第2話 朝蜘蛛の呪い
番場虎吉の朝は早い。
いつもと同じ朝五時の起床、一人暮らしなので朝食は自分で作る。今日のメニューは卵焼きにウインナー、アスパラベーコンにお茶漬け。作りすぎたオカズはタッパーに入れて冷蔵庫へ。朝はしっかり食べておかないと育ち盛りの男子高校生はすぐ腹が減る。虎吉は茶碗を勢いよくかきこんだ。
朝食を済ませ、食器を洗ったらすぐに部屋の掃除へ移行する。フローリングのワンルームには掃除機がないので立ったまま掃除できる取っ手のついたウェットシートで手軽に済ませる。
と、机を布巾で拭いていると
虎吉は数学の教科書を手に取り、バンっと蜘蛛に叩きつけた。プチ、と
これで朝にやるべきことは全て終えた。今日は日曜日、学校はないが神社でバイトがある。準備を済ませ、虎吉は外の陽気へ飛び出した。
時季は初夏だが既に太陽はギラギラと凶悪な熱気を帯びている。半分吸血鬼の血が流れる彼には少々酷な天気だ。虎吉はなるべく日陰を通りながら神社のある山の方面へと歩を進めた。
ところで、虎吉のバイト先である
山の斜面に敷かれた石段を登りきると、一面に彼岸花が咲き乱れている。そこはもう神社の境内なのだが、あの世に来たような錯覚を覚えるこの光景も、アヤカシ堂の名の由来の一つである。
境内の敷石を歩いていると、不意に右すねに痛みを覚えた。ここまで通った道で身体が痛むようなことをした覚えはない。一旦かがんで、ズボンをたくし上げたが、特に目立った外傷もないようだ。鈍痛だったし気のせいかと思い直し、虎吉は社務所の引き戸を開けた。
「おはようございます」
「あ、お兄ちゃんおはよう」
黒い着物の幼女が、はたきでパタパタと埃を払っているところだった。烏丸鈴――はたきを握るその手は、鳥のように硬いウロコに覆われている。言うまでもなく彼女も妖怪である。
「店長はまだ寝てる?」
「さっき起きて、今準備してるの」
鈴はおかしそうにクスクス笑った。
「そして今終わった」
廊下の奥から声が聞こえた。見ると、巫女服を来た女性がゆっくりと歩いてくる。彼女こそが鳳仙神社の巫女にしてアヤカシ堂の店主――天馬百合その人である。
「やれやれ、どうせこんな朝っぱらから参拝客なんぞ来るわけもないのに、鈴が起こすから……」
「店長、働く気あります? ――痛ッ」
虎吉は左腕をおさえて呻いた。先ほどの右すねとは違う、鋭い痛み。虎吉は袖をまくった。
蜘蛛、だった。
左腕に、大きな蜘蛛の形のあざが浮かび上がっている。
「ふむ……? 虎吉、君の学校では
そう、刺青に見えるほど、そのあざはくっきりと蜘蛛の形をしていた。もちろん刺青など彫った覚えはないし、こんなあざができるようなこともしていない。気味が悪い。と思った、その瞬間。
カサカサカサカサカサカサ。
蜘蛛のあざが特有の気色悪い動きをして腕を
「ヒッ」
虎吉は思わず叫んだ。
ただのあざではない。
あざは、まくりあげた袖の奥に一度消えていき、少ししてまた戻ってきた。
生きている。
「うわあああああああなんだこれ気持ちわりいいいいいい!」
「――ははぁん」
顔から血の気の失せた虎吉と対照的に、面白そうな笑みを浮かべる百合。
「君、今朝にでも蜘蛛を殺したんだろう」
「え、あ、はい。――殺しました」
「やれやれ」
百合は笑いながらため息をつく。
「朝蜘蛛は殺すな、夜蜘蛛は親でも殺せ、という言葉を知らないのか」
「なんすかそれ」
「朝に現れる蜘蛛は神の使い、夜に出る蜘蛛は泥棒を連れてくる、という言い伝えがあってな。とは言っても諸説あるし、地域によっては朝殺して夜殺すな、というところもある。まあそれはさておき、君が殺したのは少しばかり長生きして妖力を蓄えた蜘蛛だったんだろうね。君は蜘蛛を殺し、呪われた」
「呪い……」
「身体中を蜘蛛が這い回り、痛みも伴う、か。まあ気色悪いし、なかなか効果的な呪いなんじゃないか。――さて」
ときに、この天馬百合という女は『アヤカシ堂の聖なる魔女』と呼ばれている。巫女なのに聖女ではなく聖なる魔女と呼ばれる理由。それは単純だ。
「呪い、解いてほしいんだろう? お代は何をもらおうかな」
――聖女と呼ぶには少々性格が悪いのである。
「そうだな……肩もみ五時間くらいやってもらおうかな」
「そんなに腕もちませんよ! 一時間……いや二時間!」
「四時間」
「に……二時間半……」
「お? なんだ、呪い解いてほしくないのか? 案外その蜘蛛のあざもかっこいいかもしれないな、お気に入りになったかな?」
「わかりましたよ、三時間! これ以上は勘弁してください!」
「仕方ないな、それで乗ってやる」
悲痛な声をあげる虎吉に、百合は勝ち誇った笑みを浮かべた。
虎吉の腕を取ると、蜘蛛に御札を貼り付けようとする。蜘蛛は当然避けようと逃げ回ったが、最終的に百合の方が素早かった。御札を貼り付け、すぐにはがすと、平面の蜘蛛が御札と一緒に皮膚から剥がれ、床に落ちた。百合はその蜘蛛を踏みつけ、踏みにじった。床には蜘蛛の形をしたシミが残った。
「鈴、床を拭いておいてくれ」
「はーい」
呪いはあっさり解けた。それはひとえに百合がただものではないことを端的に表している。
「店長、ありがとうございます」
「ふふ、これにこりたら、もう
そう言いながら、百合は飛んできた蚊を叩き殺した。
〈続く〉
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