ソクラテス式問答術の真意
「お、
「待たせたな
翌日。
俺が呼び出されたのは、前に橘とも行った居酒屋。平日の昼間ということもあってか、店内はかなり
「久々だな。サシで飲もうなんて」
「まーね、最近あんま会ってなかったから寂しくてさ~」
「き、気持ち悪い冗談やめろ。それにお前の用事だったんだろ」
「まーそーだけど」
こういう恥ずかしいことをサラッと言えるところが、異性にモテる所以なのだろうか。
次、橘に会ったら言ってみようか。否、絶対からかわれる。やめよう。
「こっちだってお前がいなくて困ってたんだ」
「そういや、やけになんか疲れた顔してんね?
「いや……」
稲藤がおらず困っていたのは朝比奈の件だが、橘との件に関して相談したいと思っていたのも事実だ。まあ朝比奈に関してはただの愚痴になってしまうし、特段話す必要もないだろう。そう思い、俺は稲藤の問いを認めることにした。
「実は色々あって結婚できるか怪しくなってきてな……」
「ほう?」
稲藤は興味深そうに相槌を打つ。口角を少し上げたその表情は、なんというか小悪魔のようにも見えた。
「なんだか嬉しそうだな」
「んにゃ? あんなに仲睦まじそうだったのに、一体何があったのかと思っただけ」
稲藤はなんでもないように言って、頼んだレモンサワーに口をつける。
俺も深くは考えず、酒と焼き鳥を交えつつこれまでの経緯をざっくり話した。
「……ほう。それで連絡とかも途絶えた、と」
「まあそんなとこだ」
「なにか心当たりとかあんの?」
「いや……」
なんとなく橘が泊まりに来たあの日から、様子がおかしいとは思っていた。しかし、それが何故かなのかは分かっていない。
俺はそこまで考え込んで、首を横に振った。
「ふーん。ちょっと質問変わるけどさ、今どう?」
「どうってなんだよ」
「琴葉ちゃんいなくなって、なんか変わったかなって」
「別にだな。それこそ二週間前まではずっとこんな生活だったからな。特に最近は色々あって、あまり退屈もしてないし……」
「そっかあ……」
寂しげに微笑む稲藤は、じゃあ……と言葉を続けた。
「────もう結婚なんて、しなくてもいいと思ってる?」
「え…………」
そんなわけないだろ。そう言えばいいだけなのに、なぜか口からは出てこない。
俺はもう、橘と結婚できなくても構わないと思っているんだろうか。
「じゃあ質問を変えるけど」
言い淀んでいる俺に構わず、稲藤は更なる質問を繰り出してくる。
「琴葉ちゃんじゃない人とでも、浩貴は結婚できる?」
「なんだよその質問」
「まあいいから考えてみてよ」
そう言われ俺は腕を組んで目を瞑る。まず脳裏をよぎったのが、何を血迷ったか朝比奈の顔だった。
……いやいや。ないない。最近毎日のように会っていたからか浮かんでしまっただけで。というかそもそも、彼女と橘以外と異性の関わりがほぼないに等しいから仕方ない。そう、これは事故だ。むしろこちらは被害者だ。訴えよう。
「前に言ってたよね。『信頼関係があるなら、結婚に恋愛感情はいらない』、『恋人に依存するんじゃなく、心の帰る場所を作るべきだ』って」
お泊まりの次の日に俺が稲藤に、事の次第を説明した時のことだ。
橘との会話もほぼほぼ正確に伝えていたのだが、こいつもよく覚えてるな。
「そうだ。だから信頼していた橘と結婚してもいいと思ったんだ」
「じゃあ自分を受け入れてくれる人なら、自分が受け入れられる人なら誰だっていいんじゃないの? そう、それこそ『信頼関係』が築ける人なら。琴葉ちゃんじゃなくても」
酒も入っているんだろうが、稲藤は珍しく饒舌で、更に論理的に詰め寄ってくる。一方、俺はあまり酔っていないということもあって、冷静に彼の理屈を検証していた。
ここはさすが東大生というか、普段何も考えていない風を装っていても、やはり根底の考え方はしっかり筋が通っている。信頼という条件さえ満たせばよいのなら、別に相手は代替不可能な存在には成り得ない。少なくとも、結婚を決めたあの段階で、橘以上に信頼できる人がいなかったのは事実だが、それは橘が特別だということではないような……。もしかしたら他の人だって────
「そうだなー」
稲藤の言葉で思考の潜水から、地上に呼び戻される。しかし、その言葉の続きは俺の思考を加速こそさせ、止めるようなものではなかった。
「例えばお前のことを好きって子だったらどうだ? 少なくとも彼女はお前のことを受け入れてくれるよな。お前も彼女のことを恋愛感情としては好きになれなくても、一人の人間としては信頼できるかもしれない。もしそうなら、浩貴たちの論理上では条件を満たしていることになるんじゃないのか?」
「自分のことを好きな人……」
ここまで言われてしまっては事故では済まされない。徹底的に思索の森の奥まで進む覚悟を決めなければ。俺は朝比奈とも結婚ができるか? そんなバカげた話と一蹴する前に、徹底的にそれを検証するのだ。
争点となるのは、やはり信頼関係ということになる。現段階で俺が朝比奈に寄せる信頼はどうだ? そう大きくはないだろう。まだ出会って間もない相手、なんなら少し苦手意識まである。だが、彼女といる時間に大きな不満はない。もともと、俺は一人でいることが多いが、一人至上主義なんかでは決してない。人の温もりは高校の時にも散々感じたし、だからこそ橘との結婚も考えたのだから。
さて、ではこれから朝比奈に対して信頼関係が芽生える可能性はあるか? それは充分にあるだろう。時間はかかるかもしれないが、徐々にお互いのことを理解し合っていくのは、今の距離感を続けていればそう難しくないように思える。その時が来た時に、俺は朝比奈と結婚できるのだろうか……?
