アヤカシ堂の聖なる魔女

永久保セツナ

本編

第1話 『聖なる魔女』と半妖少年

 ――なんなんだ、あれは!

 俺は雪降る深夜、コンビニに行きたくて家を出た。

 コンビニへの近道に、いつも中を通って行く公園を、今日も俺は通った、ただそれだけなのに。

 公園に入る東西南北の出入り口と、公園をぐるりと一周する小道があって、俺は公園の西口から東口へ、その道を通っていただけだ。

 すると歩いていた目の前にあった南口から、女が走って公園に入ってきたのだ。

 俺の眼はその女に惹きつけられた。こんな夜中に公園に人が入ってきたことも勿論だが……その女は巫女みこ服を着ていたからだ。

 あの、上が白くて下は真っ赤な袴の着物は、夜でも見まごうことなく巫女服だと分かった。公園の街灯に照らされて、後ろに一本結びされた黒い髪が跳ねる。まさしく濡れた鴉の羽の色というのか、つやがあって美しい髪だった。

 しかし巫女さんが、深夜の公園に何の用があるというのか。

 俺は白うさぎを見つけたアリスのように、ほとんど反射的に巫女さんを追いかけていた。

 好奇心は猫を殺すと言うが、あのとき女を追いかけずに真っ直ぐコンビニに行っていれば、俺はあんな目に遭うことは無かっただろう。そして同時に、彼女と知り合うことも無かっただろう。……それが不幸なのか幸運なのかは、俺には判断しがたいのだが。

 女に気付かれずに(女も急いでいた様子で、そんな余裕がなかったのだろうが)追った先は、公園のちょうど中心にある噴水だった。噴水の中にライトが仕込んであって、光を反射して輝く水が美しく、夕方とかもっと早い時間には、ちょっとしたデートスポットになる場所だ。

 その噴水の手前に、何か黒いものがうずくまっていた。噴水のライトが逆光になって、その詳細は見えない。

 巫女さんの目当てはその黒いやつだったらしく、それを見つけると一メートルほどの距離で立ち止まった。俺に背を向ける形になる。

「――やっと追い付いた」

 はあ、と息を吐いて、女が一声を発した。どうやら、俺が公園に入る前に、あの黒いのは公園に入り込んでいたらしい。

 一方、謎の黒い生物は何も言わない。大型犬くらいの大きさの輪郭は分かるのだが、どうにも見たことのないシルエットだった。犬にしては耳が大きく、頭の横についているようだった。猿にしても腕がトゲトゲしていた。なんというのか、両腕がコウモリの羽のような形をしている。

 深夜の公園で対峙する、巫女と珍獣。全くもって異様な光景だった。

「……観念しろ」

 巫女さんが呟いて、黒い珍獣に歩み寄る。珍獣は低く、グルルル、とうなった。どうやら獰猛どうもうな生き物らしい。

 ふと、珍獣の視線を感じた。顔は見えないのに、俺を見て、にやりと笑った、ような気がした。

 次の瞬間、黒い塊が、巫女さんの肩を飛び越えて、俺に迫った。

「!?」

 俺も、そして巫女さんも、驚愕したようだった。俺は黒い獣に押し倒されたことに、巫女さんは俺が背後にいたことに。

 そして、俺はやっと黒い生物の顔を見た。顔には目がなく、メロンのように血管が頭を覆っていた。コウモリのようにとがって大きな耳が頭の横についていて、俺の身体を押さえつける腕はコウモリの羽を太く大きくしたようなものだった。頭の形と胴体は人間の幼児のようだったが、犬でもなく猿でもなく、ただの化物だった。

 そいつが口を開けて、鋭い牙が目の前に迫る――。

 俺の意識は、そこで途切れた。


 その神社は『アヤカシ堂』と呼ばれていた。

 正式名称は『鳳仙ほうせん神社』という。所在地の『宝船たからぶね市』の音読み『ほうせん』が漢字を変えて残った結果が名前の由来なんだそうだ。

 で、その神社は山の中にある。山とはいってもそれほど高くはない。五十メートルほどの小山の斜面にある石段を百段登れば、山の中腹に社がある。老人が参拝するには少しきついかもしれないが、。どういう仕組みなのか俺にはよくわからないが、店長がそういう仕組みなんだというのだから、それで納得するしかない。

 山の中だから、アヤカシ堂の周囲は当然ながら木々に囲まれており、普通はそこから人が入ってくることはない。石段を登るしか神社を訪れる手段はない。なので、普段は境内けいだいを掃除しながら石段の下をチェックしていればいい。目はいいから、百段下にいる人間の顔貌かおかたちはすぐわかる。だからこそ驚いたのだ。

