宵闇の女王の没落 ~愛しのハリー~

 ――だるい。

 ここ最近、身体が重くてとてもだるい。


 寝台に臥せたまま、浅い眠りを繰り返していると、ずきりと胸の辺りが痛んだ。

 小さく呻いて、身体を丸める。痛むのは肺か、心臓か、胃なのか。いいや、そのどれでもない。


 不意に、従者たちの顔が脳裏に浮かんだ。次々と、絶え間なく。

 みな一様に、美しい顔を恐怖に歪めている。泣き、怒っている。そして……そのまま消えていく。


「――!!」


 ヴィオレットは叫びながら跳ね起きた。けれどひどいくらみを覚えて、再度枕に頭を預けた。


「……ゆめ?」


 ただの悪夢だろうか。そう思ったとき、部屋の外から女の絶叫が聞こえた。


「シルヴィア!」


 ついぞ聞いたことのない甲高い声だったが、すぐに誰のものかわかった。

 どくどくと動悸が凄まじい。相変わらず身体がだるい。だが行かねばならない。かけがえのない従者たちになにかが起きている。

 ふらつく身体を無理矢理に動かし、這いずって扉まで行って、寄りかかるように押し開けた。


 廊下には、血塗れの女たちが倒れていた。

 己の愛しい従者たち。その表情は一様に虚ろで、微動だにしない。死んでいるのは明白。


 ヴィオレットは絶叫する。喉がヒリヒリと痛み、かすれた声しか出なかったが、それでもとめどなく悲鳴があふれ続けた。

 足が震え立つことができないため、膝と手を使って、這って死体に近づく。廊下に広がる血が跳ねて、ヴィオレットを汚した。それでも彼女は、ただの肉の塊になった従者を、すがり付くように抱きしめた。


