25 タツミくん、ツラを貸す
クヅキは最後の針を刺して糸の始末をつけた。
表に返して出来栄えを確認。残る仕上げの魔導紋はさほど危険もない。だれかに任せればいいだろう。
隣ではタツミが変わらず布と針をにらんで手をのそのそ動かしている。
進捗は驚くほど遅いが、それでも着実に図柄を埋めている。心配はない。
クヅキはほぼ無意識に横の引き出しへ手を伸ばした。
引っ張り出してジャムの瓶を探る。
クヅキの手は空を掴んだ。
「……ああ。ない。んだった」
ライドウに取られてジャムを切らしたことを思い出す。
クヅキは疲れと空腹がジャムへの渇望に置き換わっている状態だ。満たされない甘味への欲求に足がばたばたと動く。
「クヅキさん?」
さすがにタツミもクヅキの様子に気づいて不審がる。
「いや。ジャム舐めたかったけど。ジャム無かった」
クヅキは動く足を抑えて精一杯取り繕う。
しかしその台詞でなにがどう取り繕えているのかは、分からない。
「……ジャム、好きなんですね」
「好き、っていうか。舐めたい」
タツミにクヅキの飢餓が理解できるはずもない。クヅキがちっちゃくため息をついた。
クヅキだってライドウがジャムを禁止する理由を頭では理解している。だから欲求を振り払うため大きく伸びをした。
「あ」
見上げた天井に明かりがこうこうと点いている。部屋が暗くなる前に点灯するようライドウが設定してくれているやつだ。
クヅキは慌てて窓を振り返った。夕日は沈んで残滓が空を紫に染めている。もう外は薄闇に包まれている。
「タツミ、もう日が暮れてるぞ」
「え?」
驚いてタツミも窓の外へ目をやる。
「あれ? もう?」
時間の経つのも忘れて作業をしていたらしい。
「すぐ真っ暗になる。早く帰ったほうがいいぞ、タツミ」
そう言うクヅキの顔をタツミは呆と見つめる。
首をかしげて見つめ返すクヅキにタツミは言った。
「あの。俺、その、家帰らないと、ダメですか?」
「は?」
続けるタツミの声は震えている。
「えと。隅っこでいいので、俺、泊まっちゃダメ、ですか?」
暗いのが怖いから、ではない。
急に家へ帰らなければいけないと思ったタツミの心が、軋んで上げた悲鳴だった。
タツミの居場所のないあの家へ帰りたくない。タツミの漏らした初めてのワガママ、だ。
クヅキは、タツミと外とをちらりと見て考える。
別にまだ危ないほど暗くはない。帰らないほうがいいほど遅い時間ではない。
タツミはクヅキに家の事情など話していないのだから、当然クヅキは知らなかった。
「ダメだ。ちゃんと家には帰れ」
タツミがびくりと首をすくめる。
突然泊まりたいなど、そんな勝手な願いが通るわけもないことはタツミも分かっている。
「……すみません。帰ります」
クヅキはいいことを思いついた。
「そうだ。タツミお前、明日って来るか?」
「ええと。来られます。来ますけど」
細くクヅキが笑う。
「じゃあタツミ。来るときジャム買ってきて」
「え」
タツミは冷たい水を浴びせられた気分だった。
クヅキはタツミにジャムを買ってこさせたくて家に帰れと言っている。そうタツミには思えた。
「でも。ライドウさんに怒られるんで、ジャム買ってくるのはムリ、です」
タツミは断る。
クヅキが顔を歪める。
「なんだ、それ。お前の雇い主はライドウなのか?」
「違い、ますけど。でも、ムリなものはムリ、です」
タツミはむきになって拒絶する。
クヅキもジャムのことで正気を失っていた。
目を細めてタツミをにらむ。
「それなら、じゃあ。命令だ、タツミ。次来るとき、ジャム買ってこい」
雇用主であるクヅキの命令には絶対的服従でもって従う。雇用契約の呪言が発動した。それが強制的にタツミを縛る。
ここで契約を振りかざすのか。そうまでしてタツミを家へ帰らせたいのか。
悲しみを感じつつ、タツミは契約に従ってうなずいた。
「分かりました。買ってきます。けど、ひとつだけ確認、しますけど」
タツミはクヅキを涙混じりの目でじとりとにらみ返す。
「それ、業務ですか?」
クヅキがたじろぐ。が、すぐに大きくうなずいた。
「業務です。ジャムがないと俺の仕事の効率が落ちるから、だから業務です」
言い放った。
タツミは仕方なく承諾する。帰るべく席を立って鞄を肩にかける。どうしても不機嫌で、その動きは乱暴だ。
ようやく我に返ったクヅキは、自分がやり過ぎたことに気づいた。
しかし、このまま放っておけば明日にはタツミがジャムを持ってきてくれる。そう思うために、取り消すという正常な判断もできない。
それでもかろうじて、出ていくタツミの背に声を掛けた。
「……タツミ。帰りが怖いなら、ライドウかモズクに門まで送らせる」
戸口をくぐるタツミが顔だけ振り返る。
「いえ。別に怖くないし。大丈夫です」
冷めた声で断った。
「あの、それじゃあ。お先に失礼します」
