2 壁の穴は壁でふさげ(7)
歳星が手を振ると、女性スタッフたちはまたそろって礼をする。
「えっ、ちょっ、あの」
あやねが止める間もなく、スタッフたちは並んで出ていってしまう。
歳星とふたりきりなんてとんでもない!
とあやねは焦るが、なにせいまは慣れない足袋と着物。ひとりでは草履を履けそうにもない。もたもたしていると、歳星はさっさと歩んできて、サロンのフロアより一段高い和室に上がってくる。
おたおたしていても無駄だ、とあやねは背筋を伸ばして迎えた。
「お話とはなんでしょうか」
「大したことじゃない。ふん……だいぶマシな姿になったな」
無神経な発言に、あやねは微妙に
どうもこの歳星という存在、いちいちこちらの神経を逆なでしてくる。それでも懸命に自分をなだめて口を開いた。
「ありがとうございます。太白さんのパートナーとして見苦しくない格好で、お見合いの場に臨めるかと」
「指摘されたら、早速呼び方を変えてきたな」
うっ、とあやねが絶句すると、歳星はずいと近寄る。
「おまえのことを調べさせてもらった」
「は!?」
たじろぐあやねに、歳星は不敵な笑みでゆっくりと距離を詰める。押されてじりじり下がると、ますます彼は迫ってくる。
「花籠あやね、二十七歳。
あやねは顔も体も強張らせ、壁際まであとずさる。
いやな感じ、いやな感じ。
勝手に自分の経歴を調べられるのもすごくいやだけれど、母のことまで調べるなんて。お金持ちって、そういうものなの!?
「先月終わりに退職願を出し、いまは有給消化中だそうだな。太白の東京出張で出会ったというが、先日のパーティで臨時に雇われたときには、初対面らしい雰囲気だったそうじゃないか。なにより東京の取引先とおまえの会社は接点がない。たとえ仕事としても出会う機会があるとは思えん」
迫ってくる歳星にあとずさりすぎて、あやねの帯が壁に触れた。崩したら困る、と身動きの取れないあやねに、歳星は超至近距離まで詰め寄る。
彼の海外俳優ばりに彫りが深く整った顔は、陰になると
負けず嫌いなあやねでも、さすがに怖い。
しかも太白の関係者なら、彼も妖かしなのだ!
恐ろしさに震えるあやねに、歳星は低い声でつぶやく。
「それに、妖かしを退治しようとする陰陽師どもの手先でもない。経歴から見ても、ごくふつうの人間でただの庶民だ。といって、一目惚れするような容姿でもない、おまえのような平凡な、しかもただの人間が、どうやって太白に取り入った?」
「ずいぶんないいようですね。取り入るなんて、そんなことしていません」
声を振り絞り、毅然とあやねが答えたときだった。
ドン!
といきなり歳星はあやねの顔のすぐ脇に、強く手をついた。
平成も終わるこの時代に壁ドン!?
と
ひぃ、とあやねは爪先立って壁に背中を押しつける。帯のことも、もう考えられなかった。
「ふん、度胸はあるようだ。怯えてうかつに口を滑らせん理性もな」
歳星はあやねに顔を寄せ、にやりと不敵に笑った。必死に奥歯を食いしばり、震えを抑え込んでいると、彼は思いがけないことをいった。
「花籠。俺に乗り換えろ」
「は? はいぃ!?」
謎の発言に、あやねは思わずうわずった声を上げる。
「ど、どういう、ことですか!」
「性根が座っているし、理性も知恵もある。見栄えも整えれば悪くはない。太白を選んだのは、どうせ地位と金目当てだろう。ならば俺にしろ。俺が総支配人の座を譲らなければ、あいつはいつまでも頭領にはなれんのだからな」
歳星はあやねを見下ろし、自信満々にいった。
「女は、金持ちで権力がある強引な男に弱いのが世の定番だ。感情の起伏がなくて腰の低い太白など、すぐに物足りなくなる。遠慮せず乗り換えるがいい」
こ、の、や、ろ、う。
あやねは怒り心頭。よくもこちらの主体性を見くびってくれたものだ。
怖さなんて吹き飛んでしまった。あやねは力をこめてぐいと歳星を押しのけ、驚く彼の腕の下から逃れて離れると、真っ直ぐに見返した。
「お断りいたします」
きっぱりとあやねはいった。
「わたしは、太白さんだから結婚を決めたんです。そうでなければ、だれかと結婚しようなんて、これっぽっちだって考えもしませんでした」
これは心からの真実だった。
