引きこもり女子と猫殺し
タマ木ハマキ
第1話 生徒相談室
デスクの椅子に深々と座り、俺はエラリー・クイーンのオランダ靴の秘密を読んでいた。この本を読むのはこれで三度目であった。
遠くの方から、かすかに吹奏楽部の“味のある”演奏が聞こえている。今流行りの数年後には忘れ去られるドラマの曲である。後ろの窓から聞こえてくるのは、運動部のかけ声だった。威勢と逞しさがあるうるさい声だった。
つまるところ、読書には不向きな環境であった。
だが文句を言うつもりはもちろんない。彼らに罪があるはずもないし、むしろ読書よりも健全なことだった。読書なんてクソの役にも立たない。
俺は右手で本を開きながら、左手で机に置いてある缶コーヒーを掴んだ。ラベルに目を落としてみると、コクのある味わいと書いてあった。俺はそうとは思えなかった。
一口啜り、探偵エラリー・クイーンのセリフに目を向けていると、扉が開いた。
客人は誰だろうか?
と、俺は顔を上げる前に少し考えてみた。扉を開ける前にノックはなかった。ということは客は生徒ではなく、教師だろう。教師は生徒に礼儀を払わない。
顔を上げてみると、やはり教師だった。確か、一年何組かの担任をしている数学の青野なんとかだった。
青野はふちのない“年寄りくさい”メガネをして、髪は目元にかかるくらいの長さだった。目は大きく、口元には青ヒゲがある。夕陽にあたり余計目立っているようだ。
膝の高さまである白衣を着ており、ボタンは全て閉じていた。なにからなにまで面白みにかける男だった。
「
俺は本を閉じると机にほうった。「ええ、もちろん。どうぞおかけください」
「ありがとう」
青野はデスクの前にある“依頼者用”の椅子に座ると、机にある小説に目を向けた。他人の子供を眺めているかのように興味のない様子だった。青野は俺に視線を向けた。彼はどうしましたと言って欲しそうだった。
俺は缶コーヒーを一口飲むと、それを机に置いた。缶コーヒーはこちらに顔を向け、まだコクのある味わいと訴えかけていた。
「それで、先生がどういったご要件で?」と俺は言った。
「大丈夫、私事ではないんだ。ある生徒のことでね」
「生徒?」と俺は相槌を打った。
「うん、実はね」青野は椅子に座り直すと、「ぼくが受け持っているクラスの、とある女子生徒のことなんだが、困ったことに現在不登校でね。また学校に来れるように、支援してやって欲しんだ」
「ふうん……、なるほど。先生のクラスということは、一年ですよね?」
「そうだ」
「なら二年の俺より、クラスメイトに頼んだほうがいいのでは?」
「そ、それもそうだが……、君は“生徒相談委員”だろ? 不登校の生徒の相談に乗るのも仕事じゃないのか?」と青野は責め立てるように言った。
思わず笑みを漏らしそうになり、表情に力を入れ堪える。
「なるほど、それもそうですね」と俺は言っておいた。
青野はもっともらしいことを言った気でいるが、真相は教師としての人望がないので、生徒に頼むことができないのだろう。学校では、人気のない教師は教師として見てもらえない。教師なんて営業職みたいなものだ。
「では、先生はなにもしないのですか」
「いや、ぼくもできうることはしているんだ。でも、こういうのは生徒同士のほうがいいと思ってね」
今度は我慢できず、嘲笑するように口元が緩んでしまった。
「ん? どうしたんだ」
「いえ、なんでもありませんよ」と俺は言った。
生徒同士のほうがいい。
そんなものは口実である。ようは面倒だということだ。だからこうして俺に押し付けてきたのだ。おおよそ、校長あたりに言われて仕方なく動いているのだろう。
だが確かに、不登校の問題を解決したからといって、特別、手当も出ないのだ。気持ちは解る。かたや俺の方はといえば、これで教師からの心象も良くなり、委員会もしっかりとこなしているため内申も上がるのだ。気持ちは解る。
「どうだろう? 引き受けてくれるか?」と青野は言った。
俺は返事をすることなく椅子から立ち上がると、後ろの窓に近づき景色を眺めた。グランドでは運動部たちが汗を流し、声を上げていた。一銭にもならないのに、みな良い笑顔をしている。それは見習うべきことだった。青野教諭も、俺も。
俺は振り返ると言った。「わかりました。引き受けます」
「よ、良かった……」
青野はほっとため息をつくと、笑みを浮かべた。大袈裟すぎる反応だった。もし俺が断っていれば、どうしていたのだろうか。
「では、その生徒のことを教えてもらえませんか」
「ああ、もちろん! 名前は
「不登校の原因はなんです」と俺は椅子に座ると言った。
「確かなことは言えないから、本人に聞いてくれ」
「いじめではないのですね?」
「おそらく」
なんとも頼りない言葉だった。
「不登校になる前は、ちゃんと学校に来ていましたか」
「来ていたよ。真面目な子だったからね」
「では、その生徒の住所を教えてください」
「ああ、住所は──」
俺はスマートフォンを取り出すと、打ち込んでいった。電車も含めればここから三十分ほどのところだった。
打ち込んだ内容を読み上げ間違がないことを確認すると、スマートフォンをしまった。
「では頼んだからね」
青野はそう言うと、よいしょと声に出し立ち上がった。憑き物が取れたような顔をしていた。扉に向かっていく足取りも、とても軽かった。これで問題は解決したと思っているらしい。その様子は、まるでお賽銭を入れ恋の相談をしにきた少女のようだった。
机に置いてある缶コーヒーを飲みきると、足元に置いてある空き缶用のゴミ箱に捨てた。あと二、三缶捨てれば溢れてしまいそうだった。そろそろ処理しなくてはならない。
俺はカバンを持ち立ち上がると、部屋を出た。扉を閉めると、ポケットからカギを取り出し閉めた。
扉の上には、『生徒相談室』と書かれたプレートが貼られていた。比較的新しく、光沢があった。
ポケットにカギをしまい、すっかり黄昏に染まった廊下を歩いていく。俺の影は、身長よりも二十センチほど伸びていた。
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