満天聖夜のマリヨンヌ


「橘の意地が、俺たちがこの冬まで会えなかった理由……?」


 東京タワーを臨むブリッジの中央で、手すりにもたれて見上げる橘。

 その綺麗な橙の瞳が、不意に真横の俺を映した。


「ええ、そうよ」


 彼女の声はいつもよりずっと冷たくて、でもなぜか笑っている。悲しげに笑っている。

 ふたりを隔てる五十センチの隙間が何マイルにも遠く感じて、俺は無性に焦った。

 ────このままじゃ橘との関係が終わって仕舞うような。 


「俺が何か気に障るようなことをしたなら謝らせてくれ」

 藁にも縋るような気持ちで頭を下げる。今はとにかくこのかよわい糸を繋ぎ止める事に必死だった。

「本当に覚えてないのね……。いいえ、覚えるほどの事でもなかったのかもしれないけれど」

「何を」

 聞き返す声が少し荒い。焦りからか彼女の回りくどい言い方に、少しイライラしていた。

「付箋の裏に、おめでとうって書いたわよね?」

 お泊まりの翌日に橘が置いていったメモのことだ。追伸に確かに『言い遅れたけれど、おめでとう』と残されていた。だけど、それがどうした。それがどう話に関係する。

「だから?」

「……なんであなたが怒ってるのよ」

 そういう彼女の声も、重くとげとげしい。

「橘が全然話そうとしないからだろ!」

「……っ」

 橘が怯えるように俯く。何か痛んでいるかのように胸を手で押さえていた。

「いや、その、悪い……」

「ち、ちがうの……私、やっぱりだめだ……」

 そう呟くや否や、彼女は先ほどまで歩いた道へ駆け出してしまう。

「お、おい!」


 ────追いかけなければ


 橘が部屋を飛び出したあの日のことを、ずっとどこかで後悔していた。

 俺の人生はいつも、冷静を気取って、衝突に怯えて、他人と距離を取っていた。でも、橘。お前は、そう簡単にあきらめちゃいけない存在だった。そんな当たり前のことに、俺はずっと気付いていなかったんだ……。


「待ってくれ!!」


 カップルやら家族やらの隙間を縫って、逃げ去る橘を追いかける。十数分前に見た煌めく街路樹が勢いよく後方へ消えていく。俯瞰で見たら自分はなんて恥ずかしいことをしているんだと、今すぐにも逃げたくなる。それでも、俺の目は、声は、ただ前方に、一直線に────


「琴葉!! ちゃんと話してくれ! もう逃げるのはなしだ!」

「!?」


 橘は驚いた顔で少しだけこちらに視線を向ける。それも無理はない。目立つことを嫌う俺が、こんな大通りで、こんな大声で叫ぶなんて、どうかしている。街を通る人々が、皆こちらを見ているだろう。

 でも、そんなことも振り払うように全速力で走った。口から白が漏れる。肺や横腹が痛い。じめっとした汗が服に張り付く。こっちは運動不足の大学生だというのに、橘に再会してから、俺は走ってばかりだ。

 足が速い橘との距離はなかなか縮まらない。そのうえこっちは叫んで余計に体力使っている。なのにその背中に声をかけるのをやめられない。


「なあ! ちゃんと本音で話そう! 分かり合えなくてもいい、これきりになってもいい! でも分からないまま、分かり合うのを諦めたまま終わるのは、違うだろ!!」

 ぴくっと、俺の叫び声に、橘が反応した気がした。そして、彼女も走りながら後方にいる俺に、普段なら絶対に発さない大声を上げる。

「本音ってなによ! こんな街中で!! あなただって受験で私に勝ったこと、ずっと黙ってたじゃない! あなたのことだからどうせ遠慮とかしたんでしょうけど、そっちの方が全然寂しいわよ! そんなので本音なんて言わないで!」

「た、橘…………」

 あの付箋の『おめでとう』は、首席合格に対する言葉だったのか。俺が言わなかったのを気にして、ずっと今まで距離を取っていたのか……。

 俺は、なんで直接橘に言わなかったんだったけか。今まで言わなかったことすらずっと忘れていた。初めて橘に勝って俺は確かに嬉しくて。でも……。あの時のこと、いま思い出せ。ちゃんと、思い出せ────。




「はぁっ……はぁっ……」

 

 橘との鬼ごっこは結局俺たちが待ち合わせた場所まで続いた。つまりは、東京タワーの真下。お互い体力を使い果たして息切れしていた。コートは暑くてたまらないので脱いだ。橘も、マフラーを外してハンカチで首元を拭いていた。


「お前、足速かったんだな……」

「あなたこそ……あんな大きな声出せたのね」

「それもお互い様だな……」


 ふたたび沈黙。すうっと、深呼吸して息を整える。

 ────そうだ、あの時の俺は。


「どんな顔していいか分かんなかったんだよな」

「・・・え?」


 橘がここに来て初めてこちらを振り向く。意外にも彼女は晴れ晴れした表情をしていた。

 ずっと言えなかったことを、告白できたからかもしれない。


「高校の時はさ、ずっと競い合ってたよな。でも、テストでお前に勝てたこと一回もなかった。模試も、お前はいっつも一番で。でもお前、勝ってもずっと飄々とした顔してさ、本当に、むかついてたよ」