 ――香澄かすみ

 香澄は俺――番場虎吉ばんばとらきちの幼馴染だ。こんなさびれた神社に何の用だか知らないが、この場所ではできれば顔を合わせたくないと思った。アヤカシ堂で働いていることは同じ高校の人間には知られたくなかった。

「あれ、虎吉? こんなところで何してんの?」

 そんな俺の願いも虚しく、数分後には石段を登りきった香澄が不思議そうな顔で俺を見ていた。どうやら神社の意思は――そんなものがあるのか知らないが――香澄を拒絶しないらしい。残念なことに。

「……どうでもいいだろ」

「あら、何よその態度」

 俺の反応に香澄は白けた目で俺を見る。その目は俺の頭からつま先まで視線でなぞり、手に持ったほうきで止まった。

「……あんた、働いてるの? ここで――アヤカシ堂で」

「だったらなんだ」

「別に。物好きだなって思っただけ」

 ふん、と鼻を鳴らされた。俺を、そしてこの神社を馬鹿にするような態度が神経を逆撫さかなでた。

「……何しに来た」

「決まってるでしょ。取材よ」

 香澄は首からぶら下げたカメラを持ち上げた。この女は宝船高校の水泳部の平部員と新聞部の副部長を兼部している。

「取材って、こんな神社の何を取材すんだよ」

「アヤカシ堂の取材って言ったら、『あの噂』の裏付けに決まってるでしょ」

 本当はこんな馬鹿馬鹿しいこと、私はしたくないんだけどね。

 ゆるゆると首を振って、香澄はため息をついた。

 無理もない。アヤカシ堂のあだ名の由来――妖怪の出る神社なんて、今時の高校生が信じるはずがない。新聞部というやつは案外暇なのか、よほどネタ不足なのかもしれない。

「とにかく、この神社の神主に取材の申し込みをしたいんだけど、ちょうどいいからアンタ取り次いでくれない?」

「お前の態度が気に入らねえ」

「ガキみたいなこと言ってんじゃないわよバカ虎。参拝客に対する態度とは思えないわねえ」

 軽くジャブを交えるように憎まれ口の応酬をする。

「はあ……仕方ねえな。一応は店長におうかがい立ててみるけど、オーケーしてくれるとは限らないからな」

「店長……?」

 首をかしげる香澄を置いて、俺は社務所に向かった。ガラリと引き戸を開けると、玄関の奥には居住空間が広がっている。靴を脱いで居間に向かった。

「店長、取材希望者が来てるんですけど」

「男か? 女か?」

 開口一番、そんなことを尋ねる店長に、思わず苦笑を漏らした。

「女です」

「通せ」

 ごく短い会話で取材許可が出た。すぐに玄関に戻る。

「きゃああっ!」

 靴を履いている途中で、少し遠い悲鳴が聞こえた。香澄の声だ。何事だろう。急いで靴を履き、社務所を出る。

「いやっ、来ないで、来ないでえっ!」

 声は何故か本堂の裏から聞こえる。何故そこまで移動しているのかはわからないが、とにかく走った。

「どうした! 香澄!」

 本堂の裏に回り込むと、香澄は壁を背にして尻餅をついていた。いやいやをするように、腕を大きく振って目の前の敵を追い払おうとする。顔は青ざめていた。その視線の先の敵は――。

 狛犬、だった。

 社の前で鎮座しているはずの一対二匹の狛犬が、侵入者をめつけ、鋭い牙をむきだしてうなっている。冷たい石でできた犬歯は、今にも香澄の喉元に食らいつきそうな凶暴な光を宿している。

 そんな一触即発な状況だが、俺は特に驚かなかった。驚かなかったが、内心焦った。

「おい、狛村こまむら! 獅子戸ししど! 何してる!」

 俺は狛犬と香澄のあいだに入って石の犬たちを叱った。狛村と獅子戸というのは犬の名前だ。

「おう、虎吉か。この女ァ、本堂の裏に来てこそこそ盗人ぬすっとみてェな真似してやがるから、ちっと驚かせてやったのよ」

「……すごく……怪しい」

 能弁な狛村が事情を説明し、寡黙かもくな獅子戸が頷く。

「狛犬が! 人間の前で勝手に動くんじゃねえよ!」

「んなこと言われたって、ワシらの仕事は番犬だからなァ」

「……怪しい奴に吠える……何が悪い……?」

 俺が叱っても、狛犬は決して悪びれない。まずい。まずいまずいまずい。

 背中に注ぐ香澄の視線が怖かった。

「……ねえ、その狛犬……なんなの?」

 まずい。今もっとも聞かれたくないことを聞かれた。言い訳。何か上手い言い訳を。喋らなきゃ。喋らなきゃ。喋らなきゃ。

「…………ロボット」

 俺はやっとの思いでそう返した。

「ロボット?」

「そう。ロボットだ。よくできているだろう」

「何の話だァ? 虎吉ィ」

「うるさい、俺に話を合わせろ。ロボットの振りをしろ。店長に言いつけるぞ」

「!」

 狛犬に慌てて耳打ちをする。彼らは自らの使命を全うしただけで本来何の罪もないのだが、店長の名を出すとおとなしくなった。普段からよくしつけられている証拠である。少し申し訳なくなった。

