除光液

 ある現場の最終日、引き払ったはずの旅館から携帯に着信があった。


「部屋に除光液が残されているのですが、お客様のものでしょうか」


 ……しまった。最後にリュックサックに入れるのを忘れてた。


 ただ、現場は宿から車で一時間ほど掛かる。帰り道もまったく反対で、同行者にも迷惑を掛けるため、宿の人には謝って処分してもらうように伝えた。


 除光液は、特に男性の方は知らない方も少なくないかと思うが、マニキュアを溶かして落とすためのものである。

 念のために書いておくが、筆者は男性であり、除光液を使で使ったことはない。


 では、除光液など何のために持っていたのか。

 それにはまず、除光液の成分の話からしなければなるまい。


 多くの除光液の主成分はアセトンだ。これは揮発性と引火性が高く、目やのどなどに悪影響がある。 

 このため除光液の中には、ノンアセトンとかアセトンフリーと題して、アセトン以外の物質を主成分とするものがある。

 この「アセトン以外」でよく使われるのが酢酸エチルという物質で、これがマニキュアを使わないのに除光液を持ち歩いている理由である。


 これは、昆虫採集に使う殺虫剤なのだ。


    ◆


 昆虫採集に使われる殺虫剤は、酢酸エチルの他、亜硫酸ガス、アンモニア、ジエチルエーテル、そしてシアン化カリウム(青酸カリ)などで、どれも一長一短ある。


 青酸カリは即効性が高く、変色しにくく濡れることも少ない、殺虫用の容器を作るのは手間がかかるが一度作れば補充なしでしばらく使えるという利点がある。欠点は言うまでもなく危険度が高く使い道を誤れば人も死ぬ、保管および万一の紛失時が大変、入手困難で手続きが面倒、ついでに脚などの関節が硬くなりやすいこと(つまり後で標本を作る際に整形に手間がかかる)。


 一方、酢酸エチルは人間への毒性が低く扱いやすいこと、青酸カリほどではないが効きは早いことによりよく使われている。

 欠点は、水分が多いため、ハチハエをはじめとする毛が多く翅の薄いものは状態が悪くなりやすいこと、変色のおそれがあることなどだ。


 ほかの薬品に比べ扱いやすく、比較的簡単に入手できることから、環境調査の現場では酢酸エチルがよく使われている。

 比較的簡単に入手といっても劇物扱いではあるため、薬局では購入の際に身分証明書や印鑑が必要となる。また、店舗には在庫がなく取り寄せになったり、大手のチェーンの店では取り寄せを断られたりすることも少なくない。

 また、ネット上には昆虫関係の採集・標本用具や文献を販売しているところがあり、そこでは断られることはなく採集用の酢酸エチルを買えるが、手続きが必要なのは変わらない。


 ただ、近年では……具体的に何年前からかと問われても記憶があいまいなのだが……酢酸エチル入りの除光液が百円均一の店やネット通販で簡単に手に入るようになった。

 これは、おそらく濃度やほかの含有物の関係か、身分証明などの手続きは不要である。さすがにマニキュアを落とすのに身分証や印鑑が必要となったら、気軽におしゃれもできなくなるだろう。


 それで、現場で酢酸エチルが切れた時、なくした時、そして忘れてきた時。

 そんな時に、百均で容易に補充ができるようになったのはありがたい。


    ◆


 冒頭の宿の人であるが、男が一人部屋で泊まっているのに、何に使うと思われただろうか(別の部屋に泊まっている同行者はいたが、全員男性)。

 まあ、男がマニキュアを使うのはありえない訳ではないが。


 もし、百均の化粧品コーナーで除光液を買っている男性を見かけたら……。


 それはマニキュアでおしゃれをしている人かもしれないし、あるいは昆虫採集を仕事か趣味にしている人かもしれない。

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