 俺はからっと笑う。「あなたにだけは絶対負けたくないの」なんてどや顔で言っていた彼女を思い出す。いつか絶対悔しがらせてやるって、三年間、ずっとずっと燃えていた……はずだったのに。


「でも、いざ勝ってみたらなんか燃え尽きちゃってさ。どんな顔で、お前に会えばいいのか、どういう風に話せばいいのか、急に分かんなくなって。多分、心のどこかで敗者でいることに、挑戦者の立場に甘んじてたんだ」

「…………」

 橘は何も言わずに、ぼんやりイルミネーションを見ている。俺は真逆のタワーを見上げながら、まるで独り言を言うかのようにぽつぽつと言葉を吐いていく。

「でもまあいつか言えばいいか、なんて思っていたら、いつの間にか言わなかったことすら忘れてしまって。遠慮とか、そういうつもりじゃなかったんだ。……最初に逃げていたのは、俺の方だったな……ごめん」

 ちらっと、ゆっくり橘を盗み見ようとしたら、偶然にも目が合う。じっと、真顔で見つめられること数秒。


「…………ふふっ」

 俺が橘の目線から逃れられないでいると、彼女は急に吹き出した。

「なんだよ、真面目に話してたんだぞ」

「そうね、ごめんなさい。でも、一回勝ったくらいでそんなに心を乱していたのだと思うと可笑しくて……ふふっ」

「お前ほんとムカつくな!?」

 なんて憎まれ口を叩きながら、俺は内心とても安堵していた。彼女の笑顔を久々に見たことに。この応酬の懐かしさに。


「……そう、あなただって嫌味っぽくドヤ顔でもすれば良かったのよ」

「それで……良かったのか。そうだよな……俺たちって、そういうライバルだったもんな」

「ええ。嫌味を言い合う、そういう友達よ」

「その言い方だとすごい嫌な感じするな」

 ふふ、と彼女がまた微笑む。確かに、俺たちにはこういうのが似合ってるよな。


「あなたと再会した時、私、こう言ったの覚えてる?」

「なんて?」

「『二人で話すといつも皮肉大会みたいになるんだから。嫌になるわ』って」

「ああ、そういえば言ってたなそんなこと。それが?」

「……本当はそういうノリ、好きよ」

「そ、そうか……」

 え・・・? 今までこんな直球なデレありましたっけ? 

 なんか心なしか顔も赤いし。


「いつからお前ツンデレになったんだ?」

「う、うるさいわね! 私はクーデレよ!」

「クーデレは受け止めるのかよ」

「ちょっと、クリスマスの空気にあてられただけ」

「さいですか。……じゃあ俺もクリスマスってことで」


 俺はカバンから、可愛く包装されたそれを取り出して、そっぽを向いていた橘の首元に取りつける。

「えっ、ちょ、なによ急に」

「プレゼント」

「え……ネックレス?」

「ああ」

「すごく可愛らしいけど……なんで?」

 シンプルなピンクゴールドのネックレスに目を輝かせる橘。気に入ってもらえて一安心、あいつのセンスに感謝しておかないとな。

「まだ指輪は買えなかったから、とりあえずそれで許してくれ」

「へ・・・?」

 きょとんとした橘は、まだこれをクリスマスプレゼントか何かだと思っているらしい。違う、これはそんな安いものじゃないさ。



「結婚しよう、橘」



「……?! あの話はてっきりなかったことになったのかと……」

「今日俺はお前とすれ違いを解消して、結婚するためにここに来たんだ。それに、言っとくけど今日は酒の勢いじゃないからな」

 前みたいにはしたくないと、俺は真剣な目で彼女に訴えた。たとえそこに恋愛感情がなくても、俺はこの結婚に本気だと、そう伝えたかった。

「……ふふ。あなたって思ったよりロマンチストなのね?」

「返事くらい言えよ」

「……ええ、マリヨン ヌ」

「ははっ、どんだけツンデレなんだよ」

「悪かったわね」

 

 彼女はあくまで茶化した口調だが、その真っ赤に染まった耳に免じて許してやろう。


 ────Marion-nous! フランス語で、「結婚しよう」。


 ……どうやら本気で照れているらしいからな。



「じゃあ、記念にケーキ屋さんにでも寄って帰ろうか」

「これから二人暮らしなのにそんな贅沢できないわ。今日特売のスーパーがあるからそこで買いましょう?」

「はは、さすが経済的な奥さんでいらっしゃる」


 こうしてめでたく誕生した夫婦は、星空の下を手も繋がずに帰っていく。

 イルミネーションを背にした橘はやはり絵になるな、なんて思いながら。



 二番目に好きな人と結婚した俺の物語は、ここから始まったのだった────。



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