「ヤ、ヤァ、ボクタチハ、コマイヌガタ、ロボットダヨー。シンニュウシャニハ、ホエルヨウニ、プログラムサレテルヨー」

 狛村は急にカタコトで喋りだした。そこまで必死にさせてしまい、さらに申し訳なくなった。

「へえー、よく出来てるわねー。本物の石でできてるみたいなのに」

「……キヤスク……サワルナ……」

 香澄は先程まで青ざめていたのもすっかり忘れ、獅子戸の頭を撫でたりポンポン叩いたりしていた。獅子戸はまだ噛み付きそうな顔をしているが、一応はおとなしくしている。

「で、お前何してたんだ? 本堂の裏で」

「別にー……裏から本堂の中を写せないかと思って」

 要は盗撮しようとしていたのだ。取材許可を取り次いでいるあいだにそこまでするとは、呆れを通り越してプロ根性すら感じる。

「馬鹿なことしてんじゃねえよ、ったく……。ほら、店長から許可降りたから、とっとと取材して帰れ。お前らも元の位置に戻れ」

 狛犬は、ウオン、と一声吠えて、本堂の表へと走っていった。

 香澄を伴って本堂の表に戻ると、犬は既に台座の上に戻り、本来の姿のまま、もう動かなかった。ガラリと社務所の引き戸を開け、香澄を中へ入れた。

「店長、連れてきました」

「入れ」

 応接室の引き戸を開ける。香澄は少しビックリした顔をした。

「店長って……巫女さん?」

「おや、可愛らしいお嬢さんじゃないか」

 後ろで一本結びにされた、腰まである烏の濡れ羽色の艶髪。宝石のように美しい金色の瞳。透き通るような白い肌。巫女服。

 店長――天馬百合てんまゆりはゆるく微笑んだ。


 取材は特に問題もなく進んだ。店長が無難な答えで『普通の神社』を装ってくれたおかげだ。

「でもびっくりしました! 神社に狛犬型のロボットが置いてあるなんて! ハイテクですね!」

賽銭さいせん泥棒などもいて物騒な世の中ですから。驚かせてたいへん失礼いたしました」

 店長はにこやかに謝っていたが、心の中では狛村と獅子戸に対するお仕置きを考えていたに違いない。腹黒い人なのだ。

 廊下に置かれた電話が鳴った。暗い廊下の奥から、黒い着物を着た小さな女の子が歩んできて、電話を取った。

「……はい、鳳仙神社です……」

「あの女の子は?」香澄が尋ねる。

烏丸鈴からすますず、といいます」店長が答える。「神社に住み込みで色々と手伝ってもらっているんです」

「へえ、あんな小さいのにえらいなあ。あんたも見習いなさいよ」

「俺だって働いてるっつの」

 香澄がひじで小突いてくるので、俺はしかめっ面で呟いた。

 通話を終えた鈴が応接室に入ってきた。香澄の姿を認めると、ぺこりとお辞儀をする。両手に黒い竜のぬいぐるみをしっかりと抱きしめ、紅の瞳が香澄を捉えた。香澄もその目に見とれていたようだった。しかし、その時間はそれほど長くはなかった。挨拶を終えた鈴がすぐに目をそらし、店長のほうを向いたせいだ。

「お姉ちゃん。お仕事の依頼」

「ん、そうか」

 たったそれだけの短い会話だったが、二人は何もかもわかっているようだった。

 店長は香澄の目をまっすぐ見つめる。店長の爬虫類か猫を連想させる鋭い金色の瞳は、有無を言わせない妙な迫力があった。

「申し訳ありません。仕事が入りましたので、取材はそろそろよろしいでしょうか?」

「お仕事というのは、何を……?」

「お祓いです。一応神社ですので」

 店長は微苦笑を浮かべた。彼女とて、この神社の良くない噂は知っているのだ。

「そうですか。わかりました、こちらこそ長々とお話を伺ってしまいすみません」

 二人は会釈をして立ち上がった。俺と鈴も香澄を見送るために歩き出す。

 石段を下りて山のふもとで俺たちと香澄は別れた。

「今日は本当にありがとうございました。お仕事がんばってください」

「気をつけてお帰り下さい」

 香澄と百合は、山のふもとで再びお辞儀をした。俺、鈴、店長に背を向け、香澄は帰り道を歩き始めた。

 ――かに見えたが、角を曲がったところで立ち止り、来た道を戻って、角から俺たちを覗き始めた。

(こうなったら見出し変更だわ。神社の仕事現場……こっそり覗いてみよう。なにかのネタになるかも)

