三雲屋緞子

ベランダ

「こんにちは」

 午過ぎになると極って左隣のおばあさんがベランダを訪ねてくる。

「こんにちは」

 私たちはおばあさんに挨拶をして、遅い昼食の用意を続ける。おばあさんはもう一度、丁寧に腰を折ってから、私たちの洗濯物を取り込みにかかる。

コンロにガスボンベを押し込みながら、父が嬉しそうに言う。

「今日は焼肉だ。いい肉が手に入った」

「ねえ、お皿を持ってきて。お箸もお願い」

デッキチェアを並べ、食卓を整えることに余念のない母が私に指示する。ぼんやり返事だけ置き去りにして台所に向かう。

 おばあさんは私のシーツを畳んでいる。

皿はこれだろう。妹の箸が見当たらない。

「おかあさあん、箸が足りないよう」

「朝ごはん食べなかったから、こっちにあるのよ」

何だ。最初から言っておいてくれればいいのに。

 おばあさんは父のパンツを畳んでいる。

ちょっとぷりぷりしながら戻ると、くだんの妹が目を擦りこすり、卓につくところ。ちょっとは手伝えっていうのに。

「お茶の用意がまだ。取ってきてよ」

「ええ、おねえちゃんのほうが冷蔵庫近いじゃない」

「ほんと、ぐうたらだね」

やれやれだ。吐き捨ててみると少しすっきりした。

 おばあさんはタオルを畳み終え、積み上げた角をそろえた。ベランダを陳列棚にしてしまうと、おばあさんはゆるゆると動き始める。

お昼ごはんの準備ができた。私たちは母の号令じみた呼びかけで席に着く。

「いただきます」

 おばあさんは自分のソファと洗濯物の間をゆっくりと往復する。

タレをつけすぎていると妹が母に叱られる。

 おばあさんは自分のソファと洗濯物の間をゆっくりと往復する。

父が肉を食べる番だと言ってわたしにトングが回ってくる。

 おばあさんは自分のソファと洗濯物の間をゆっくりと往復する。

「ベランダがさ、」私はそっと父に耳打ちする。

「いつか台所にくっつくよ」

「なにも悪さはしない」

「引っ越さないの」

「家賃が1万4千円なんだもの、仕方ないよ」

「右のお隣さんはこっちへはこないじゃない」

「向こうはベランダがわからないのだよ」

そう言われると返す言葉がない。妹の箸が茶碗に弾いて軽い音を立てる。

ベランダがわるいのだと思う。おばあさんはベランダしか歩かれないから。

ベランダがあっちを向いてくれたらいいのになあ。



おばあさんがデッキチェアの前に立っていた。

「こんにちは」

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三雲屋緞子 @mikumoyamikumo

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