「ケイティー、アンナ、エミリア! リディ、ブリジット…………シルヴィア」


 涙に咽びながら、目に付く従者らの名前を呼んでいく。誰も反応しない。誰もが血の海に沈んでいた。

 誰がこんなことを。みな、カルミラの民の従者として、普通の人間をはるかに凌ぐ力を持っているのに。


 恐怖と悲しみで思考が回らない。いや、頭が働かないのは、先日から続く身体の不調のせいか。

 なにもわからず、なにもできず、ただ泣くことしかできない。

 涙と一緒に、自身の肉も溶けて流れていくような喪失感。あるじと従者は、魂で繋がっているのだ。それが引きちぎられていく、筆舌に尽くしがたい苦痛。


 頭が締め付けられるように痛み、一呼吸するたびに肺腑が疼く。

 どうして、こんなに大勢が殺されるまで気付かなかったのだろう。


「誰か、誰かいないのか!」


 それは生存者を探す声でもあり、助けを求める絶叫でもあった。


「ヴィオレット様!」


 若い女の声が響いた。一階からだ。

 ヴィオレットは血の海と化した廊下を這い進み、階段前で立とうと試みて体勢を崩す。そのまま階下まで転がり落ちた。


「ヴィ、オレット、さま」


 上方からから、苦しげな少女の声。

 全身の痛みを無視して懸命に頭をもたげると、眼前には金髪を三つ編みにした男。そして、彼に首を掴まれ、高々と吊り上げられている少女。


「起きてしまったのか、ヴィー。仕方ないね」


 頭から靴の先まで赤く汚れた男が、柔らかい笑みを向けてきた。恋人の他愛もない悪戯を許すような、寛容で爽やかな笑顔だ。

 ヴィオレットは目の前の現実を理解できなかった。ただ、最愛の従者・・・・・の無事な姿を見て、安堵すら覚えた。


「ハリー」


 こちらを見下ろす男の名前を呼んだ。


「ハリー、なにをしているの? セーラが苦しそうよ、放してあげて」

「そうだね」


 男は笑みを浮かべたまま、両手でセーラの首を締め上げる。

 セーラは苦悶の表情を浮かべ、必死の抵抗をした。爪を立ててハリーの皮膚を抉り、脚をばたつかせて胴をった。だがハリーはびくともしない。


 ヴィオレットも身体を起こしてハリーにすがり付いた。蚊の鳴くような声で『やめて』と訴えながら。

 けれど、恐怖と苦痛で前後不覚に陥ったセーラの脚が、ヴィオレットの頭に強烈な一撃を与えた。


「――っ!」


 ただでさえ人外の剛力を持つ従者が死に瀕したことで、その力は平生へいぜいよりも遥かに増していた。蹴飛ばされたヴィオレットは再度床に転がり、激痛に何度も喘いだ。

 それを見たハリーが、ほくそ笑んだような気がする。いや、哀れんだ気がする。いや、ただただ無表情だったような気もする。


 もう一度ハリーにすがり付こうとしたときには、セーラの抵抗はすっかり弱々しくなっており、すぐに手足がだらりと垂れた。


「……まぁ、いいか――」


 何事か呟いたのち、ハリーはセーラの身体をゴミのように投げ捨てた。

 ヴィオレットはかすれた声でひとしきり叫んだあと、セーラへ這い寄ろうとするが、いよいよ身体に力が入らない。それでも虫のように足掻いていると、視界が黒く染まった。


 気が付くと、今度は自分がハリーに吊り上げられていた。右手で喉を締め付けられ、呼吸が上手くできない。


「身体が動かないだろう? 毒が回っているからさ」


 男の言葉は耳を素通りしていった。


「君が私の血を飲むたびに、毒が少しずつ君の身体を冒していった。だって、私も少しずつ毒を飲んでいたからね」


 優しげな男の声が鋭さと冷たさを帯びていく。湖のように碧く澄んだ瞳は、今やすっかり凍てついていた。


「すべてはこの日のため。もう少し毒が回ってからでもよかったけれど」

「な、ぜ」


 ヴィオレットは無力だった。ヴィオレットは、絶対に従者を、愛するものを、殺せない。こんな状況だとしても。たとえ毒が身体を冒していなくても。

 ハリーと出会ったのはたった三年前。それでも、初めての男の従者で、そうする価値がある素晴らしい男で、深く愛していたのに。


「なぜだって? ……それは、君のせいで『こんな生き物』になったからさ」


 男の声に憎悪が滲んだ。もはや笑みは消失し、悪鬼そのものの表情となる。


「自分の自由意志などどこにもない。ただ、君に尽くすだけの人形」


 男の指がヴィオレットの乱れた前髪をかきわけ、頬骨の辺りをさすった。


「そ、んなこと……」


 自由のない人形という言葉を否定しようとするが、頭を振ることも、声を出すこともままならない。

 ハリーは詩歌を吟じるように問うてきた。


「教えてくれヴィオレット。私の心にある愛は、君と出会ったばかりの頃と寸分違わぬものなのかを」


 ヴィオレットには答えることができない。喉を締められているからではなく、真なる答えを見つけることができなかったからだ。


「君に血を吸われたあの日から、私の愛は変質してしまったのではないか? カルミラという化け物の力によって、強制的に生じさせられた感情へと」


 そんなことはない、ととっさに思った。

 いいえ、ハリーの言う通りでは? と心のどこかから声がした。


 ハリーの言っていることが真実なら、他の従者たちもそうだったのだろうか。


 わからない、わからない、ただひたすらに、なにもかもがわからない。


 苦痛と混乱でなにも言えないでいると、ハリーが言葉を続ける。


「私は、我が心を冒した君が憎い。心を見失った自分がおぞましい」


 ああ、とヴィオレットは涙を流す。

 愛しのハリー。

 いつからそんなふうに思っていたの。いつからそんなふうに苦悩していたの。


「このままでは私は死ぬまで奴隷のまま。魂を拘束された奴隷」


 『奴隷』。

 その言葉が、なによりヴィオレットの心を抉り、絶望が思考を停止させた。


 そのあと、なにがあったかよく覚えていない。

 ただ、右の瞳を持っていかれただけ。

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