タツミは返事を待たずに部屋を飛び出した。
なぜだろう、とタツミは階段を降りながら考える。
なぜだかクヅキと険悪な感じで別れてしまった。
発端は、たぶんタツミが帰りたくないとワガママを言ったことだ。
言わなければよかったと後悔しても、もう遅い。
ともかくタツミは明日ジャムを買ってこなければいけない。ライドウは怒るだろうが、タツミにはどうしようもない。
ちゃんとジャムを買ってくれば、クヅキは明日もまた刺繍を教えてくれるだろうか。
タツミは自分が悪かったのだと責めていた。
しかし本当はジャムに固執したクヅキも悪い。
タツミがそう考えられるようになるにはまだまだ時間がかかるだろう。
二階へ降りたタツミは恐る恐る金庫室へ向かった。
やはり開いている扉からそっと覗き込む。
金庫室のヌシ、モズクは隅の椅子に座っていた。
硬質な色硝子のような瞳がタツミを捉える。
「ごいんごっと」
さすがにタツミもそれが自分のことらしいと分かる。でも、ちょっと意味が分からない。
そろそろと金庫室へ踏み込んだ。
「あの、モズクさん。交通費、お願いします」
今朝はうっかり忘れたが、門賃の領収証を昨日の帰り分は貰ってきている。
それを差し出すと、確認したモズクが引き出しからきっちり小銭を数えて出した。
「ん」
「あ、ありがとうございます」
モズクは無表情で、それ以上の会話がはずむ気配もない。
モズクがなにを考えているのかなど、タツミには分かりそうもなかった。
ある意味、この職場最大の謎だ。他の人も大概よく分からないが。
そそくさとタツミは金庫室を後にした。……いつかモズクとも仲良くなれるんだろうか。なれる気がしない。
モズクはタツミのことなどどうでもいいのではないだろうか。たぶんそうだ。
出口のライドウの部屋も今日は扉が開いていた。
なにげなく入ったタツミは、中央のソファでくつろぐライドウに気づいて驚いた。
いると思わず黙って入ってしまった。
「あ、すみません」
「お、タツミ。帰りか?」
読んでいた雑誌からライドウが顔をあげる。別に怒られはしないようだ。
「あ、はい」
よっこいせとライドウが立ち上がる。
「ちょうどいい。ちょっと待て、タツミ」
カウンターへ行ってがさごそとなにかをあさる。
「あの、ライドウさん」
「なんだ?」
下を向くライドウに声だけ掛けて、タツミはためらった。
なにか、いろいろ言いたい気はする。あるいは、言わなければいけない気もする。ジャムのこととか。
でも言葉にならない。
「……モズクさんて、魔獣なんですよね?」
結局別な話にごまかした。
「ああ、そうだ」
「でも、あんまり人間と変わらない、んですね。俺、始め人間と思いました」
「人型のときはな。でもあいつ、金属しか食べないぞ。よし、できた」
なにかを持ってライドウが戻ってくる。
「特に金が好物であそこに棲みつかれた。さてと、タツミ、利き手出せ」
金庫番の好物が金とか、なかなか聞き捨てならない情報だ。
しかしライドウが手を出せとせっついてくる。タツミは詳しく聞きそびれた。
おっかなびっくり右手を出す。
「ええと、なんですか?」
ライドウが術式を唱えながらタツミの中指に指輪をはめる。
少し大きかった指輪はしゅるりと縮んで指におさまった。
「え、え、なんですか?」
「ここの鍵だ。だいたいいつも開いてはいるけどな。念のためお前も持っとけ」
タツミはしげしげと指輪を見る。細い銀色の指輪で、まったく変わったところはない。とても鍵には見えない。
しかし鍵を預かるなど、これは重大だ。
「でも、あの、俺」
「お前以外が簡単に外すことはできないが、無くさないように気を付けろ。もっとも、鍵として使えるのもお前だけだから、盗られても関係ないが」
「俺、鍵、いいんですか?」
タツミなんかに鍵を持たせていいのか、という意味だ。
その意味を正確に汲みとってライドウはうなずいた。
「いい。お前はいつでも入ってきていい。持っとけ」
タツミはライドウに信用されたらしい。
クヅキに泊まることは禁止されたが、でもいざとなったらいつでも来られる場所になった、ということだ。
明日、ジャムを持ってきて、謝ってクヅキとの仲も修復しよう。単純なタツミはそう心に決めて、ジャムのことはライドウに隠すことにする。
「ほら、タツミ。遅くなる前に帰れ」
指輪を見つめて突っ立っているタツミをライドウが追いたてる。
「あ、すみません。それじゃあ、失礼します」
「おう。気をつけていけ。夕飯食べろよ」
タツミは開いたままの外への扉をくぐる。
それをライドウがもう一度呼び止めた。
「タツミ、明日も来るのか?」
「え、あ、はい。来ます」
振り返ったタツミはうなずいた。
ライドウが笑みを浮かべる。
「そうか。それならお前の朝食も用意しとくから、食べずに来い」
