『Junasaid』

綾兎

【第一夜】 1. 死の残り香

飢えていた……

男は、飢えていた。


言い様の無い虚しさと渇きを抱えたまま、

男は、早朝の繁華街をふらついていた。


賑わいは消え……

赤やピンクの照明に照らされた深夜の妖しさも消え…………

正常な空気を取り戻した早朝の、その街は、いっそ不気味な程の静寂に包まれていた。


終電間際ですら、あれ程、人で溢れかえっているというのに、早朝ともなれば、人っ子一人、通りやしない。

まるで、この世界から人が居なくなったかの如く、深夜を徘徊する宛てのない人々は鳴りをひそめていた。


散々、飲み歩き、遊び歩いたというのに、男の飢えや渇きを満たしてくれるものは何も無かった。

最近、見付けた……あの『行為』以外には…………。


(ダメだ……、

あれだけは駄目だ…………)


地の底を這うようなていたらくぶりを踏まえても尚、かろうじて『人間』であろうとする己の不様さに泣ける。

いまさら、真っ当な人間になど成れるものか……。

込み上げる失笑と、にじむ涙を抑え、男は覚束無おぼつかない足取りでを進める。


どうやら、昨夜のアルコールが、まだ抜けてはいないらしい。


蟒蛇うわばみでもないくせに、我を忘れる為に無理矢理、腹に流し込んだアルコールのたばが、今尚いまなお、男の体にまとわりつき、抜けない。

全身に蜘蛛の糸でも絡んだかのように、おのが肉体すら、ままならぬまま、よろよろと、また歩き出す。




ガンガン、ズキズキと……

岩で殴り付けられたかのように痛む頭を抱えながら、朦朧もうろうと意識を手離しかける。



ズルリ………ッ


転ぶ、一歩手前で踏みとどまり、足元を確認するよりも前に、えた臭いが、男の鼻腔びこうつんざく。

覚えのある……独特な、あの嫌な臭いだった。


「……クソッ!!

チクショウが………ッ!!」


残されて、それほど時間は経っていないのか……

マナーの悪い酔っ払いの吐瀉物としゃぶつを踏みつけてしまったようだ。


生乾きの吐瀉物としゃぶつは、渇いた表面ががれ、中から言い様の無い、吐き気のする臭いが立ち込める。


普段なら、そんなものを踏みつけるような間抜けな真似はしないが、吐き気と頭痛にさいなまれ、男の自慢の嗅覚を鈍らせたらしい。

数歩、よろよろと歩いた後、男もまた、胃の内容物を吐き出してしまった。



……と言っても、空腹時に、無理矢理、アルコールを胃に流し込んだようなものだから、ほとんど、固形物は無く、アルコールと男の胃酸のみがドロドロと溶け合っていた。

血でも、混ざっているのか、少し赤みがかったドロドロを眺めていると、あの『たのしみ』を思い出す。


そんな自分に嫌気がさして、目を逸らすと、綺麗な空色のワンピースが目に入った。


空のような鮮やかな青に、舞い散る小花柄…………

どうやら、自分は若い女性の洋品店の前で粗相そそうをしてしまったらしい。

わざとではないとはいえ、およそ自分に似つかわしくない場所にて『マーキング』をしてしまったものだと思う。


もう少し時間が経って、若い店員が店を開ける際、自分の粗相そそうによって気分を害するであろう事を思うと、何故だか、にへらっとダラシのない不気味な笑みを浮かべてしまう。



「ゴメンよ…………」


ほとんど、謝意のこもらぬ渇いた言葉を吐き捨てて、洋品店の鮮やかなオレンジ色の壁に触れる。

木製のその壁は、普段、自分が触れる事のない程、ツルツルとなめらかで、上品な触り心地だった。




カツカツカツ………



石畳の上を足早に歩くハイヒールの音に気付き、顔を上げると、洋品店の角から突然、若い女が現れた。


黒いスーツを身にまとった女で、通常の通勤時間よりも少し早く、人通りの少ない時だったからか、女は男に気付くと、一瞬、ビクッとする。


……が、足元の吐瀉物としゃぶつを見やり、あからさまに嫌そうな、まるで、汚物を見るような眼差しで男に非難の目を向けると、そのまま無視して男の脇を通り抜けてしまった。

男の事になど、構ってはいられぬという風に。


そうして、上品で美しい石畳の通路から、男が通って来た、すすけた裏道の方へと通り抜けて行く。


表通りよりは、少し狭く、薄暗い道ではあるが、駅へは最短で着ける道。

随分と土地勘のある女のようだ。



「……この香り………」



女の通った道の残り香に、すんっと鼻をうごめかせる。


途端に、先ほどまで男をさいなんでいた頭が割れんばかりの痛みや、吐き気がおさまった。

そうして、アルコールでまぎらわせていた『あの衝動』が甦ってきた。



その香りは、男の渇いた心をさそった。


擦れ違い様に流れた、甘い香りと黒髪にいざなわれた。


鼻腔びこうくすぐる甘やかな花の香りと……わずかに湿った髪の香りが入り交ざり…… 男に再び、原始的な高揚をもたらす。


男は、先ほど通って来た道へと引き返し、女の後を追う。


横を擦れ違っただけだが、嗅覚に優れた男にとって………

その香りは、女が男の身にまとわりつき、誘うように残した香りのように感ぜられてならない。

まるで、愛撫あいぶをねだる猫のように……。



(……あの女……

見下した目をしやがって………)



苛立ちと、衝動がない交ぜになり、高揚は男の意識から混濁を取り去る。


妙に、頭は冴えていた。


足元のふらつきは無くなり、野生動物さながらの俊敏ささえ身に付けた気がした。


朝陽あさひす表通りから、暗がりのある裏道へと戻る。



そうして、女の背を視認すると、息も荒く、野犬のように飛びかかった。


「あっ」という声を上げる間もない程、一瞬ののちに女の喉笛のどぶえは噛み砕かれる。



自分の身に何が起こったのかを理解する間もないまま………


女は、乱れた黒髪を風に散らしながら、冷やかなアスファルトの上に突っ伏した。

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