第8話 烏丸鈴の過去

「――また『影喰かげくい』の被害者が出たんですか」

 私――天馬百合は、黒猫様に訊ねた。

 一本にまとめられた長い銀髪に灰色の目、首から十字架を下げ黒いコートをまとった男――黒猫様は、静かにうなずく。

「今度は『影喰い』を退治しようとした護法寺ごほうじ木蓮殿もくれんどのが返り討ちにされたらしい」

「木蓮殿が!?」

 私は驚きの声を上げる。

 木蓮というのは、護法寺の住職である。

 ここ宝船たからぶね市には、アヤカシ堂の他にも妖怪退治や悪魔祓あくまばらいをしている宗教施設が多く存在する。この町が世界でも有数の魔力の流れを持つがゆえに、日本中、下手したら世界中から妖怪や魔術師、魔女や悪魔などが集まってしまうためだ。怪異対策課に属するのはアヤカシ堂のみだが、もっと傘下さんかを増やしてもいいと思う。正直手が回らない。

 先ほどから話題に上がっている『影喰い』は最近被害者を増やしている妖怪の通称である。正体は不明、黄昏時たそがれどきに現れては人間の影を喰ってしまうという。影を喰われた人間は意識不明になってしまうらしい。木蓮殿も今頃は護法寺で寝込んでいるはずだ。

 ちなみに木蓮殿はよわい八十を過ぎているはずだが顔にはシワひとつ無く若々しくついでに女性にモテる色男僧侶である。その若さの秘密は修行の成果とも人魚の肉を食べたとも噂されているが、まあそれはさておき。

「そろそろ怪異対策課が依頼を出してきてもおかしくない頃合いだな」

 黒猫様がそう呟くと、電話が鳴った。

 私が出ると、黒猫様の予想通り怪異対策課――鬼怒川きぬがわ夜鷹よだかさんからの電話だった。

増田ますだ警部が言うには、『影喰い』の気配はこのあたりから感じるそうです」

 鬼怒川さんからの伝言どおりに、私は地図に赤丸を書き込む。

 地図には既に『影喰い』の被害が発生した場所に赤丸が書き込まれている。

 赤丸の数は、既に十個を超えている。

「ふむ、この家を実際に見に行ってみるか」

 黒猫様は、増田が気配を感じたという家に興味を示したようだった。

 地図には家の持ち主の名字などは載っていないが、まあ行ってみれば表札くらいは出ているだろう。

 夕暮れを待って、私と黒猫様は鳳仙ほうせん神社を出発した。

 鬼怒川さんから伝えられた場所は、鳳仙神社からそう遠くはなかった。

 くだんの家の表札を見ると、『光岡みつおか』と書かれている。どうやら普通の人間が暮らしている家のようだが、妖気を感じるような感じないような……なんと言えばいいのだろう、「もぬけのから」といった感じがする。既に妖怪がいなくなったあとというか。残り香だけが残っているような感じだ。

 人間である黒猫様に感じたままを伝えると、あごに手を当て、考え込む仕草をする。

 ふと、黒猫様の視線が、向かい合った私の背後に注がれ、突然抱き寄せられる。

「く、黒猫様っ!? そんな、外でこんな……!」

「動くな。何かいる」

 動揺して顔が熱くなる私に、黒猫様は冷静な口調を崩さず、拳銃――魔弾まだんを撃てる特殊な魔銃まじゅうである――をパンッパンッと撃つ。

 どうやら私の影に何かが近づいていたらしく、魔弾を避けて何かが後ろに跳び下がる。私は抱き寄せられたまま、なんとか後ろを振り返る。

 ぬいぐるみ、だった。

 何の生き物をしたものかはわからない。雪男のように真っ白で毛むくじゃらの、頭にピンクのリボンが乗せられたそのぬいぐるみは、しかし鋭く黒い爪と凶暴で恐ろしい表情は全く可愛げがない。それが牙をいてうなっている。「フーッ、フーッ……」と牙の間から漏れ出る吐息は、獣のようだった。

