僕について僕が知っているいくつかのこと

七つ味

僕はアイスコーヒーをドリップで頼んだ

 人生で何度目かの失恋は、僕たちが足繁く通ったこの喫茶店で丁重に行われた。外では春の冷たい雨が降っている。

 一年ほど付き合っていた女性といままでのことを懐かしむように語り合った。当然だが、これからのことは何一つ話さなかった。

 彼女が出て行った後、僕は彼女の言葉を反復する。

「彼女はもっと私のことを理解して欲しかったと言ったね」

「うん、言ったね」

「僕は彼女のことを十分に理解していた」

「和食が好き、チーズが苦手、ブランド品が苦手、スポーツ観戦が好き、映画は洋画を字幕で観る、エッセイをよく読んで、お酒が強い」

「待ち合わせの時間に厳しくて、朝につよい。僕が煙草を吸うとかんかんに怒る。誕生日に僕がプレゼントしたあまり高くない時計に喜んでくれた」

「まだ不十分だった?」

「そうかもしれない」

 僕は灰皿を手繰り寄せて、久しぶりの煙草に火をつけた。

「彼女は何を理解してほしかったのか?」

「分からないよ」

「別れるための言い訳で、他に好きな人ができたんじゃない?」

「将来のことかな」

「過去のことだね」

「本当は僕のことなんて最初から好きでもなかったのかも」

 横ではスーツの男性が額に汗を書いて、電話越しにペコペコしていた。

「そういえば、私の話聞いてるってよく言われたね」

「聞いていたさ」

「本当に?」

「どういう意味?」

「僕は本当に彼女の話を聞こうとしていたのかってことだよ」

「だから聞いていたさ」

「彼女が大学を卒業したら地元で働きたいって言ったことがあったよね」

 煙草の先が灰になって崩れた。

「そうだっけ?」

「とぼけてもダメだよ。僕は記憶力だけはいいんだ」

「君はなんて言った?」

「あまり覚えてないな」

「そうだろうね、適当にはぐらかして、そのままだっただろう」

「だから彼女は怒った?」

「いいや、何も言わないから怒りようもない」

「じゃああれでよかった筈だ」

「僕は本当にそう思ってる?」

「相手を怒らせるようなことは言わない、当たり前のことだろ」

「そうだね、思い返してみれば彼女と言い争ったことなんてない。一度もだ」

「僕は昔から周りの顔色ばかり窺ってきたんだ。人の気持ちぐらい簡単に理解できるさ」

「理解できるだけ。本当に人の気持ちを考えたことなんてない」

「そうなことはない」

「テキスト通りの対応でその場をやり過ごすのが得意なだけさ」

「でも。仮にもしそうでも、それで今までうまくやってきたんだ」

「そうかもしれない。でもそれを続けてていいのかな」

「何が言いたいんだよ」

「そうやって、他人を嫌って、自分に籠もって、それで誰かに愛されたいなんて都合がいいと思わない?」

「でもしょうがないだろ、僕が僕のままで受け入れられるなんて僕には思えない。自分の内側にあるものを外に出すなんて恐ろしいよ」

「僕も怖いさ。僕も君なんだから」

「そうだろ、自分の中の『フリーク』は死ぬまで隠し通さないといけない。多分みんなそうに違いない」

「でも、彼女は知って欲しかったんじゃないかな。たとえ嫌われようとも、僕に知って欲しかったんだ。そして君も」

「そうだろうか」

「もう僕は子供じゃないんだ。いつまでも自分の内側に籠ってるわけにはいかない」

「そんなのは分かってる。でも、人は変われないよ、僕は死ぬまで僕のままさ」

 それきり返答はなく、タバコの煙の向こうではアンティーク調の椅子が空席のまま、茜色の照明で艶めいている。

 流れていたジムノペディが静かに終わり、気がつけばその雨は止んでいた。大抵のことはこうやって過去の記憶になっていく。僕はどうしたらいいのか考えたけれど、頭の中で空き缶がカランコロンと転がるだけだった。

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