 香澄は俺たちの尾行を始めたのである。

「――仕方ない。行くぞ」

 店長は香澄を見送ると、俺と鈴を従えて歩き出した。

 香澄は見失わず見つからないように、慎重に距離を保ちながら歩いていった。


 香澄が虎吉・百合・鈴を追跡してたどり着いた場所は、町はずれの工事現場だった。無機質な灰色のコンクリートでできた建物が見える。

「あ、アヤカシ堂さん! お待ちしておりました」

 黄色のヘルメットをかぶった緑のつなぎ姿の男が、三人に走り寄った。

「あ、すいませんけど『鳳仙神社』で通してもらえます?」

 虎吉が言ったが、

「……今さら遅いだろう」

 百合は溜息をつきながら言った。

(……『アヤカシ堂』……?)

 香澄は聞き耳を立てながら首をかしげた。

 アヤカシ堂はあくまで通称のはず。お祓いの依頼で神社の名前ではなく通称で呼ばれるのはどういうわけだろう。

「――では、ご依頼をお伺いしましょうか」

 百合が静かに口を開いた。

「あ、はい。私はこの工事現場の監督でして、あそこの廃墟を取り壊すように依頼されたのですが、その……廃墟に棲みついている妖怪が工事の邪魔を……」

(…………は?)

 香澄は耳を疑った。自分もさっきまで妖怪のみつくとされる鳳仙神社の取材をしていたが、この現代日本に……妖怪?

 もちろん、香澄が妖怪など信じているわけがない。ネタ不足に困った新聞部が企画した鳳仙神社の取材を、香澄は心の底では軽蔑けいべつしていた。

 百合、虎吉、鈴と依頼人の作業員が建物に向かって歩いて行くのを、香澄は工事現場に並ぶ重機の陰に隠れながら追いかけていく。

 廃墟となった建物の周りはひど惨状さんじょうだった。

 頑丈そうな重機が何台も潰れたりへこんだりしている。原型をとどめないほどぐしゃぐしゃになって倒れてしまっているものもあった。

 その重機のあいだをうように通り抜けていくと、建物の入口が見えた。扉は吹き飛ばされたらしく、ガラスは割れ、大きく穴があいている。

 その大穴の前に陣取る巨大な体躯たいく――。

「ブモオオオォォォオオオオ!」

 周囲の空気と鼓膜こまくを揺らす雄叫びに、虎吉と百合は姿勢を低く構えた。

 それは巨大な、牛、だった。

 乳牛として牛乳パックによく描かれる模様の白黒の毛色をした、鋭くねじ曲がった角をはやした牛が、人間の筋骨隆々きんこつりゅうりゅうとした身体をして二足で立っている。明らかに普通の牛ではなかった。

「ふうん、ホルスタイン種のミノタウロスか……珍しいな」

 百合は巨大な牛人間を見上げて呟いた。

「なんすかミノタウロスって」

「ミノタウロス……ギリシャ神話に登場する半人半牛の怪物……」

 虎吉の疑問に、鈴が静かな口調で答える。

「神話の中では原種オリジナルは英雄テセウスによって討伐されたと伝えられているが、その子孫か亜種かな……どちらにしろ日本には本来いない妖怪だ。最近は動物に限らず外来種が日本に巣食って、由々しき問題だな」

 百合はため息混じりに肩をすくめた。のんきに解説なんかしている場合じゃないだろう、と香澄はのぞきながら思う。この国にこんな怪物――妖怪か――が本当に存在して跋扈ばっこしていたなんて、そっちのほうが遥かに問題だ。それを目の前にして平然としているなんて、この人達は何者なんだ。

 ――虎吉は……何者なんだ。

 急に幼馴染が遠い世界の存在に思えた。

「ブモアァァァァァアアアアア!」

 牛人間――ミノタウロスは荒々しく頭を振り回してえた。

 工事の作業員が怖気おじけづいて退避する。香澄は必死に写真を撮った。

 ミノタウロスが角を振りかざし、百合の立っている方向に突進してきた。百合はふわりとかわし、牛人間は百合の後ろにあった重機に突っ込む。ガシャンと凄まじい金属音を立てて、重機は大破した。

