トイレの住人

音羽 咲良

第1-1話 薫る春きたる




   1




 未だ肌寒さの残る、三月中旬。

 晴れて希望の大学に合格した彼、神樹元みきもと晃佑こうすけは本日、都内で生活するための物件を内覧する目的で、地元群馬から上京してきていた。

 待ち合わせは午前十時、場所は内覧予定地に一番近い駅の中央改札前という事だった。

 朝から待ちきれなかった晃佑は迷う事も想定して早めに地元を出てきたのだが、思いもよらずスムーズに辿り着いた為、予定よりも二十分早く着いてしまった。まぁ、迷って遅刻するよりはいいだろう。

どうやって時間を潰そうかと辺りを見回していたら、駅に併設されている駅ビルの一階に居心地の良さそうなカフェがあるのを見つけた。駅ビル自体はまだ開店前のようだが、このカフェは朝も早い時間だと言うのにもう開店しているようだ。


 ――非常に悩む。


 今日は天気はいいが、そこそこ寒い。また、改札前のスペースは両端へ通行できるようになっている為、吹きさらしの風が否応なしに吹き付けてくる。

 暖かい場所に避難したいというのが本音だが、二十分と言う中途半端な時間ではそれも躊躇ためらうところだ。

 カフェの入り口と、携帯電話の時計表示を見比べながらしばし考え込む。

 こうして考えている間にも時間は過ぎていくのだから、下手に店へ入るのはやめたほうがいいかもしれない。

 それならばと晃佑はカフェに入る代わりに、同じく駅に併設されているコンビニへ向かうと缶コーヒーを一本買って出てきた。保温機で暖められていた缶コーヒーは程よく温められていて、中身を飲むと胃の中に暖かさがじんわり染みた。


(あー…担当早く来ねぇかな……)


 また一口、コーヒーに口をつけながら、晃佑は改札の向こう側を眺める。改札を通り抜ける人は多いが、その中から晃佑に近づいてくる気配はない。

 相手が少しでも早く来るのを待ち遠しく思いつつ、今度は改札から視線を外して人通りのある北口を見つめた。

 外は寒いとはいえ、着々と春に近づいているらしい。ロータリーに植えられた木には白い花が咲き乱れている。あれはおそらく梅の花だろうか。それを微笑ましく眺め、また一口、コーヒーを口に含んだ。

 春の息吹を感じてみれば、晃佑の短い黒髪を乱していくこの吹きさらしの風も、少し柔らかい春の匂いがする気がした。




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