「こいつが『影喰い』と見て間違いなさそうだな。お前の影を喰おうとしていた」

 黒猫様は表情を変えない。魔銃を構えたまま、影喰いを見据みすえる。

 ――影喰いは、そのまま背を向けて四足で走り去った。

「一度神社に戻ろう。おそらく今日はもう影喰いも警戒して被害は出ないはずだ」

 黒猫様はそう言って、私を腕の中から解放した。

 ――この人は、常にクールで感情を表に出すことはほとんどなく、何を考えているのか分からない。

 彼の一挙手いっきょしゅ一投足いっとうそくから、いちいち顔を赤く染めるのもエネルギーの無駄という気もするが、勝手になってしまうのだからしょうがない。

 黒猫様は、海外から日本にやってきたエクソシスト――悪魔祓いのスペシャリストである。鳳仙神社を拠点きょてんとし、アヤカシ堂を創設した人間だ。

 アヤカシ堂のうわさでは、彼は魔女を召喚したというが、それは誤りである。

 噂に呼ぶ魔女――私は、黒猫様が来る前から神社に『封印』されていた。その封印から解き放ってくれたのが、黒猫様だった。

 それから私は、彼に付き従い、ともにアヤカシ堂を運営し、背中を合わせて妖怪と戦っていたのである。

 ……だから、私が恩人でありパートナーである黒猫様を食い殺したなどと、根も葉もない腹立たしい噂なのだ。

 神社に戻った私たちは、再び地図を広げ、作戦会議を行う。

「やはり……最初の被害があった場所から、少しずつ赤丸があの光岡という家に近づいてきている」

 黒猫様は地図の赤丸を指でなぞっていく。

「あの光岡という家になにか秘密が?」

「わからないが……急いだほうがいいかもしれない。今日あの影喰いは家のすぐ近くに来ていた。あの家になにか目的があるとすれば、そろそろあの家の住人が被害にう可能性が高い」

「蛇を向かわせましょう」

 私は巫女服の袖から鳥の翼の生えた白蛇を出す。この蛇は本物の動物ではなく、私の術というか、気を練って作ったものである。この蛇の目も鼓膜こまくも私の感覚と繋がっているので、狭い場所を通るときや、こういう偵察ていさつにもってこいなのだ。

 蛇は翼で羽ばたいて、光岡の家へ向かう。家に着くと翼をしまい、ニョロニョロと蛇行しながら家の庭へ入っていく。縁側の窓から、住人の話し声が聞こえる。

「……またあのニュースだわ……」

「影喰いなんて、馬鹿らしい」

「でも、少しずつこの家に近づいてるじゃない……やっぱり、あの子の怨霊おんりょうが……」

「たしかに、あのガキは影を操る妖怪とか言ってたが……クソッ、このままじゃ……」

「ねえ、やっぱりちゃんととむらってあげたほうが良かったんじゃないの? まだあの山の中に埋まってるんでしょ?」

「馬鹿、今更死体掘りなんか出来るか。だいたい、死体を見られたらどう説明すればいいんだ。妖怪とはいえ、養子を殴り殺したなんて言えるかよ」

「ああ、なんであんな子を引き取ってしまったのかしら……」

 ――住人の会話で、だいたいの事情が分かってしまった。胸糞悪むなくそわるい。

 私は蛇を通じて知った情報を黒猫様に伝える。

「なるほど……妖怪の養子を虐待ぎゃくたいか……」

「どうします? 完全に自業自得ですし、私は復讐ふくしゅうさせてもいいと思いますけど」

「そうもいかない。私たちアヤカシ堂は人間の味方でいなくてはならない。たとえどんなに反吐へどが出るような人間でも救わなければいけない」

「何故です? 怪異対策課の下請したうけだからですか?」

「百合……人間を愛する女神たる君が、そんなことを言ってはいけない」

 黒猫様は悲しそうに目を細める。……そんな顔をさせたかったわけではないのに。

「……すみません」

 私は静かに目を伏せる。

「とにかく、明日の黄昏時にはあの影喰いが光岡家を襲うだろう。その前に対策を講じなければ」

 それから私たちは、怪異対策課に連絡し、総員で光岡家と影喰い――養子について調べ上げた。

 養子の名は烏丸からすますず。私と黒猫様が戦い抜いた、あのアヤカシ大戦で滅びた烏丸一族の生き残りだった。黒天という兄がいたらしいが、その兄とは別の家――つまり光岡家に引き取られた。兄は妖怪の家だったが、鈴は人間の家に引き取られた。しかし妖怪への偏見が強かった時代である。鈴は毎日のように虐待を受け、最終的に死亡した――いや、殺害されたというのは想像にかたくなかった。

