26 タツミくん、選ぶ
「なん、で。俺、名前……」
名前を知られている。
ヤクザになぜだか名前を呼ばれ、タツミは縮み上がった。
しかしまぁ、なぜかもなにかもない。
昼間にクヅキがこいつらの前で不用意にタツミの名前を呼んだからだ。それをしっかり覚えられてしまっていただけだ。
覚えてないって人は20話を読み返してみるといいんじゃないか?
顔に傷のある男、一家の若頭であるジベスは酷薄な笑みを浮かべた。
「そう怯えんなよ、タツミくん」
ゆっくりとした優しげな声で再度名前を呼ばれ、タツミがぷるぷる震える。
「俺、殺される……?」
タツミが捕まる理由なんて、昼間の腹いせとか復讐とかのためぐらいしか思いつかない。
ジベスはやや面倒そうに顔をしかめた。
「おとなしく話を聞いてくれれば、なにも手荒な真似をするつもりはない」
確かにタツミは殴られたり縛られたりするでもなく、なにやら良さげなソファに座らされている。
ただ、後ろや横を囲む
「俺、た、食べられる?」
「いやだから。なんもしねぇつってんだろ」
ぷるぷるするばかりで話にならないタツミにジベスはげんなりした。
手玉にとりやすいだろうと弱っちそうに見えた新人を狙ったのだが。想定より面倒くさいやつだったようだ。
御愁傷様だ。
「いいから話を聞け。俺たちはお前と取引がしたいだけだ」
「ふえ?」
取引、という予想外の単語にタツミの頭はついていかない。
震える瞳でただただアホのように若頭を見つめ返す。
「取引、だ」
言い聞かせるようにジベスはゆっくりと繰り返した。
「応じてくれれば、なにもひどいことはしない」
「……」
ようやくタツミの脳みそに意味が通じた。
が、今の言葉は、つまり取引に応じなければひどいことをする、ということだ。
取引というが、無理矢理タツミになにかをさせようとしているとしか思えない。
その圧力の前にタツミは無力だった。
「俺、なに、を……?」
聞きたくはなかったが、ほぼ言わされるようにしてタツミは聞いた。
「紋衣だ」
ジベスは機嫌のよさそうな薄い笑みを取り戻す。
「俺たちが受けとるはずだった紋衣、あれを持ってこい」
紋衣。タツミは思い出す。クヅキの作業部屋に掛けておかれていた。あの緻密な紋の刺繍された紋衣。
それを手にいれるためにタツミを利用しよう、そういうことだ。
でもあの紋衣はクヅキが引き渡すことを強く拒んだものだ。
それを持ち出すことなど許されるはずがない。
「そんな、俺、ムリ」
反射的に首を振ろうとしたタツミは、鋭い視線に刺されて固まった。
冷たく凄みのあるそれは、タツミが今まで経験したことのないそれだ。
「たかが紋衣をひとつ持ち出すだけだ、ばれないように持ってくることだってできるだろうが」
ダンッとテーブルを叩かれる。
一見ジベスは優しげな顔を見せている。もしタツミが言い逆らったり意に添わぬ答えをしたりしたら、即座にそれを脱ぎ捨てるだろう。
横に控えた男が一葉の
びっしりと細かく文字と術式が書き込まれている。
見るからに禍々しい。きっと呪術契約、だ。
要は工房の雇用契約書と同じなのだが、洗練されていたあの契約書とは比べようもない。
タツミは無理矢理ペンを握らされた。
「そこにサインしろ」
冷めた声音の命令にタツミはピクリと震えた。
恐る恐る文面へ目をやる。でも、字が細かすぎてどんな条項が書いてあるのか分からない。
分からないが、これだけびっしり書いてあるのだ。タツミの行動を完全に縛るものだろう。
サインしたが最後、きっと逃げられない。
ペンを持たされた手が上から押さえられた。
それになんとか抗いながらタツミは思う。
なんだかデジャヴだ。こんなときに二日前の出来事がふつふつと思い出される。
工房の仕事に採用されて無事就職できた、とタツミは思っていた。思っていたのに。
あれ? あのやり口、ヤクザと一緒だった……?