ライドウに見送られ、タツミは工房を出た。
細い階段を降りる。
家に帰りたくはない。でも、家にも帰れずさ迷うよりはましなのだ。文句など言えない。
黄昏時の空は美しい。対照的に明かりの少ない裏町は思っていたより薄暗い。
「あら。昨日の新人の」
下のパン屋の前に大家が立っていた。店先の飾りランプに灯をいれている。
仄かな明かりに照らされた美女の顔はいっそう妖しい。
「あ、こんばんは」
大家を無視する訳にはいかない。タツミは慌てて頭を下げた。
ふふ、と大家が忍び笑う。
「こんばんは。お帰りかしら?」
「あ、はい」
タツミは逃げたいが、どうしたら失礼にならないのだろう。
必死に頭を働かせるタツミのことを見透かしてか、大家は店の中から紙袋を取り出した。
「お腹、空いているでしょう? よければパンをお持ちになって」
深まる大家の笑み。
差し出されたそれにタツミの緊張が高まる。
ヤバいパンだ。ヤバいパンを大家がタツミに食べさせようとしている。
「あ、いえ、その、せっかく、ですけど。俺、お金、なくて、なので」
背中を汗が流れる。
「ふふ。いいの。これ、試作なのよ。差し上げるわ」
「え、や、その」
大家には間違っても失礼を働くな。パンを勧められたら笑顔で買え。そして捨てろ。
タツミはクヅキにそう言われている。
つまり、笑顔で受け取り食べずに捨てる、それがタツミのすべきことだ。
「あ、ありがとう、ございます」
なんとか笑顔を取り繕ってタツミは紙袋を受け取る。
ひきつった笑顔を見て大家は愉しそうだ。大家は全部分かった上でタツミをからかって遊んでいる。
大家に見送られ、タツミは暗い街を歩き出す。
タツミが最初の角を曲がるまで大家の視線は付きまとってきた。
それから逃れ、タツミはやっと息を吐く。
抱きかかえた紙袋はまだほんのりと暖かかった。
捨てなければいけないが。まさか店のそばでさっさと捨てたらまずいだろう。
ともかくどこかで夕飯を食べて腹を満たさないとパンの誘惑に負けそうだった。
裏町に街灯はない。そこそこ大きい通りであるのに、道端の家々がそれぞれ漏らす光にわずかに照らされているだけである。
足早に門へ向かおうとしたタツミは、急に行く手を男に立ち塞がれてぶつかりそうになった。
「あ、すみません」
慌てて避けようとしたタツミは、三人が至近で前を塞いでいることに気づく。三人ともタツミより大きい男だ。
あ、これ、ヤバい。
即座に後ろへ逃げようとするが、後をつけてきていた男にもう塞がれている。
四方を取り囲まれた。きっと強盗だ。
タツミは助けを求めて辺りへ視線を走らせる。
通行人、住人、なんだか分からないたむろする人。周りに人はいるのに、誰一人無視を決めこんで助けてくれそうにはない。裏町の彼らにとっては日常の風景だ。
「ぁの、俺、金、ないです、けど」
こうなってはムダな抵抗などせず財布を出そうと思う。しかし悲しいことに、タツミの財布など3000円も入っているかどうかだった。
それで勘弁してもらえるんだろうか。おとなしく出せばまさか命までは取られない、といいな。泣きたい。
「金はいい。ツラを貸せ」
「へ?」
ツラヲカセの意味が分からない。
横の男が立ち尽くすタツミの腕を乱暴に掴んできた。逃げようと腕を払うタツミの腹へ男が拳を叩き込む。
タツミは多少殴られ慣れている。とっさに力を入れて防御した。が、タツミの低い魔力と下手な操作では、強化の程度などたかが知れている。
あっさりと上回る力を叩き込まれて、タツミの手から紙袋が落ちる。
あまりの痛みに呻いてうずくまった。
「おとなしくしろ」
銃を突きつけられてタツミは固まる。
なにがなんだか分からない。
頭に袋を被せられ、タツミは捕まった。
そのまま車に乗せられて連れ去られる。
道端にひとつ落ちていた紙袋は、見ていた浮浪者が拾って持っていって、すぐに跡形もなくなった。
目隠しでタツミには自分がどこへ連れていかれるのかも分からない。痛む腹を押さえ、ひたすらちっちゃくなって震えることしかできない。
どれぐらい経ったのか、車を下ろされた。
両腕を押さえられてどこかへ連れ込まれる。
強引に座らされたのは、なんだか尻に柔らかいところで、ズボンの滑り具合からするに革張り。
袋が外される。
視界を確認したタツミは、びくりと震えた。
ギラつく部屋で強面の男らに囲まれソファに座らされている。
正面には、顔に傷のある男。
タツミには見覚えがある。今日、ヤクザの親分と一緒に来て金を出していた、男。
男が口元を歪めて笑う。
「ご足労いただき感謝する、タツミくん」
「……な、名前」
これは強盗なんかよりはるかにヤバいなにかが始まる。
タツミにもそれぐらいのことは、分かった。
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