「やれやれ、うるさい牛だ」

 百合は飛びのけながらふところから御札おふだを取り出し、ミノタウロスの背中に叩きつける。御札からはバチバチと火花が飛び、ミノタウロスは痛みで背中をそらしてうめいた。そこに虎吉が首に下げたアクセサリーを外して手に持った。棒の先に球がついている小さなアクセサリーは、手の中で光を発し、形はそのままに木刀ほどの大きさになった。棒の部分を持って両手で振り回し、球の部分をミノタウロスの頭に勢いよく振り下ろした。鈍い音がして、ミノタウロスは頭を抱えてフラフラとよろけた。

「ブルル……」

 怪物は三人に背を向け、建物の中に逃げ込んだ。

「追うぞ、虎吉」

「はい! 皆さんはその場に待機しててください。ヤバイと思ったら避難してください」

 百合、虎吉、鈴は建物の中に入っていった。香澄は重機の影から飛び出した。

「あっ、お嬢ちゃんどこから……危ないよ!」

 作業員の言葉を無視して、香澄は三人を追って建物の中に入っていった。


 建物の中は見かけ以上に広く、入り組んでいた。

「うわあ、なんすかこれ……まるで迷宮だ」

「まるで、ではなく、迷宮そのものなんだろうな」

 百合は壁を叩きながら言った。

「どういうことですか?」虎吉は首をかしげる。

「ミノタウロスは……神話では迷宮の最奥さいおうにいる……」鈴がぼそりと呟いた。

「そう、本来は普通の建物なんだろうが、おそらくはミノタウロスの魔力で迷宮に変容させられているんだろうな。ここは異界化している」

「へえ……それじゃ、この迷宮を進んでいかないと奥にいるミノタウロスにはたどり着けないのか」

「ふん、こんな広い迷宮、真面目に攻略してやるものか」

 虎吉の途方もない考えに、百合は鼻を鳴らした。

「それじゃ、どうするんです?」

「決まってるじゃないか。――この壁をブチ抜いて一気に奥まで行くぞ」

 百合は懐からバッと大量の御札を広げて臨戦態勢に入った。

「ははは……店長らしいや」

 虎吉は苦笑しつつ、棍棒こんぼうを握り直した。

「それでは……突破!」

 百合と虎吉は一直線に壁をぶち破り始めた。何枚も何枚も真っ直ぐに壁を貫通させていく。香澄は唖然あぜんとしながらも、壁の穴をくぐり抜けて三人に見つからないようにあとを追った。

