29 タツミくん、パンツ脱ぐ。
実は事ここに至りまだ問題がひとつ残っている。
そんなわけで、工房が近づくにつれタツミがそわそわしだした。
「……どした、お前?」
クヅキに訊ねられてもタツミはうまく答えられない。
困ったタツミはクヅキとライドウを交互に見やった。ついでにモズクにも視線をやったが、モズクはまったく興味を示さずさっさか前を歩いていく。
「あの、俺」
工房の階段を前にして足を止め、とうとうタツミは言った。
「すみません、急用を思い出したので、俺、行ってきますけど、すぐ戻ります!」
「はぁ? 急用?」
「どこ行くんだよ、そんな血塗れで」
クヅキとライドウが驚いて聞き返したときには、タツミは反対に向かってダッシュしていた。
「……意外と元気だな、タツミ」
「うん。まぁ、よかった」
一体なんなのだろう。
タツミの動きは思いがけず早く、二人はただただ呆気にとられて見送るしかなかった。
「なんだろ。タツミ、うんこかな?」
「……違うだろ。だったら工房のトイレが一番近いだろうが」
クヅキは階段の一番下の段に座りこんだ。
「なんだ、クヅキ。上がらないのか?」
「うん。すぐ戻るって言ったし、タツミをここで待つ」
面倒だとは思いつつ、ライドウもクヅキの横で壁にもたれた。クヅキを一人で放っておくのも気にかかるし、タツミのこともまぁ心配だ。
タツミを待つこと30分。
ようやくふらふらと戻ってきたタツミは階段下の二人に気づくと驚いて飛び上がり、一生懸命駆け寄ってきた。
「あ、すみません、え、なんで下で?」
「バカ。タツミを連れずに戻ったら、ブロッサに怒られるだろ!」
留守番、万一に備えて工房の守りを固める役目に残ったブロッサも、タツミのことを心配しているのだ。それなのに連れずに戻って「タツミはどっか走ってったヨ」なんて言ったら、ブロッサのことだ、なにをぶっ放されるか知れたものではない。
「で。お前はなにを急に走り出した?」
じろりとクヅキに睨まれて、タツミは視線を泳がせた。
「ええと。その」
どうしたらいいか。タツミなりに考えている。
そうして心を決めたタツミは鞄から紙袋を引っ張り出す。それをクヅキに押し付けて、ほっと息をついた。
「なに、これ?」
クヅキは小さな袋を見て首をかしげる。タツミは口をパクパクするだけで説明しない。クヅキは袋を開けてみた。
ころんとジャムの小瓶が転がりでた。
次来るときジャムを買ってこい。その命令を守るため、慌ててタツミがお店へ行って、選んで、買ってきた梅ジャムだった。
「……あ。ああ!」
ひどいことにクヅキはうっかり命令したことを失念していた。
小瓶を見て思いだし、声を上げる。
ジャムだ! 驚きと悦びが脳髄を駆け巡ろうとする目の前で、小瓶は横から伸びてきたライドウの手に奪われた。
「ああああ! ジャム!」
取り返そうと喚くクヅキを片手で抑えつつ、ライドウはどういうつもりかとタツミを睨む。
それはあまりに怖く、タツミは首をすくめた。
「あの! クヅキさんが。買ってこいって。命令で」
秒でばらした。
へにょもにょとした言い訳けだったが、だいたいライドウは事情を察した。
即座にタツミを睨むのをやめ、クヅキの襟首を掴んで吊るし上げる。
「おい、クヅキ。どういうことだ?」
「俺のジャム、返せ」
むくれたクヅキはライドウを強く睨み返す。
二人の横でタツミはあたふたした。
「俺が怒ってんのはジャムじゃない。お前な、ジャムを手に入れるために“命令”を使ったってのは、どういう了見だ」
雇用契約第一条項、クヅキの命令には絶対的服従でもって従うというのは、別にクヅキの職権を強化するためのものではない。
万が一雇用者がクヅキに害を加えようとしたとき、それに対抗するための手段として用意したものだ。
一応後ろめたくはあるのか、クヅキが目をそらす。
「そういうことするとな、タツミに信用されなくなるぞ」
驚いた顔でクヅキがタツミを見た。
「ジャムのためにタツミを失っていいのか? お前、タツミとジャムとどっちが大事だ?」
タツミとジャムを並べられ、クヅキの目が二つの間を行き来する。
クヅキはそうっと聞いた。
「……それは、もしジャムを選んだら、そのジャムを舐めさせてくれる、とか……?」
クヅキはジャムに目がない。タツミもよく知っている。
ライドウは酷いことを聞く、とタツミは思った。クヅキが選ぶのなんか決まっている。
「それはな。お前がここでジャムを選ぶようなやつなら、もう好きなように舐めればいい」
なげやりにライドウが言い、ジャムを見るクヅキの目に熱が帯びる。こくりと唾を飲み込んだ。
ああ、やっぱりクヅキはジャムを選ぶのだ。言葉にできない冷たい気持ちが込み上げて、タツミはぎゅっと目をつぶった。