「できるのだろうか……」
「随分と長考してたな」
稲藤がいることをすっかり忘れて考え込んでしまっていた。人前でこんなに考え込んでしまうとは。いや、考え込まされた?
「悪いな、ほったらかして」
「ううん、浩貴に問答するのちょっと楽しかった」
「お前はソクラテスか」
ソクラテスとは、産婆術とも呼ばれる問答法で有名な哲学者だ。今の話し合いを、対話を通して真理を導く問答法に喩えたのだ。稲藤はそれを理解してくれたようで、ケラケラ笑っている。
「それで? 真理は産めたのかな?」
「はは、ちょっと難産になりそうだ」
考えてみたが、未来のことはやはり想像に難い。それに、朝比奈がどんな人間か、まだ測り兼ねてるところもあるしな……。
「じゃ、デートすれば?」
「……は?」
俺の心の声は漏れていないはずだが、唐突に稲藤はそんな提案をした。そもそも、まだ朝比奈に付きまとわれていることは、まだ話していないのだからこいつが知るはずがない。
「デートって誰とだよ」
「いや、実は今日お前を呼んだのは、お前と話したかったからもそうなんだけど。実はどうしてもお前とデートしたいって子がいてさ~。俺と仲いいのをどこかで聞いたらしくて、頼まれちゃったんだよねー」
・・・は?
「だから、デートしてやってくんない? 一回遊ぶだけ! おねがい!!」
目の前の男が、両手を合わせて頭を下げている。
もしやこいつ、さては……
「この流れに持ってくための問答だったのか!!」
「いやいやいや!? 違うよ? 違うけどね? そりゃあ俺も女の子の頼みは断らない主義だけど、こればかりは浩貴に迷惑かかるし、結婚するから無理って言うんなら引くつもりだったよ?? でも、なんか聞いた感じいけそうだなーってオモッタカラ……」
大慌てで弁明しているが、段々しどろもどろになっている。というか、いけそうだなーってなんだよ、もう下心丸出しじゃないか。稲藤の様子が最初から何か可笑しいとは思っていたが、まさかこんなことだったとは。
「なんというか、警戒して損したよ」
「えー? 浩貴、俺のこと警戒してたのー?」
「お前はすぐ悪いこと企むからな」
「そうだったかなー、ははは」
目をそらして分かりやすく誤魔化す。その様子はいつものふざけた稲藤だった。
「仕方ないな。俺も自分の気持ちは整理させたいし、お前の頼み引き受けてやるよ」
「え、まじ!? やったー、浩貴さすがデキる男!」
「うるさい。今回だけだからな」
調子よく俺を褒め称える稲藤を、微笑ましく思いながらも俺は睨んだのだった。
「……それで? 結局その子は誰なんだ?」
「えー、言っても知らないし、せっかくなら会った時のお楽しみってことで、ね?」
「知らないだろうけど、何の前情報もないのは怖いだろう、さすがに」
「まあちゃんとれっきとした東大生だから、安心しなよ」
「ならいいが……」
相手が朝比奈でなくとも、考えることは一緒。
俺は自分の気持ちと、橘と導き出した論理を確かめに行く、ただそれだけだ。
「で? いつ行けばいいんだ?」
「えーと、今夜」
「今夜!?」
「ていうか五時から」
「五時って……あと一時間もないじゃないか!」
急にも程がある。というか、当事者抜きで日程を決めているのがどうかしている。ブラックマヨネーズもびっくりだ。
「はっはっは、流石にクリスマスイブとかは良くないかなーと思ってさ」
「だったらその後でも良かっただろうに……」
「そもそもダメ元だったからさ。浩貴が来られないなら彼女は買い物でもして帰るって言ってたし」
「じゃあ彼女はもう待ち合わせ場所にいたりするのか」
「少なくとも向かってるとは思うよ」
「…………」
今から顔も名前も知らない稲藤の知り合いとデートをするコスト。自分の気持ちをはっきりさせるメリット。今からすぐにデートの準備を済ませるコスト。橘と考えた結婚の論理を確かめるメリット。
色んなものを脳内の天秤にかけて、俺は立ち上がった。
「今日はお前のおごりで許してやる」
「行ってくれるんだね」
「待たせるのも忍びないからな」
「そっかぁ……」
俺は自分の荷物を持って、席を立つ。
日も暮れ始め、徐々にサラリーマンたちで店内が賑わってきているようだ。しかし、まだ気を遣って席を立つような混み具合でもない。稲藤はまだここで飲んでいくらしい。人に赤の他人とデートさせておいて、まったく呑気な奴だ。
「じゃあな」
「うん、じゃねー」
……いい結果を期待してるよ。
去り際に後ろからそんなことを言われたような気がした。
その時、稲藤がどんな顔をしていたのか、俺には分からなかった。
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