女の扇

さいとういつき

女の扇

 ぽつりぽつりと、雨が降り出す。空を見上げると、朝は晴れていたのが、すっかり雲に覆われていた。

 ついてないな。ため息をこぼしてサザメは歩みを早める。住宅街にはコンビニなどもないし、あと10分も歩けば自宅に着くのだ。マフラーをぐっと口元まで引き上げて、両手をコートのポケットに突っ込みながら家路を急いだ。

 民家が立ち並ぶ道に人気はない。ところどころに託児所や開業医らしき小児クリニックがあるが、子供の声もなければ、誰かが生活している気配もなかった。

 坂道をくだって暖簾を出した割烹の店の前を通り過ぎ、車通りの多い大通りに出る。そのころには雨足は強くなっており、ダッフルコートの表面もしっとりとしめっていた。髪なども湿気で跳ねるのを諦めたように重たくなっている。

 緩やかな上り坂のうえをめざしながら高架橋の下に差しかかると、ちょうど電車が頭上を走り抜けて、騒音が耳の奥をかき乱す。顔をしかめると視界が狭まり、薄暗い風景にさらに影が差した。耳鳴りがして目の前がゆがむ。大きな音は昔から苦手だった。

 サザメがまだ10にもならないころ、スイッチを入れると耳慣れない音楽とともに踊る和装の女の人形をもらったことがある。あれが恐ろしくて、2つ年上の兄に頼んでどこか遠くへやってもらった。

 雨の降りかからない高架下で耳をふさいで立ち止まる。やがて電車が通り抜けたころ、どこかで人の声がした気がした。トラックの走り去る音と排気の悪臭のなかでも、不思議と聞こえる涼しげな声で、ヤヒロさん、と呼ぶのだ。

 ちがうよ、それはおれじゃない。教えようにも声がでなかった。振り向くと、幅を広くとった道路ではなく、草原のなかに幅広の川が横たわっている景色が広がっていた。川の手前には柳の木が一本生えていて、そのしたに着物姿の淑やかな女が腰を据えている。ヤヒロさん。呼んだのは女だった。ゆるりゆるりと手招きをして、サザメのことを引き寄せている。

 雨は降っていなかった。踏み出すと、新緑色の下草がさらりと音を立てて首を折る。ところどころには色とりどりの小さな花が咲いていて、差し込む日差しは心地よくぬくとかった。

「ここはどこ?」

 黒髪を簪で綺麗にまとめあげた姿の女の前に立ち止まったサザメが、かすれた声で尋ねる。女はくすくすと笑った。

「いやですわ、ヤヒロさん。忘れてしまったの?」

「それはおれじゃないよ」

 着物の袖を色のいい口元に添えて笑う女に、サザメは今度こそ伝える。しかし彼女は、ゆるく首を左右に振った。

「あなたでなくて、だれがヤヒロさんだというんですの?」

「ヤヒロはおれの兄で、おれじゃない」

 あら。女が首をかしげる。

「私、勘違いしていたのかしら。不思議ねぇ」

 牡丹の鮮やかな着物姿の彼女は、片手をひらりと返して、お座りなさいなと言う。

 サザメは躊躇いながも女の正面に腰を下ろすと、ようやく、彼女の目が1つ多いことに気が付いた。左の頬に1つ余分なまぶたがあって、それが見開かれて真っ青な眼球をのぞかせている。

 女の手元には紅漆の盆に乗せられたお猪口と徳利があり、彼女は怪訝な顔をするサザメに構わずに酒を注いだ。

「ほら、お飲みになって」

「おれ、未成年なんで」

「構うことはないわ、歓迎の杯よ」

 差し出すお猪口を受け取らないように手を膝のうえに乗せたまま、サザメは首を左右に振る。

 次に女が差し出したのは、菊と牡丹のねりきりだった。気づけば酒の消えた盆のうえに乗せられていて、それをすぅっと差し出すのだ。

「せめて少しだけでも受け取って」

「甘いものは苦手で」

 断りながら、女の顔色をうかがう。真っ白な肌のなかで、2つの目がまばたきをしても、頬にある目だけはずっと見開かれたままだった。

 女が茶菓をおろす。その手が次にとらえたのは、サザメの左頬であった。

 指先は死人のように温度がない。鳥肌が立って身じろぐと、女はやさしげに笑う。

「ヤヒロさん、教えていただけないかしら。私の扇はどこ?」

「おれはヤヒロじゃない」

「きっとどこかに隠しておいでなのでしょう?」

 頬を撫でられるうちに、目の前が霞んでいった。鼻先を甘い花の香りがかすめ、次第に眠気が増してゆく。

 サザメは頬に触れる女の手首をぐっとつかんだ。途端に、からだが女のほうへと引っ張られる。引き倒されると身構えるころには、目の前が暗くなっていた。



 気がつくと、自宅のベッドに寝ていた。カーテンの引かれた窓のそとも暗くなっており、明かりを灯していない自室は暗がりになっていた。

 半身を起してあたりを見回す。ベランダへ続く窓際にある勉強机も、東向きの窓にそうようにして置いた本棚も、普段から見慣れた部屋であった。ベッドから抜け出してフローリングの床に素足をつく。そういえば服はジャージに着替えてあって、着ていたコートもマフラーもここにはなかった。