もう一度クヅキの喉がなる。
「タツミとジャムなら、……タツミのが大事だ」
クヅキの絞り出すような声が聞こえて、タツミは目を見開いた。
苦しげな、それでも一生懸命タツミを見据えるクヅキの顔があった。
飛び散った理性の欠片をかき集め、ジャムの束縛を逃れる。それがどれほど大変なことか、タツミは知らない。知らないけれど、――なにかがちゃんと伝わってきて、タツミはもう一度目を閉じた。
「ほう。お前も成長するもんだな」
ライドウがようやく手を離す。
「それならもっとタツミを大事にしろ」
「うん」
タツミは目も口も閉じていないとなんか出そうだった。
「もしまたジャム舐めたくなったら、代わりにタツミ舐めとけ」
「うん」
「えっ、それは止めてください!」
思わず叫んだら鼻水吹き出した。
「うわ、タツミ汚い」
「いいからとにかく着替えと治療だ、お前」
両手を二人に引っ張られ、タツミは工房の階段を上がる。
「ていうかタツミ! なんでジャムが梅なんだよ!」
手をぐいぐい引きながらクヅキが怒った様に言う。タツミが買ってきたのが梅ジャムだったのが気に食わないらしい。
「あの、でも、あんまり甘くないジャムの方がライドウさんに怒られない、かと思って」
「そういう問題じゃない。というか、なんで俺に命令のこと言わなかった、お前」
次またこういうことがあったら隠すな、と結局ライドウに怒られる。
「まぁ梅だったおかげで正気保てたけどな!」
イチゴジャムだったらダメだったかもしれない。とクヅキが偉そうに言うが、それは自慢にならない。
工房の入口ではブロッサが帰りを待っていた。タツミを見て、ブロッサは眩しいほどの笑みを浮かべた。
「タツミ! よかった!」
駆け寄ってきてタツミを撫で回す。
「ちょっと、傷だらけじゃない! 大丈夫なの!?」
怪我一つ一つは浅くて大したことはない。が、触られるとめちゃくちゃ痛い。
タツミは悲鳴を懸命に飲み込んだ。
「あ、大丈夫、なので、ちょ、やめ」
「もうっ! 心配させないでよ、タツミ!」
ぐいぐいやられて涙が出そうだ。だが、それだけタツミのことを心配してくれていたのだろう。とても嬉しい。
「もうっもうっ。せっかく紋衣のデザイン描いたのに、殺されて帰ってこないかと思った。ほら、見て見て。どう?」
ブロッサがデザインを広げて見せてくる。
タツミの身を……心配……してくれていた……のだと思う。
「もうこんなことがないように早く紋衣作らなきゃ、タツミ!」
「え、あ、はい」
「いや、それよりともかく防御系の魔術が使えるように、どっかに紋入れた方がいいな」
クヅキが真剣な顔で言う。
「いつも身に付けてるもの……パンツだな。タツミ、ちょっとパンツ脱げ」
「え、や、ちょ」
クヅキが突然ズボンへ手をかけてくる。タツミは慌てて逃れようとした。
「あの、やめ、いえ、一晩穿いてたパンツで、いろいろあったパンツなんで」
「いいから脱げ」
「ムリムリムリムリ!」
ブロッサに後ろから押さえられ、クヅキにズボンを下ろされ、タツミは懸命にパンツを押さえる。
上から救急箱を取って戻ったライドウは、ブロッサとクヅキ二人がかりでパンツ脱がされかけてるタツミ、という意味不明な場面に出くわし立ち尽くした。
「……なにしてる?」
「タツミのパンツに紋入れる!」
「ダメ、パンツ、ムリ!」
ライドウは、助けを求めるタツミとやる気満々なクヅキとに顔を向けられ、大きなため息をついた。
そしてタツミを見る。
「……なんにしろ着てるもの全部洗う。脱げ」
「ほげろうひゃあああああ」
こうして以後タツミが野垂れ死ぬ心配をする必要はなくなるのだが。幸せになっても、それはそれでいろいろ大変なのだと思い知るのは早くも三秒後。パンツを脱がされたときだ。
「……野垂れ死ぬよりはマシ、だけど」
裸でぷるぷる震えながらタツミはつぶやく。
幸せは、難しい。
これが、平凡で特別なところはない、けれど丁寧で有能な刺繍師になる男の始まりの物語。
なお、タツミが初めての紋衣、自分の紋衣を完成させるのは、たぶん三巻ぐらい先である。
『志望理由;野垂れ死ぬよりはマシかなと思いました。』 to be continued?
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ここまでお付き合いいただきありがとうございます!
皆さまの応援に心より感謝申し上げます。
本編はここで一区切りですが、次におまけ小話を一つ公開しております。
よろしければどうぞ。
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