手を押さえる力が増し、タツミはバランスを崩した。そのまま押し倒されそうになる。
「おい、まだ手荒なことはするな」
ジベスの声にはどこか余裕がある。タツミ程度どうとでもなる、と思っているのだろう。
「特に顔。見えるところにアザはつけるな」
手下にタツミを無理矢理引き起こさせて、ジベスはにやりと顔を歪めた。
「俺は取引だと言っただろ。むろんお前にも旨味があるはなし、だ」
「うま、み?」
腕は取られたままだ。泣きたくなりながらタツミは聞き返すしかない。
ジベスの合図で静かにテーブルへ札束が積まれた。
「300万。紋衣を持ってくれば、これを支払おう」
金をちらつかせるタイミングまでクヅキと一緒だった。
ジベスはテーブルへ身をのりだし、タツミの顔を覗き込む。
「これだけの金を働いて稼ごうと思ったらどれだけかかるか。考えてみろ、タツミくん」
300万円。確かにタツミが稼ごうとしたら相当大変だろう。
ところで300万稼ぐもなにも、タツミはすでに一昨日だけで2800万ばかり受け取っている。それと比べれば300万なんてずいぶん少ない。
が、もちろん男はそんなことは知らない。
そしてタツミも金塊に現実味がなさすぎて、すっかりあの金は認識から漏れている。
クヅキが知ったら泣きそうな話だった。
「そん、な。お金、とか」
積まれた現金から必死に目をそらし、タツミは視線を泳がせる。
「あ? 足りないか? 言うねぇ、タツミくん」
ジベスが手を振り、束が二つ追加される。
「500万だ」
ひぃという情けない声がタツミの口から漏れた。これまでタツミの人生にそんな大金が絡んできたことはない(金塊除く)。
「悪い話じゃないだろう、タツミくん?」
優しい優しい声をジベスは出す。
「こっそり紋衣を持ってくるだけで、500万だ」
しかし紋衣を持ち出して、それがクヅキらにバレないはずがない。
バレたらどんなことになるか。
クヅキは、彼らの舐めた態度に大層腹を立てていた。そんなやつらに丹精込めて作った紋衣を譲らない、といった。
どんな事情があったとしても、もしタツミが紋衣を持ち出して渡したりしたら。クヅキは絶対にタツミを許さないだろう、とタツミは思った。
「そんなもの、逃げてしまえば関係ない」
さも当然というふうにジベスは言う。
「それとも、なにか義理でもあるのか、新入りのお前に?」
「え、でも、俺、あの、やっと仕事を」
「仕事? ただ雇われただけ、だろ?」
凄みのある声で冷たく言われ、タツミはオロオロとする。
「でも、俺」
タツミにとってはやっと見つけた大事な仕事なのだ。いや、ただの仕事ではない。タツミがやっと見つけた居場所……になるかもしれない場所だ。
そんなタツミの思いは言葉になって出てこない。
恐い。このまま威圧されて意志とは反対のことをやらされる。そういう恐怖を感じた。
「なんの問題がある? お前が交換条件だというのなら、仕事のひとつやふたつ、いくらでも紹介してやる。なんならカタギの仕事だってある」
ジベスたちのような輩はもともと仕事の斡旋もしのぎにしているのだ。いともたやすくそう言った。
「だいたいあの厳しいことで有名な工房だ、苦労するわりに稼ぎなんてないだろう」
ジベスの目がまっすぐタツミを見て逃がさない。
「もっと簡単にちゃんと稼げるのが正しい仕事ってもんだ」
あの工房の仕事はおかしい。なんて断じられても、タツミにはぜんぜん分からない。
まだまともに働けたことも稼げたこともタツミにはないのだ。
タツミの頭はぐるぐるしている。
ジベスは容赦なくタツミに畳み掛ける。
「特に工房長、あれは気まぐれで厳しい人だ。あの人の下で働くのは苦労が多いだろ」
「そんなこと」
ない。と言おうとして、でもタツミは言えなかった。
そう言われれば、確かにクヅキは“気まぐれ”な人だ。
ころころ感情が変わるし。案外いろいろ適当だし。自分勝手なところがあるし。きついことを平然と言う。
挙げ句の果てにジャムを買ってこいと命令した。あれは、傷ついた。
改めて思うと、あの人は結構ひどい。
残念ながらタツミにはそれを否定できない。
でも、すごい人だ。タツミはそれを知っている。
魔力がないというのは、どうしようもない欠陥だ。タツミなんかよりよっぽど高い障害を前にして、でもクヅキは強い。クヅキは、格好いい。
「あの工房にこだわる理由でもあるのか? あの工房でなけりゃならない理由があるのか?」