 ドアをあけると人気のない廊下があって、突き当たりのリビングにだけ明かりがあった。なかをのぞくと、テレビの前のソファに腰かけて雑誌をめくるヤヒロがいた。クーラーで温めた室内にいても膝にはブランケットをかけている姿は、寒がりな兄らしい。

「起きたのかい」

 雑誌をセンターテーブルに置いてヤヒロがサザメを見やる。

 いやな夢を見た。サザメはそれだけ言って、誰もいない4人掛けのテーブルへ向かう。机上には水差しがあって、白い清潔な布巾のうえにはガラスのコップがいくつか伏せてある。

 グラスいっぱいに注いだ水を一気に飲み干して、サザメはため息をこぼした。

「帰ったときのこと、覚えていないんだ」

「高架橋の下で倒れていたんだよ。通りかかったのがぼくでなければ、いまごろは病院にいたね」

 コートは干してあるよ。ヤヒロがちらりと窓辺へ視線を投げる。ハンガーにかかったダッフルコートが、間近にあるクーラーの送風を受けて少しだけ揺れていた。

 グラスを机上に残して、サザメはヤヒロの隣へ移る。テーブルにある雑誌は、サザメにはよくわからない専門誌に見えた。それから見えたのは、ヤヒロのすぐ隣に置いてある古い木箱だ。高さは40センチから50センチほどで、奥行きもそれなりにある。

「ねぇ、それ」

「覚えてないか? おまえがまだ5つか6つのころに、沢向こうの叔父がくれた人形だよ。音がするからって怖がって、ぼくに預けたんじゃないか」

「中身、見ていい?」

「いいけど、怖がるなよ?」

 ヤヒロはからかうように言うと、雑誌をどけて木箱をセンターテーブルに置く。正面の部分を上部に引き上げて開ける箱だった。

 なかには、真っ赤な地に牡丹の柄の入った着物姿の女の人形があった。白い顔にうっすらと笑みを浮かべ、しなりのある姿勢を見せている。その足元には、立派な金色の扇が2つ落ちていた。

「傷があるな」

 ヤヒロが言った。

 扇に目を奪われていて気付かなかったが、よく見ると、確かに左頬のあたりに横向きの筋が入っているのがわかる。桐の箱だから虫が入ったとも思えないようで、ヤヒロは首をかしげた。

「なににやられたんだろうな。なあ、サザメ」

「わからないよ。おれがこれ見たの、ずっと前だし」

 そうか。ヤヒロが木箱を閉じる。

「これ、どうするんだ?」

「明日にでも神社に持っていくよ。もうそろそろ、そういう時期かと思ってさ。それが終わったらまた帰るよ、やることを残してきたんだ」

 ヤヒロが意味ありげに笑う。今年の春から大学へ進学して一人暮らしを始めた彼は、どうもそこで性分にあうことを見つけたらしく、ずいぶんと上機嫌なのである。この家に帰っても、それがなんなのかは語ろうとしないが、サザメにはこの兄がうらやましく見えてならなかった。

「つぎはいつ戻るんだ?」

「さあ。また時間をみつけてここに来るよ」

 曖昧に答えて、ヤヒロはすっくと立ち上がる。

「風呂でもいれてくるよ。冷えてるだろう?」

 ブランケットを寄越したヤヒロがリビングを出ていくのを見守り、サザメはまた木箱を開けた。扇を指先でつまんで、女の手元に添えてやる。どうにかして差し込むなり乗せるなりするのだと思ったが、不思議と扇は人形の手に吸い付いて、もう落ちようとはしなかった。

 そのまま木箱を閉じようとしたが、ふと女の顔に目がいった。左頬の傷から、つぅっと透明な液体が流れ落ちる。それは見開かれた真っ青な目から涙を流すようでもあり、サザメはさっと目をそらした。

 木箱を閉じてブランケットを肩にかける。両足をソファのうえに引き上げて、兄の戻るのを静かに待った。

 外からは、強い雨音がずっと続いている。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

女の扇 さいとういつき @copyJackal

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