「お姉ちゃん、私も手伝う」

 驚いたことに、鈴は百合の影に潜り込み、同化して巨大な黒い影の竜に変身した。そして、その強靭きょうじんな腕で壁を吹き飛ばした。――彼女もまた人間ではなかったのだ。

 どうやら建物内が異界化しているというのは確からしく、壁を破った向こうに妖怪が時折たむろしていた。

「邪魔だ邪魔だー!」

「うわ、何だァー!?」

 百合が妖怪を蹴飛ばし、妖怪たちは蜘蛛くもの子を散らしたように逃げ惑う。敵なしすぎる。香澄はまたあっけにとられた。と、香澄の背後から何かのうなり声がした。

 振り返ると、妖怪が牙をむきだしてこちらを威嚇いかくしていた。

「あ、やば……」

「グルル……」

「ば、バカ、あっち行って……!」

「シャアアアアア!」

 身の危険を感じ、ギュッと目をつぶった香澄だが、その妖怪を虎吉が棍棒で殴って吹っ飛ばした。

「香澄、大丈夫か?」

「と、虎吉ぃ……」

「ったく、馬鹿だな。中までついてきやがって。外で大人しく待っていればよかったんだ」

 虎吉はため息をついた。

「いつから私がついてきてるって気づいてた?」

「神社の前で別れてからついてきてたのは知ってた」

 最初からじゃないか。

「虎吉、お嬢さんは無事か?」

 壁の穴から百合が歩いてきた。

「大丈夫です。無事保護しました」

「無事なら良かった。しかし……困ったね。だいぶ進んでしまったし、今から外に帰すのもこくか」

「す、すいません……」

 香澄はすっかりしょげてしまった。

「いいよ、ついておいで。ただし安全のために離れてはいけないよ」

「はい!」

「あと、撮った写真はあとで処分してもらう。妖怪のことが外部に知れると困ったことになるんだ。いいね?」

「…………はい」

 香澄は渋々しぶしぶ了承した。珍獣牛人間なんて寂れた神社のお仕事紹介なんかよりずっと刺激的なのに。

「では行こうか」

「香澄、ちゃんとついてこいよ」

「あ、ねえ、虎吉――」

「ん? どうした?」

「――あなたたちは何者なの」

 香澄の問いに、虎吉はじっと見つめ返し、答える言葉を考えているようだった。

「……ただの巫女さんと、そのお手伝いだよ」

「嘘だ」

「悪い、聞かないでくれるか。どう答えたらいいか……いつかちゃんと話すよ。ほら、行くぞ」

 背中を向けて歩き出す虎吉を見て、香澄はやはり虎吉が遠い存在になったように感じた。


「オラァ!」

 虎吉が最後の壁を破壊した。穴をくぐり抜けると、ひときわ広い場所に出た。

「つ、疲れた……これもう普通に迷路をたどったほうが良かったのでは」

「それはそれで疲れるだろう。壁を一直線にぶち抜いたほうが時間短縮にもなる」

「あんたは御札で間接的に攻撃するだけだから楽ですよね……」

 涼しい顔をした百合を、虎吉は恨みがましくにらんだ。

「まあそんなことはどうでもいい。観念しろ牛!」

 百合はびしっと牛人間に指を突きつけた。

 ミノタウロスは身体を丸めて息も荒く威嚇した。

「ブルル……お前ら、アヤカシ堂だな?」

「あ、言葉を喋れるんだ」

 虎吉は少し感心したようだった。

「外国の妖怪にもアヤカシ堂が認知されてるとは、鼻が高いな」

 ふふん、と百合は満足そうに言った。

「アヤカシ堂の『黒猫』と戦いに来たんだ、当然だ」

 怪物は眉間にシワを寄せ、低くうなった。

「そういうお前はもしや『アヤカシ堂の聖なる魔女』だな。だがお前に用はない。黒猫はどこだ」

「黒猫様はいない、いても会わせない。なぜならお前はここで退治されるからだ」

「店長……それだと俺らが悪役みたいです……」

「ねえ虎吉、黒猫って?」

 香澄は虎吉の服の袖を引っ張った。

「アヤカシ堂の創設者だよ。黒猫っていうのはあだ名だが、本名は俺も知らない」

「ふーん」

「ふざけやがって、お前ら女子供に俺が負けるかァ!」

 ミノタウロスは忌々いまいましげに怒鳴った。

「その女子供に攻撃されてここに逃げ込んだくせに」

「うるせえ!」

 百合が馬鹿にすると、牛人間は逆上して腕を振り上げた。

「ふん、単純馬鹿め」

 百合は御札を一枚空中に放り投げた。すると、御札の周囲に結界が発生し、ミノタウロスの豪腕ごうわんはじき返した。そこへ虎吉が素早く飛びかかり、棍棒で横っつらを叩きのめす。ミノタウロスは脳震盪のうしんとうを起こしたのか、床を震わせて倒れた。

「やった! すごいすごい!」

 香澄はすっかり興奮して、気絶した怪物に駆け寄り夢中でシャッターを切った。

「おい、何やってんだ。俺たちから離れるなって言ったろ」

 虎吉が呆れ顔で言う。

「平気平気。あんたたちも写して、町のヒーローにしてやるわよ」

 香澄は全く反省していない。

「いや、だから写真撮るなって――」

 言いかけたところで、虎吉は目を見開いた。

 香澄の背後で、ミノタウロスがむくりと起き上がっていたのだ。

めやがってェ……! この小娘から叩き潰してやる!」

「香澄! あぶねえ!」

 ミノタウロスが巨大な腕を振り上げる。香澄は立ちすくんでその場から動けず、びくりとちぢこまった。虎吉は香澄の前に立ちはだかり、両腕をクロスさせて怪物の一撃を受け止めた。

 重機を破壊する衝撃、普通の人間ならば両腕とも骨が粉砕され、その命も無事ではすまない威力である。

 香澄は恐る恐る顔を上げた。

 目の前に誰かが立っている。それが虎吉だと一瞬判別できなかったのは、先程まで短かった彼の髪が腰まで伸びていたせいである。肌も褐色になり、瞳は真紅に妖しい光を放っている。ミノタウロスの攻撃を受けてなお、彼は全くダメージを受けていないようだった。

