けやき坂のクリスマスイヴ
男には眠れない夜がふたつあった。
ひとつは修学旅行前夜。これは言わずもがな、極度のワクワクと期待感によって、交感神経が収まらずに生じる。俺でもそういった旅行前は、布団に入ってもずっと目が冴えていることが多かったものだ。
そして、もうひとつは試験前夜。これは期待というよりは緊張、不安、プレッシャーといった類の感情に起因する。実際にセンター前夜でも俺は極度の緊張でまったく寝付けなかった。しかしそれも仕方ない。なにせ大学受験は、大事な大事な橘との最後の勝負だったのだから────。
「おはようございます……」
昨晩は典型的な後者だった。大学に入って夜型生活に拍車が掛かってはいたが、まさか朝日が昇るまで眠れないとは思わなかった。目覚めたのは夕方の四時過ぎ。冬の陽は既にかなり傾いていた。布団の温もりが離れがたい。
そりゃあ緊張もする。自分の人生の岐路に立っているという意味では、受験の時となんら変わらないのだ。まだ短いながらも、すぐに馴染んだ橘との生活。それがこの先どうなるかは、今日で決まる。
そういえば前にも、橘と出かける前夜に眠れないことがあったな。確か半同棲を始めて一週間ほど経った時のこと。初めての二人での外出ということで、デートの作法など知らない俺は余計に緊張してしまったのだ。結局その日は寝坊して……────
*
目が醒めたら俺を見下ろす橘が、そこにいた。
夢と現実との境界線がぼやけて、状況が呑み込めない。
「やっぱり寝てたのね、返信ないからそうじゃないかと思ったけど」
「へ……? あっ!!」
橘の少し皮肉めいた言葉で、やっと我に帰る。途端、がばっと身体を起こした。
そうだ、今日は橘とデートをする日だった。確か待ち合わせ時間は十三時。今は────
「もう三時よ。アフタヌーンのね」
俺が焦って時計の方を振り向いたのを見て、先回りして答えを言う橘。まさかの二時間遅れ。いや、この時間に起きていたとしても待ち合わせ場所に着くのはもっと遅かっただろうから、二時間遅れでは済まない。
「ごめん橘。今すぐに準備して……」
「もう今日は遅いし、また今度にしましょう」
「そうか……すまん。最近は眠れていたから油断してた……」
半同棲生活が始まってから、無駄に夜更かしすることがなくなった。それはきっと、心が帰ってくる場所があるという安心感のおかげだろう。だから、もう寝坊なんてすることなどないと思っていたのに。
「ホント、合鍵があってよかったわ。返信がなくても、ここに来ればあなたの安否が分かる」
俺が約束をすっぽかしたのにも拘らず、怒るどころか心配までしてくれる器の大きさ。さすがに優しすぎるのではないか。俺は思わず、ごめんな……と零していた。
「あなたがどうして謝るのよ」
「橘が全然怒ってくれないから、かな……」
「それはあなたが勝手に許されたいだけでしょう? 結局、自分のためなのよ」
人の気持ちが分かる橘だからこその鋭い指摘。言葉が詰まる。俯いて何を言うべきか考え込む。いやしかし何を言っても言い訳にしか……。
「ふふっ、なんてね」
急に笑い声が上から降っててきた。見上げると、なんとも意地の悪い、良い笑顔。
「元々怒ってなんかないんだから、許すも許さないもないのよ。あなたの眠ってるマヌケな寝顔見てたら、怒るのも馬鹿馬鹿しくなったわ」
そうため息をつく橘は呆れているようで、なんだかちょっと嬉しそうだった。
なぜなのかは、未だに分からない。
結局その後は、雑談を交えながら各々読書や調べ物をしたり、料理や洗濯を一緒にしたりして、家でまったり過ごしていた。部屋を流れる時空は、いつも穏やかでゆるやかで。それが無性に心地いいのだと、何気なく思ったのだった……────。
*
────思ったよりも上手くいくのかもしれないな
いつだったか、こんなことを橘に言った。お互いを理解し合える人といるというだけで、こんなに安心するのかとあの時は驚いたものだ。
しかし、俺はきっと慢心していた。穏やかな日々に甘んじて、結局何も橘のことを理解しようとしなかった。逃げたのだ。踏み込むことからも、向き合うことからも。
「でも、それも今日で終わりだ」
頭上の東京タワーが煌々と夜空を照らす。名目上はクリスマスデートなので、今日は六本木のイルミネーションを見ることになっているのだ。付近の公園で、俺は緊張しながらも橘を待っていた。今日は念には念を入れて三十分前集合だ。
「一瀬。今回はさすがに間に合ったのね」
時間の五分前になって、橘は背後から現れた。皮肉たっぷりな台詞と共に。振り返ってその姿を目に映すと、無意識に息を呑んでいた。久しぶりに会う橘は、東京タワーも霞むほど輝いて見えた。これがクリスマス効果なのか。
いや実際、普段しないようなメイクを薄くだがしていたり、髪をハーフアップにくくっていたりと、気合が入っているようだ。橘も、クリスマスくらいはオシャレをするんだな。それにしても、美人が本気を出すと殺傷能力が高すぎて困る……。
「……待った?」
「いや、たった三十分ほどしか待ってないぞ」
「そこは、今来たとこって言いなさいよ」
「嘘つきは泥棒の始まりって習わなかったのか?」
「あら、嘘も方便って言葉をご存じかしら」
二年弱離れていても、すぐ昔のように話せた仲だ。わずか一週間程度では、何も変わらず応酬を交わすことができる。その事実にただ安心しつつも、それに甘えすぎたからいけなかったのだと気を引き締める。
「橘、なんで返信してくれなかったんだ? なにかあったのか?」
今日の目的が単なるデートではないことは、橘も分かっている。唐突に本題を切り出してしまったが、彼女の顔はすぐ真剣な表情に変わった。