そう問われて、答えられるほどのものはタツミにない。ただ魔力が低くて他では働けなかったタツミを雇ってくれた、というだけだ。
「あの工房が、
小さくて鋭い刃が刺してくるようだった。
無能でなにをしても遅いタツミが、あの工房でできることなどほとんどない。
クヅキもタツミの仕事を期待なんかしていないと言った。
せいぜい評価してもらえているとすれば、魔力が低いという、そんなしょうもないことだけだ。
そんなことは、タツミも分かっている。
「大して意味もないのなら、そんな無用な苦労などやめてしまえ。もっといい仕事を選べ。そのほうがお前のためだ」
酸いも甘いも舐め尽くした男の言葉はタツミに重くのしかかった。
「ほら、早くサインして楽になれよ。そうすれば痛い目にも遭わなくてすむ」
どうせタツミががんばったって意味はない。
ジベスの目はそう言ってタツミを圧迫してくる。
そうなんだろうか。そうなのかもしれない。
でも、タツミは覚えていた。
クヅキは、お前は刺繍師に向いてる、と言った。俺がお前をちゃんと一人前の刺繍師に仕込んでやる、と言った。そしてタツミがどれほど無能で仕事できなくても捨てないと約束してくれた。タツミはもう絶対にクヅキを裏切ったりしないと心に決めた。
だから、なにがどうでもタツミは紋衣を持ってくることはできない。
タツミは指を広げて握らされていたペンをぽとりと落とした。
「俺、やらない、です」
震える声を押してはっきり言った。
「……断るのか」
ジベスが目を細める。
「工房長はいい部下を持って幸せだな」
その顔は救いようのないアホを憐れむようだった。
「地下へ連れていけ。この部屋を汚すとボスの機嫌が悪くなる」
まだ夜はとても長い。
***
クヅキは二階へ降りた。
もう朝も大概いい時間だ。今日も来ると言っていたタツミがまだ工房に現れない。
入り口の部屋ではライドウがいつも通り雑誌を読んでいる。
「ライドウ、タツミ来た?」
「は? タツミ?」
ライドウは例によって顔もあげず答える。
「まだ来てないだろ」
「そっか」
クヅキはなんとなく気になっている。
昨日無理矢理ジャムを頼んでしまって、タツミがへそを曲げたのではないかと思う。
「今日来るって言ったのに」
「ああ、言ってたな」
ライドウも覚えている。朝食を用意しておく約束だ。
だから来るならそんなに遅くはならないだろう。
「まぁでもあれじゃないか。来るつもりでも、急に風邪とか」
いや、タツミは風邪とか引かなそうだ、と思い直す。
「……拾い食いでもして腹壊して来られなくなったとか」
「ああ、うん」
ライドウの急病説にうなずきながらクヅキは思う。
クヅキの昨日の命令は「次来るときジャムを買ってこい」だった。今日という指定をしていないから、意趣返しのつもりで来るのをやめたのかもしれない。
「タツミにここの連絡先とか教えてないだろ、お前」
勤務予定もないので別に欠勤連絡の必要もない。特に用もないだろうと教えていない。
「……教えとけばよかった」
これでは具合が悪くて来ないのか、へそを曲げて来ないのか、分からない。
「なにを焦ってるんだかしらないが、ちっとは気長になれよ。タツミはタツミで頑張ってんだから。二三日様子を見て、それで来ないようなら探ればいい」
まさかライドウにジャムの命令のことをばらす訳にはいかない。
クヅキは落ち着かないまま曖昧にうなずいた。
いい加減ジャムが絡むと正気を失う癖を治さなければならない。クヅキもそう思ってはいる。
でもそれはとても難しいことだ。
「ああ、そういえば」
そう言ってライドウが雑誌から顔を上げる。
「例のロンザリのとこの
一昨日、昨日と紋衣のことでちょっと揉めた相手だ。
「うん。なんか分かった?」
「抗争相手はティストのところらしい」
ロンザリもティストも名の知れた一家ではあるものの、せいぜい中堅どころである。工房の脅威ではない。
「近々全面衝突するだろうって噂だ。それで後先構わなくなってるんだろう」
そんな状況で工房へちょっかいをかけてくる余裕はないだろう。
そう思うから、クヅキもライドウもさほど危険視していない。
その程度の認識だった。
「そっか。まぁでも、念のため少しだけ警戒度上げとくか。ライドウ、工房の防衛よろしく」
「ああ、分かった」
そんなこんなでとっくにタツミが拐われているとは、クヅキもライドウもまだまだ気づいていない。
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