 調べれば調べるほど、不愉快だった。そもそも私を封印したのも人間である。女神は人間を愛するものとはいえ、いい加減奴らには辟易へきえきする。

 人間が皆、黒猫様のような優しい人間だったら、どんなに世界は平穏だろう。

 そう思うとため息が出る。

「百合、大丈夫か? 気分が悪くなったりしていないか?」

 黒猫様はコーヒーを差し出す。砂糖とミルクがたっぷり入った甘いやつだ。

「まあ気分が悪いというか胸糞悪いですが体調は大丈夫です。いつでも出動できます」

「頼りにしている」

 黒猫様は短くそう答えて自分のコーヒーに口をつける。彼の好みはブラックコーヒーである。

 私はなんとなく黙って、渡されたコーヒーをすする。甘い。

 ふと、私の中で疑問が浮かんだ。

「烏丸鈴が影を喰っていたのは、力を増すためでしょうか」

「順当に考えればそうなるな」

「しかし、光岡は普通の人間です。十も二十も影を喰わなくても、妖怪の力なら簡単にれそうなものですが」

「ふむ……だが、実際鈴はその人間に殺されているわけだからな。対抗する力をつけたいと思うのは当然じゃないか?」

「それもそうですが」

 胸の中で何かが引っかかる感覚がある。鈴の目的がよくわからない。影を喰い、妖力を増し、恨みがある人間を殺す。一見いっけんすじが通っているようには見えるが、何故か納得がいかない。

 影を喰いすぎな気がするのだ。あんなに影を喰って妖力をつけても、人間相手にはオーバーキルな気がする。鈴が慎重なのか、よほどの恨みを抱えているのか。まあ殺されたらそのくらい恨みもするのか。

 とにかく、今考えることはそこじゃないな、と私は思考を切り替える。犯罪者をかばうのはしゃくだが、まずは鈴から人間を守らなければいけない。

 怪異対策課の協力を取り付けて、私と黒猫様は一旦休眠し、黄昏時を待った。

 日付が変わり、鈴が本格的に光岡家を襲うだろうその日、光岡の家に向かうと、怪異対策課は既に光岡と話をつけていたらしく、怪異対策課と我々アヤカシ堂で警護にあたることとなった。