「そうね、ちゃんと話すわ」
俺の方には目を向けず、二歩三歩と大通りの方に歩いていく。そこで振り返り、橘は進行方向を指差して言った。
「でもせっかくだから、イルミネーションを見ながらにしましょう?」
橘の提案通りけやき坂の通りに出ると、そこはもう夢の国のようだった。溢れんばかりの光が街を包み、その光をも夜の闇がそっと包み込む。ただ街路樹にLEDが絡まっているだけの光景に、なぜこんなに感傷的にさせられるのか。数歩先を歩く橘も、感慨深そうにイルミネーションを見上げている。その構図は絵になるほど美しく、思わず唾を呑んだ。
「まず謝らなきゃいけないのは、返信できなかったことよね。実はあの日家を飛び出してから、三日ほど高熱が出てて。それでずっと寝込んでたの」
「そうだったのか……もう平気か?」
「ええ。それからは普通に学校来ていたし」
「なら良かったが……。だったら話しかけてくれても良かったんじゃ……?」
確かに最初の三日間、既読すらつかなかったのはこれで説明がつく。でもその後なら返信なり会うなりは出来たはずだが……。
「あんな風に出て行っちゃったし、ちゃんと会って話すべきだと思った」
それなら尚更なぜ。そう言いかけると、だって……とこちらに振り向いた橘の声に遮られる。
「あなたを探して見つける度に、あなたいつもいつも同じ子と話してるのよ?」
「あ……」
そういえばそうだった。最近は毎日のように朝比奈の相手をしていたから、確かにあの中に割って入るのは俺が橘の立場でもできないだろう。そういう積極性は、俺も橘も元々持ち合わせていない。でもまさか、わざわざ俺を探してくれていたなんて。
「そりゃ話しかけづらいよな……すまない」
「いや、それもあるけれど……うん。なんて言えばいいのかしら……その……」
俯いて何かを言いあぐねている橘。立ち止まって向かい合う俺たちを、手を繋いだ男女が不思議そうに覗きつつ横切っていく。
「結局私たちの結婚って何なのかしら……というより、私たち同士である意味……みたいなものを色々思案してしまったというか……上手く言語化できないのだけど……」
「なんとなく分かる」
きっと橘も悩んでいたんだ。結婚の相手が橘じゃなくてもいいんじゃないかってずっと悩んでいた俺と同じように。自分たちの同棲生活はその程度のものだったのかと。
俺たちはお互いの暮らしの中で、きっと愛でも恋でもない『絆』のような、そんなものを感じていた。それなのに、こうも容易く崩れてしまうのかと。俺は橘が出て行って、橘は俺が朝比奈と話しているのを見て、そう思ったのだろう。
再び横並びに人工的星空の下を歩き出す。先ほど横切ったアベックさんはかなり遠く先に見えた。
「あの子はちょっと色々あって告白されて、実は昨日デートまでしたんだけど」
「ふーん?」
ちょっとは橘の焦った顔が見られると思ったが、なんだか落ち着いている。というより、拗ねてる……? まあ、意地悪はこの辺にして。
「でも実はそれは彼女の嘘で、他の人の気を引くためだった訳なんだけどな」
「あら、それは残念だったわね」
俺をからかえるのが嬉しいのか、心なしか声が弾んでいる。しかし、生き生きした橘を見るのは何故か今は安心した。
「まあだから、そんなに妬いても無駄だぞ」
「なっ……! そういう訳じゃないわよ」
勿論妬いていないことなど知っている。俺はムキになる橘を見て満足し、「冗談だ」とたしなめた。
「ただね、少しあの子が羨ましいなとは思ったの。私もあんな風に甘えられたら、こんなことにはならなかった。あなたのお皿も割らずに済んだのに……ってね」
橘は昔から人に甘えるのが苦手だ。人柄を考えれば当たり前だが、寧ろ人に甘えられ頼られることの方が圧倒的に多い。それ故になんでも自分一人で抱え込んでしまうきらいがあった。今回もそういった無理が
「すまない、気付けなくて……」
「違うわ。私が泊まった日に変な意地なんて張らずにちゃんと説明すべきだったのよ」
「泊まった理由、結局訊けなかったもんな」
「その理由は、端的に言えば────……家に帰るのが面倒だったのよね」
「へ?」
変に身構えたせいで、拍子抜けした声が出た。どういうことだ。というか、橘の「端的」はいつも
「実は私ね、教職を取ってるの」
「えっ、そうだったのか」
教職を取っているということは、教員免許を取るための授業を受けているということ。つまりそれは、橘が教師を目指しているということだ。高校の時ずっと一緒にいたのに、そんなことは一度も聞いたことがなかった。
「確かに教職はかなり大変だと聞くが」
「そう。それで私、実家通いで通学時間も長いからかなり寝不足が続いてて……」
「あの日はランドルトCとのこともあったからな……。相当疲れていただろうし、往復三時間以上が省けるなら、確かにそっちの方が合理的だ」
「でも説明する間もなく寝落ちてしまって……」
「起きてからでも言ってくれたら良かったじゃないか」
橘はそれを聞いて、吹雪を吹くがごとく深い息を吐く。
ちょうど東京タワーが良く見えることで人気のブリッジの上。ここは事前にリサーチ済みの場所だったが、写真より何倍も絶景だ。中央に凛と立つ橘も、東京タワーを見上げながら言った。
「そう、それが私の変な意地。私たちがこの冬まで出会えなかった理由なのよ」
冷たい声色が、冷たい空気に乗って、冷たくなった耳まで届く。
見上げた夜空はやはりバケツ塗りのように真っ黒で、星の一つも見えやしなかった。
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