「……お前、何者だ?」

 ミノタウロスが値踏みをするように虎吉を睨みつけた。

「アヤカシ堂の店員さ」

「お前、ただの人間ではないな? 妖怪の匂いがする」

 香澄は息を飲んだ。

「ああ、俺は半分吸血鬼――半妖はんようだよ」

「半妖……?」

 幼馴染が人間ではなかった。

 香澄は状況についていけず呆然とした。


 あれは忘れもしない、去年の冬。

 夜の公園でコウモリのような姿の怪物に襲われた虎吉は、布団の上で目を覚ました。

 見知らぬ天井。彼の顔をのぞき込む、知らない幼女の顔。真紅の瞳。

「お姉ちゃん……お兄ちゃんが、起きたよ」

 黒い着物の幼女は、ふすまの向こうに声をかけた。

 ふすまが開いて、気を失う前に見かけた巫女が歩いてくる。

「気がついたか。やれやれ、面倒なことになった」

 すとんと虎吉のかたわらに座る巫女。虎吉は布団から身を起こした。

「ここは……」

「私の神社に運ばせてもらった」

「あなたは何者ですか。あの化物は……」

「順を追って説明するから、落ち着いて聞いて欲しい」

 巫女はふうとため息をつきながら言った。

「私の名前は天馬百合。このアヤカシ堂の店主および鳳仙神社の巫女だ」

「アヤカシ堂?」

「アヤカシ堂は主に妖怪に関するトラブルを処理する店だ。生業なりわいは妖怪退治とかそんなところだな」

「妖怪……それじゃ、あの化物は」

「おそらく海外の妖怪だろうな。日本であんなのは見たことがない。それで、退治中に君を巻き込んでしまった。すまない」

「そうだったんですか……」

 だんだん状況が飲み込めてきた。

「俺こそお仕事の邪魔してすみませんでした。あの化物はどうなりましたか?」

「ああ、退治したよ。これで新たな犠牲者が増えることはない」

 百合と名乗る女は、その割には苦々にがにがしい顔をしながら言った。

「あの妖怪は、何人か食い殺してる凶悪なやつでね。仕留められて良かった」

「それは良かったです。あんなやつがこの町にいたなんて……」

「……あー、それで言いにくいんだが、君も犠牲者の一人なんだ」

「そうですね。殺されはしなかったけど一応襲われたし」

「……うん……ええと」

 百合は歯に物が挟まったようなぎこちない態度で、何かを言うべきか迷っているようだった。

「鏡を見てくれないか」

 と、手鏡を渡された。

「? はい」

 言われるまま覗き込むと、虎吉は自分の変化に気づいた。

 顔が、というか肌が黒い。自分の手も見てみたがやはり褐色に染まっている。短髪だったはずが腰まで髪が伸びている。瞳が紅い。牙が生えている。

「な、なんじゃこりゃ!? あの、これは一体」

「うん……」

 二人のあいだの空気が重くなる。

「おそらく、あの妖怪は吸血鬼の亜種……新種かもしれないな、あんな吸血鬼は見たことがない。それで、噛まれた君は半分吸血鬼になってしまったようだ。完全な吸血鬼は鏡には映らないからな」

「俺が……吸血鬼……」

「半分吸血鬼なら日光を浴びても死んだりしないし、日常生活に影響はないだろうが……まあなんだ、すまない」

 すまないで済む問題じゃないと思うが。

「元に戻れないんですか」

「戻る方法は分からないが、あるかもしれない。それで、方法が見つかるまでうちで働かないか」

「アヤカシ堂で?」

「さっきも言ったとおり、うちは妖怪を扱う店だ。妖怪に関する情報が集まってきやすい。吸血鬼に噛まれた人間を元に戻す方法もわかるかもしれない。……まあ、半妖になった君を我々が監視しなければならないというのもあるが」

 ああ面倒だ、と百合はぼやいた。本音を隠しておけない人なのかもしれない。

「どうする? 元に戻りたいかい?」

「うーん、でも、吸血鬼の体って色々すごいんじゃないですか? コウモリに変身したり、なんかすごい能力とか持ってるんですよね?」

 漠然ばくぜんとしているが、映画なんかで見る吸血鬼は怪力を持っていたり壁をよじ登ったり、日の光にさえ当たらなければ最強に見える。

「そうか? 吸血鬼は確かに強いが弱点も多いぞ。十字架に触ると火傷やけどするしニンニクなどの強い匂いも苦手だ。聖水や聖別された銀も天敵だな。半吸血鬼だからそれらの弱点も効きづらくはなるが。あと、君はコウモリには変身できないぞ」

「なんと……」

 知らなかった。吸血鬼がそんなに不便で生きづらい体質だったなんて。そんな体で俺はこれから先を生きていかなくちゃならないのか。

「なにより――」

 百合は人差し指を立てた。

「妖怪は人間とは流れる時間が違う。君は半妖だから妖怪ほど長生きはしないけれど、それでも十分人間よりも若いままでいられる。それは素晴らしいことに思えるかもしれないけれど、若いままの君を残して周囲の人間はどんどん死んでいくということだ」