 光岡の家の前で、鈴を迎え撃つ準備をする。私は御札おふだを大量生産し、黒猫様は魔弾を魔銃に装填そうてんしている。

 黒猫様の魔弾はいくつか種類があり、炎や氷などの属性攻撃から使い魔を召喚する弾もある。私の御札での戦術と偶然にも似通っていた。

「……黒猫様は、鈴を再び殺すんですか?」

「説得できるものなら、なるべくこれ以上苦しませたくはない」

 怨霊とは、怒り続け、恨み続けることは、苦しいものである。しかし、怨霊は悪霊ゆえに、説得するのはおそらく難しい。たいがい、力ずくで除霊――排除するしかない。

 鈴は、どうして人間の都合で苦しまなければならないのだろう。

 そろそろ黄昏時である。金色こんじき夕陽ゆうひが黒猫様の横顔を照らす。

 ――やがて、鈴は来た。

 あの毛むくじゃらのぬいぐるみが、二足で立って歩いてくる。

「ヒッ……!」

 家の玄関からぬいぐるみを見た光岡の奥さんが悲鳴を上げる。

「あのぬいぐるみは、鈴ちゃんが持っていたものですか?」

 光岡の傍らに控えている鬼怒川さんが訊ねた。

「そ、そうです……我が家に来る前から、大切に持っていたものです」

「許して、許して鈴……ああ……」

 奥さんが顔をおおって泣きくずれる。

 影を喰って充分に力を増した鈴から、莫大ばくだいな妖力がふくれ上がっていくのを感じる。

「百合、来るぞ。構えろ。ここから先は鈴を通してはいけない」

「はい」

 黒猫様の言葉に、私はバッと御札を展開する。御札が結界となり、鈴が通れないようにする。そしてその御札の隙間から、黒猫様が魔弾を撃つ。

「ドウシテ……ドウシテ邪魔スルノ……」

 ぬいぐるみ――鈴は、怨霊となっても理性は残っているようだった。もしかしたら説得に応じてくれるかもしれない、という一縷いちるの希望がく。

「私ハ、家ニ帰リタイダケナノニ……」

「君の名前は、烏丸鈴――で、間違いないかな」

 黒猫様が声をかけると、鈴はコクンとうなずいた。

「家に帰って、何がしたい?」

「何モ……タダイマ、ッテ、言イタイダケ……」

 そのしおらしい態度に、私たちは当惑とうわくする。

「どうして無関係な人たちを襲って、影を食べた?」

「……ソレニツイテハ、ゴメンナサイ……。影ヲ食ベナイト、私ノ魂ガ、保テナカッタカラ……」

「――もしかして、鈴の身体は山の中に埋められたまま、まだ生きているのでは?」

 私はそんな直感を口にする。

 鈴は、ぬいぐるみに己の魂を憑依ひょういさせて、ぬいぐるみの姿でも家に帰りたかった。

 しかし、ぬいぐるみに魂を定着させるためには、妖力が足りなかったので、影を食べてなんとかその姿を保っていた。

 そんな仮説が立った。

「お、おい、さっきから何やってんだよあんたら! 早くその化け物を退治してくれよ」

「黙りなさい」

 鬼怒川さんは、光岡の言葉をピシャリとさえぎった。

「あなた方が妖怪とはいえ児童を虐待していたことは把握しています。あまつさえ、殴り殺したと思って山中に埋めるなど言語道断ごんごどうだん。鈴ちゃんを埋めた場所を確認後、署にご同行願いますのでお忘れなきよう」

「ヒィィ……」

 鬼怒川さんの容赦ない言葉に、光岡は震え上がる。

 私は御札を展開するのをやめた。黒猫様も、魔銃をホルダーにしまう。

「おかえりなさい、鈴ちゃん」私はそう言って、門からどいた。

 鈴は、ゆっくりと歩み寄り、家の門をくぐる。

 光岡と、その奥さんにニコっと笑った。

「――ただいま、お父さん、お母さん!」

 そう言って、ぬいぐるみは力尽きたようにぐったりと倒れる。どうやら魂が抜けてしまったようだった。

「鈴……」

 奥さんは涙を流したまま茫然ぼうぜんとしていた。

 鈴は、怨霊なんかではなかった。

 彼女は、親を恨んでなんかいなかった。

「鈴はまだどこかに埋められている。すぐに探して保護しなければ」

「光岡さん、道案内よろしくお願いします」

「……はい」

 光岡はすっかりしおれた様子でうなずいた。

 こうして、山の中から鈴の身体は発見され、アヤカシ堂で保護された。魂は既に身体に戻っていたが、長時間身体を離れていたせいか、あるいはトラウマがそうさせたのか、鈴は過去の記憶――自身がアヤカシ大戦で滅びた一族の生き残りであることや、光岡家での出来事などが、すっかり抜け落ちてしまっていた。

 そして、鈴が食べた影は、持ち主のもとに全て返されていた。木蓮殿は今も元気で健康に過ごしている。

 あのぬいぐるみはボロボロだったので、黒猫様が新しいぬいぐるみ――黒い竜のぬいぐるみを買い与えてくれた。鈴は今でもそれを大切にしている。

 はて、この話は何十年前のことだったか。

 黒猫様が行方をくらませても、私と鈴は鳳仙神社で、ずっと黒猫様の帰りを待っているのである。


 ***


 店長は、鈴の過去をそう語った。

 俺――番場ばんば虎吉とらきちも、鈴も、烏丸からすま黒天こくてんも、じっとその話を聞いていた。

「そっか……私……」

 鈴はポツリとそう呟く。

「……この黒天って人が、私の本当のお兄ちゃんってこと?」

「そうだ」

 鈴の言葉に、店長はうなずく。

「やはり人間にロクな奴はいないな」

 黒天は怒りをあらわにしていた。

「鈴、私のもとに帰ってこい。ともに人間を滅ぼそう」

「お兄ちゃん……」

 しかし鈴は、悲しそうな顔をする。

「あのね、お兄ちゃん。人間にはひどい人もいるけど、いい人もいるんだよ。黒猫様みたいに」

 鈴は身振り手振りで一所懸命に黒天に自分の思いを伝えようとする。

「妖怪だって、悪いことばっかりする妖怪もいいことする妖怪もいるでしょ? 人間も妖怪も変わらないんだよ」

「……お前は、養父ようふに虐待されて恨んでいないのか? 本当に?」

「痛いことされるのは嫌だなって思ってたけど、恨んでなんかいないよ。お父さんは痛いことばっかりする人じゃなかったの。大きくて温かい手で、私を撫でてくれたこともあったの。悪い人は、いつも悪いことばかりしてるわけじゃないよ。もちろん、お父さんのしたことは間違ってたけど……」

