第九話 夢の盲点

(1)

 不愉快なこと、心がざわざわすることが次々に重なった週末。いつもなら休み明けには、あーあ授業かあ、かったるいなあと思うのに。今日に限っては、早く学校に行きたかった。家から離れたかったんだ。


 わたしとお父さんからダブルいい加減にしろ攻撃を受けたお母さんは、くたくたに萎れてしまった。むっすり黙り込んじゃって、わたしともお父さんとも目を合わせようとしない。でかい溜息をぶっ放しながらお父さんが出社し、雰囲気がおかしくなったのを嫌がった弟たちがいつもよりずっと早く家を出た。

 今までみたいに、朝っぱらからお母さんときゃんきゃんやり合うことはもう二度とないのかもしれない。それにどこかほっとして、でもどこか納得していない自分がいた。


「行ってきます」

「うん」


 すねてるでも、怒ってるでも、反省してるでもない。どうしようもなく気のない返事をダイニングテーブルの上にぽそっと置いて。お母さんがキッチンに行かずに、二階に上がっていった。その背中をじっと見ながら、何度も首を傾げる。わたしの部屋を仏間に移すから片付けるって言っても、そんなのあっという間じゃん。お母さん、馬力だけはあるんだから。なにをちんたらやってるんだろう。

 いや……違うな。お父さんの強烈などやしを食らったお母さんは、寝室じゃなく仏間に逃げたんだ。仏間を片付けてるんじゃなくて、仏間にこもってるんだ。でも、どういうこと?


 家を出たあと考え込みながらのたのた歩いてたら、後ろから走ってきた咲に背中をばしっと叩かれた。


「ゆめっ! ちんたら歩いてたら遅れるよっ」

「わあお。そりゃまずい」


◇ ◇ ◇


 なんかいろいろ気になることはあったけど、学校でわやわややってるうちにすっかり紛れる。まあ、そんなに慌てていろいろ考えなくてもいいかあって。天気もよかったし、部活もしっかり充実してたし。いつの間にか気分が平常運転に戻ってた。


「さーて。帰ったら、進路希望調査票のことをまじめに考えないとなー」


 そう。わたしにとっては、そっちの方がずっと大問題だ。いつまでも紙を真っ白けにしておくわけにはいかないもん。どうしようかなあともやもや考えながら家に帰ったら。


「たでーまー……って、あれ?」


 おかえりーの声が返ってこない。お母さん、いないってか。珍しいなあ。んで、ダイニングテーブルの上に書き置きがあった。


『ちょっと出かけます。帰りが遅くなるので、冷蔵庫の中のものを各自適当に食べてください』


 うむ。各自適当にってあたりが、いかにも大雑把なお母さんではある。弟たちがこの書き置きを見たかどうか知らないけど、あの二人が自分で支度してご飯を食べるわけがない。どこの王様よと思うけど、家事を手伝うなんていう概念はまるっきりないもんね。まあ、いい。わたしがご飯食べる時に、声をかけよう。


◇ ◇ ◇


 部屋で英語の提出課題をやっつけてたら、お腹がぐうっと鳴った。


「七時か。腹時計正確だなー」


 そろそろ晩ご飯にしよう。下に降りて冷蔵庫の中身を確かめ、二階に上がって弟たちに声をかけた。


「タク、ノボ。ご飯だよー」


 お父さんの「仏間に部屋移すぞ!」警告以降、強制的におとなしくさせられた二人は、思う存分ケンカできなくてストレスぱんぱんなんだろう。そろってぷうっと頬を膨らませた。


「お腹すいたー」

「冷蔵庫におでんが入ってたから、今あっためてる。降りといで」

「わあい!」


 おでんだけじゃ足りないだろうなと思って、魚肉ソーセージと卵をアスパラと一緒に炒めて添えた。弟たちはお腹ぺこぺこだったみたいで、ご飯を三回お代わりしただけじゃ足りなくて、鍋二つにわけてあったおでんを一鍋全部食べ尽くした。すげえ……。中学に入ったら、もっといっぱい食べるようになるんだろなあ。


 二人は食べるだけ食べたら、ごちそうさまを言う間もなく二階に戻った。出遅れたわたしは一人っきりでご飯を食べる。わびしいのう。しんと静まり返ったリビングの空気が重い。その重さに押し出されるようにして、学校では日常の明るさの下に隠れていた違和感がじわじわとにじみ出て来た。


 お母さんに関する違和感は二種類ある。ずっと前からのと最近の。それは……別々なんだろうか。一緒なんだろうか。わかんないけど、どっちもわたし絡みなんだ。どっかに。どっかにわたしから見えないところ……盲点がある。それはお母さんからは見えるけど、盲点の真上にいるわたしには見えない。そういうことなんかな。

 でも、どうにもぴんと来ない。だって、わたしはお母さんに隠し事はしないし、お母さんもあけすけだもん。お腹の中に溜めるより目の前にぶちまけっちまえ! これまで親子して、ずっとそういうやりとりだったよ? そう思ってたのは、わたしだけってこと? うーん……。


 二階に上がらないで、リビングでずっと考え込んでいたら、家電が鳴り出した。お母さんかな? いや、お母さんならラインにかけるはず。誰だろ? キャッチセールスとかだったらやだなあと思いながら、恐る恐る電話に出る。


「はい、斉木ですー」

「ああ、夢乃さんかい?」


 聞いたことのある声。あ、そうか。浜崎さんていう刑事さんだ。


「浜崎さんですか?」

「ははは。こんばんは。先日は捜査にご協力いただきありがとうございました」

「いいえー」

「あれから津村の奥さんと連絡が取れてね。あなたが言ったように、旅行中だったよ。ちゃんと連絡先を教えてもらえたので、奥さんが落ち着いてからゆっくり話をうかがうことにしました」

「わ! よかったですー」

「まあ、そっちの方はいいんだ。でも」


 落ち着いた浜崎さんの声に緊張が混じった。


「歓迎できないことが起こるかもしれない。それに絡んで、あなたの耳に入れておきたいことがあるんだ」

「わたしに、ですか?」

「そう」

「今、ご両親は?」

「父はまだ仕事です。母も、今日は遅くまで外出するって」

「あなた一人か……」

「弟たちはいますけど」


 浜崎さんが苦笑してるみたい。でも、その息漏れはすぐに消えた。声にさっきより強い緊張が乗った。


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