 虎吉は思わず想像する。友人や家族の墓の前に佇む、今の姿のままの自分。周囲の人間は皆しわくちゃの老人になって、若い姿のままの虎吉を奇妙な目で見る――。

 それは、とても、

「嫌――ですね……」

「だろう?」

「俺、人間に戻りたいです。働かせてください」

「わかった。私のことは店長と呼んでくれ。これからよろしく」

 百合――いや店長は、顔に微笑を浮かべながら握手を求めた。

 虎吉は両手で百合の柔らかな白い手を包み込んだ。


「――まさか、こんな命懸けの仕事だなんて思いませんでしたけどね!」

「私と出会ったあの事件で察するべきだったな、それは」

 虎吉の言葉に、百合は冷静な言葉を返した。

「ま、そんなことはどうでもいい。ホルスタインのミノタウロスは珍しいから封印して持って帰るとしよう。とにかく弱らせるぞ、虎吉」

「了解っと」

 虎吉はミノタウロスの腕を振り払うと、棍棒を手にとった。棍棒を握り締めると、球の部分から幾本もの刺が生えてくる。――棍棒はモーニングスターになった。

「おらよっと!」

 虎吉はモーニングスターを軽々と振り回す。胴に頭に、重い一撃が加わった。

「ブモッ……」

 よろけるミノタウロスに、百合の放った御札から放たれる火球が止めを刺した。

 ズシンと鈍い音を立てて倒れるミノタウロスの額に、百合が御札を貼ると、ミノタウロスの身体は御札の中に吸い込まれるように消えた。おそらくこれが封印なのだろう。

「任務完了だ」

「お疲れーっす!」

 百合の言葉に、虎吉はやりきった顔で伸びをした。

 ミノタウロスが消えたおかげか、異界化していた迷宮は消え、本来の廃墟へと戻っていた。妖怪たちも親玉がいなくなって慌てて四散している。

「虎吉! 怪我ない?」

「香澄……」

 虎吉に駆け寄る香澄に微笑みかけた虎吉は、彼女に手を差し出した。

「? 何、この手は」

「カメラ出せ。写真消すって言ったろ」

「チッ」

 香澄は思わず舌打ちした。覚えてやがったのか。

 こうして事件は解決し、香澄のカメラからはミノタウロスの存在や、虎吉が吸血鬼に変身する瞬間などの決定的な証拠写真が抹消された。


 場所は変わって、香澄の家。

 アヤカシ堂の面々と別れて、夜も更けている。

 香澄は自室で学校新聞を作っている真っ最中だ。

「ふっふっふ……さて、明日の一面はアヤカシ堂の妖怪退治に決定ね……」

 香澄の手には、あのミノタウロスや肌の黒い虎吉の写真が握られている。

 虎吉がカメラから写真を抹消することを予想していた香澄は、別に隠し持っていたカメラに写真を転送していたのである。

 いまやその写真は、自宅のプリンターで印刷され、この学校新聞に貼られるのを待つのみとなっていた。

 ウキウキしながら写真を貼ろうとした矢先、香澄は突然視線を感じた。その視線は窓の外からのように思われた。なんだろう。すっと目を窓に向ける。

「! きゃああ」

 香澄の口から、思わず悲鳴が漏れる。

 窓の外には、昼間迷宮にいたような妖怪がびっしりと窓に張り付いていた。キシキシと音を立て、窓を圧迫している。まるで写真に吸い寄せられ、集まったようだった。このままでは、窓を破られ、香澄自身も無事ではすまない。香澄は自らの危機に恐怖を覚えた。そのとき。

「オラッ!」

 聞きなれた声。

 虎吉が窓から妖怪を引っペがしては投げていた。

 あとから百合もベランダに飛び乗り、窓に御札を貼った。その瞬間、妖怪は蒸発するように消え失せた。

「虎吉に……百合さん? なんで……」

「アフターサービスってやつだよ」

「香澄さん……だから写真は処分してくださいと申しましたでしょう」

 百合がとがめるような視線を香澄に送る。

「ごめんなさい……まさかこんなことになるなんて」

 香澄は心から申し訳ない気分になった。

「やれやれ……まあ、ちゃんと反省していただけたようですし良しとしましょう。今度こそ写真は全て抹消させていただきます。妖怪の存在を公表することは、社会にも個人にも危険なことなんです。ご理解いただけましたか?」

「はい……」

「それでは、窓から失礼します。虎吉、引き上げるぞ」

「あ、はい」

 写真を全て消したことを確認して、虎吉と百合は窓から出て行った。

「鈴が神社で待ってるぞ。今日は肉じゃがだそうだ」

 百合の足取りは心なしか軽いようだった。

「楽しみですね。鈴の料理はいつも美味しいから」

 虎吉と百合は神社への道を歩いて行った。


〈続く〉

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