 鈴は、すっかり過去の記憶を思い出していたようだった。

「私は、お父さんもお母さんも、大好きだよ」

「ッ……」

 黒天はすっかり戦意を失ったようであった。

「――アヤカシ堂」

「なんだ」

 店長に声をかける黒天に、店長が返事をする。

「鈴を、もうしばらく頼む。きょうが冷めた。私は人間のいないところで隠棲いんせいする」

「言われずとも、鈴は私の大切なパートナーだ。最初から手放すつもりなどない」

「……このアジトは、解体する。皆の者、ご苦労であった」

「おいおい、なんだよそれ!」

 黒天の言葉に、その場にいた敵妖怪たちが不満を漏らす。

「俺達は、黒天の兄貴の言葉に従ってここまで来たんだぜ!」

「人間に復讐できるっていうから今日までついてきたってのによォ! そりゃねえぜ!」

「妹に言われたからってやめるのかよ、この腰抜けシスコン!」

『シスコン』という言葉に、黒天がいらついたのか、背中の翼を広げ、羽を妖怪に向かって飛ばす。鋭い針のように床に突き立つ羽に、妖怪たちが「ヒッ」とおののいた。

「……このアジトでは、『強いやつが偉い』。それがルールだ。文句があるのなら、私以上の強さを見せてみろ」

 黒天がそう言うと、妖怪たちは気まずそうに黙り込む。所詮は名も知れぬ有象無象の集まりである。人間よりは強いとはいえ、半妖である虎吉でも倒せる奴らだ。何も言い返せない様子であった。

「――私はこの町を去る。鈴、しばしの別れだ」

「あのね、いつかアヤカシ堂に遊びに来てね! 私、待ってるから」

 鈴の言葉に、黒天は初めてフッと優しい微笑みを浮かべた。

 アジトの異界空間がぐにゃりと曲がると、俺達はあの繁華街の路地裏に立っていた。もう黒天も、敵妖怪もいない。

 店長、鈴、俺、クラウド、幽子さん、ピクシーさんがその場に残っていた。

「あー、終わった終わった。ほな、帰りまひょか~」

「まだ俺、姉貴の本気の謝罪、聞いてないんだけど」

 伸びをする幽子さんに、クラウドは不満そうな顔をする。

「さっき謝ったやん。そもそも、何を怒っとるんや?」

「ハァ!? 俺が何に怒ってるのかもわかんねえのかよ! ホント信じらんねえ!」

 クラウドはゴミを見るような目で幽子さんを睨みつける。

「俺が楽しみにしてた冷蔵庫のシュークリーム、食べただろ!? ネット通販でやっと入手したちょっとお高めのやつ!」

「ああ、父ちゃんのかと思ってたわ、めんご」

「だからちゃんと謝れェ! 心からの謝罪をしろォ!」

「っていうか、僕のなら食べていいと思ってるのもどうかと」

 マイペースな幽子さんに、激昂げきこうするクラウド。そして冷静にツッコむピクシーさん。傍目はためから見れば愉快な家族である。

「あーもう、うるさい子やなあ。誰か人間が来てまうやないの。少し静かにしいや」

 幽子さんがクラウドの顔を両手で挟むと、細い目を見開いた。クラウドと幽子さんの目があった瞬間、クラウドはフッと力を抜いて気絶した。

「えっ、今何したんすか?」

 俺はビックリして訊ねる。

「幽子の目は『幻惑眼げんわくがん』という魔眼まがんだ。目を合わせた相手を眠らせたり幻覚をかけたり出来る。化け狐らしいだろう?」

「化け狐って言い方、うちは嫌いやわあ」

 店長の言葉に不満を漏らしながら、幽子さんはクラウドの肩を抱える。

「じゃあな、百合ちゃん。今日はほんまおおきにありがとう」

「気をつけて帰れよ。お前たちは人間に見つかると目立つからな」

「はいはい。ほなな~」

 幽子さん、クラウド、ピクシーさんは裏路地を歩いていってしまった。

「さて、私たちも帰ろうか」

「あの、気になってたんですけど」

 帰り支度を始める店長に、俺は素朴な疑問をぶつける。

「店長と黒猫さんって、付き合ってたんですか?」

「――は、ハァ!?」

 店長の顔がみるみる赤くなっていく。なんか新鮮だ。

「バッ、馬鹿、私と黒猫様が釣り合うわけが……いや、馬鹿なことくんじゃない! この馬鹿! ほら、さっさと帰って風呂入って寝るぞ!」

 店長は顔を背けると、ずんずんと歩いていってしまう。俺は慌てて追いかけた。

 ――とりあえず、付き合ってなくて安心したのだが、なんで俺は安心してるんだろう?

 昼と夜の間、青空と夕焼けが混じり合う空が美しかった。


〈続く〉

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