初対面のときから彼はあやねを気遣ってくれたし、守るといった言葉通り、歳星の口撃からもかばってくれた。
今朝だって、無断で寝室に入ったのを謝ってくれた。
太白なら、断りもなくサロンに入るような真似なんかしない。あやねの意志を尊重してくれるはず。
こちらの気持ちを無視して思い通りにしようとする相手なんか、願い下げだ。
「それと、太白さんを想って試したのかもしれませんが、わたしの気持ちも聞かず威圧していうことを聞かせようなんて、とても、とても不愉快です。もう二度とならさないでくさい。それでは時間も迫っていますし、失礼いたします」
履いてきたサンダルを履き、用意されていた草履をつかんでサロンから出る。そして腹立ちのまま、あやねはずんずんとホテルの廊下を歩いていく。
〝……指摘されたら、早速呼び方を変えてきたな〟
やっぱり怪しまれている。短期間でこちらの素性を調べ上げる迅速さも恐ろしい。油断しないようにしなくちゃ、とあやねは心を引きしめる。
「終わりましたか、あやねさん」
待ち合わせのフロントロビーに着くと、太白が見つけて歩いてきた。彼はスーツ姿だが、いつもよりいっそうにぴしりと着こなしている。
「なかなか姿が見えないので、心配していました……素敵ですね」
素直な褒め言葉に、あやねは照れくさくなってわざとおどけて答えた。
「ありがとうございます。でも自分じゃないみたいで、あは、は」
「たしかに、あやねさんらしくないですね。ああ、すみません。似合ってないという意味ではないのですが」
という太白の目線が足元に落ちる。
あっ、とあやねも気づいた。
「着物で草履なんて慣れなくて。急いでいたのであとで履こうと思ったんです」
「よろしかったら、僕がお手伝いしてもいいですか」
「えっ? お手伝いって、まさか」
どうぞ、とソファを指し示す太白に、あやねはぶんぶんと首を振った。
「待ってください、太白さんにそんなことさせられません。自分でやります」
「帯でかがむのが辛いでしょう。だいじょうぶ、すぐ済ませます」
あやねはうろたえるが、時間がない。仕方なくソファに腰を下ろす。
太白は膝をつくと草履の鼻緒を広げ、足袋を履いたあやねの足に履かせてやる。スタッフたちが興味深げにうかがっているのがわかった。
いつも冷静な事業統括部長が、女性の足元にひざまずいているなんて、きっと珍しいのだろう。
「終わりました。どうですか」
太白は立ち上がった。あやねも腰を上げ、履き心地をチェックする。
「ありがとうございます、いい具合です。でも、恥ずかしいですね……。子どもみたいに、履かせていただくなんて」
「情けなくはありません。困ったときに助け合うのが、パートナーです」
太白は穏やかにいった。そんな態度に、あやねの心が軽くなる。
ふたりは連れ立って、エレベーターに向かう。慣れない着物で遅れがちなのに、太白は歩幅を合わせ、エレベーターのドアも開けて待っていてくれた。
そんな優しさが、あやねにはくすぐったい。
〝たしかに、あやねさんらしくないですね〟
あやねはエレベーターのなかで、こっそりと笑う。
見違えるようとか、ましになったとか、賛辞のようで実は本質を見ていない言葉より、ずっとずっと胸に響く嬉しい言葉だった。
しかし、歳星との会話を告げようかどうしようか。ふつうなら話すべきだ。
あれはあやねへの脅しでもあり、太白への裏切りでもある。
〝俺が総支配人の座を譲らなければ、あいつはいつまでも頭領にはなれん〟
含みのある歳星の言葉。
太白の教育係というけれど、本当は実権を握ったまま、手放さないつもりではないのか。でも、なぜそれをわざわざあやねに告げる?
そうして悩んでいると、エレベーターは止まった。
二十四階。
ホテルとしては高層階である。いったい、ガーデンラウンジとはどんな場所だろうと思いながら、太白とともに開くドアの向こうへ一歩踏み出す。
とたん、あやねは大きく目をみはった。
―― 2 壁の穴は壁でふさげ/了 ――
次回からは、水・金・日曜日の週三回更新!
次回更新は、11月1日(金)予定!
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