ひどいな」

「人攫いのくせに!」


 吐き捨てたあと、フレデリカの表情が不安げなものに戻る。眉尻を下げ、尋ねてきた。


「ここはどこのお屋敷なの?」

「私の『領域テリトリー』さ。といっても、他のカルミラの民から賭博で巻き上げたんだけれど」


 と、ハリーはほくそ笑んだ。

 従者と共に、しょんぼりと悄気返しょげかえって屋敷を去って行くカルミラの民の後ろ姿を思い出すと、痛快な気分になる。たいそう嫌味な奴だったからだ。

 だが、そんな事情を知らぬフレデリカには非難されてしまう。


「他人のものを奪うなんて、ひどいわ!」

「カルミラの民だって、住まいを得るときは籠絡した人間から奪うんだよ。ヤドカリと一緒さ」

「え、ヤド? なに?」


 どうやらこの娘は、その水棲生物のことを知らないようだ。海で獲ってきて見せたら、きゃあと悲鳴を上げて逃げ惑うか、しげしげと見つめるかどちらだろうか。

 ついどうでもいい妄想に耽っていると、フレデリカの問いが続く。


「どうしてあたしを選んだの?」

「それはね……」


 ハリーは深い笑みを浮かべた。あのときホレスの背後にいた四人の従者たちの中で、フレデリカだけが恐怖の中に怒りを燃やしていたことを思い出したからだ。とても、よい目だった。


「君が、私と一番相性がいい気がしたんだ」

「いやっ、気持ち悪い!」


 すかさず叫ばれ、ハリーは苦笑する。まるで害虫が出没したときのような応対だ。

 だが、これくらいでちょうどいい。ただ淑やかで、男に追従するだけの女などつまらない。ぎゃんぎゃんと言い返してくるくらいでなければ、張り合いがない。やはり彼女を選んでよかったと心から思う。


「あなた……一体なんなの?」


 フレデリカの視線が、ハリーの顔の横あたりを彷徨さまよった。


「カルミラの民じゃ……ないわよね?」


 どうやら、耳が尖っていないことを不審に思ったようだ。疑問符を浮かべて首を左右に傾けている。


「かといって誰かの従者というわけでもなさそうだし……。しかも、おかしな力を持っている……。やっぱりとっても気持ち悪いわ!」


 最後の言葉を聞き流しながら、ハリーはなんと返答したものかと思考を巡らせた。

 己がカルミラの民でないのはもちろんだが、かといって少女の問いに対する適切な答えが浮かばない。


 ハリーは右目を押さえ、『己は一体なんなのか』を思案する。自問しても回答は得られず、ついくらい声が出た。


「……私は……一体……なんなのだろうね」


 人間でもなく、従者ですらなくなった。けれど、カルミラの民を凌駕する力を持っている。


「強いて言えば、『化け物』かな。名前を持っていない、哀れな化け物」


 声に出すと、なおさら虚しい。

 ハリーは深く息を吐いて、手慰みに三つ編みを弄んだ。切ってしまおうと何度も思った髪は、未だにそのままだ。それを梳いてくれる女は、もう傍にいないというのに。


 フレデリカには同情の目でも向けられるかと思ったが、予想に反して彼女の顔には呆れと蔑みが浮かんでいた。


「ばっかみたい!」


 なぜ罵られるのか理解できず、ハリーはただフレデリカを見つめた。


「芝居がかった仕草しちゃってさ! 自分に酔ってるみたいだわ。気持ち悪っ!」


 辛辣な言葉はしかし、ハリーにとっては救いだった。胸の奥から込み上げてきた笑いは自嘲ではなく、なんだかとても爽やかなものだった。


「あはははっ、自分に酔っている、か。確かにそうかもしれないね。すまない」


 生理的な涙を拭いながら謝罪すると、少女は眉をひそめ『なんだこいつ』と吐き捨てた。

 それからようやくショールが落ちていることに気付き、慌てて拾い上げ、慎重に埃を払う。そして、愛しいもののようにぎゅっと胸に押し付けた。どうやら主人から下賜されたものらしい。


 その様を見ていたハリーの心に、再び暗黒が生まれた。一途いちずにあるじを想う従者に対して酷烈な嫌悪を感じ、呪いの言葉が口をいて出そうになったのだ。

 だがそのとき――。


「ホレス様のもとへ帰して!」


 眉をつり上げ、フレデリカが叫んだ。その威勢のいい声に、ハリーの心中の闇はスッと溶け消えていった。

 己の感情を率直に表に出すような精神の幼い娘相手に、あまりにむごいことを言うところだった。それは『大人げない』というものだ。


 ハリーは余裕ぶった笑みの仮面をかぶり、さらりと告げた。


「うん、そうだねぇ。帰してあげるよ」

「……へ?」


 予期せぬ言葉に目をぱちくりさせる少女は、いたいけで可憐だった。


「月に数度くらいはね」


 と、ハリーは指折り数える。まぁ、週に一度くらいは問題ないだろう。


「それに、給金を支払うよ」


 フレデリカはまだ呆然としている。


「だから君は、主人のホレス氏へプレゼントを贈るため、小銭稼ぎの奉公に出ているのだと思えばいいだろう」

「な……え……?」

「もう一度ホレス氏のところへ戻って、了承を得てもいい。ちゃんと書面で契約を交わそう」


 少女はくちびるを震わせていたが、やがて噛みつくように絶叫した。


「そんな……っ、だったら、最初からそう言えばよかったじゃない! ホレス様も、お姉さま方も、あんなにお辛そうでっ! あたしだって怖かった!」


 と、ショールを抱いてさめざめと泣きだした。緊張の糸が切れたようだ。


「そうだね……ごめんよ。――でも」


 ハリーは再び、右目に触れる。


「この目の威力を、試してみたかったんだ」

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