僕の犬

イネ

第1話

 甥っ子のジェシーはずいぶんと口が達者だ。まだ4才になったばかりのはずだが、まるで大人と変わらない口調は僕の兄にそっくりで、正直、めんどくさい。

「つまり叔父さんは、僕のパパとママが嫌いなんだよね? そうでなきゃ、どうしていつもパパとママが留守のときにばかり訪ねて来るのさ」

 下手な答え方をすると、ジェシーはおもしろくない。叔父さんは本当は泥棒なんじゃないか、それともボクを誘拐するつもりなのか、身分証を見せろ、地球人であることを今すぐ証明しろと、しつこくやってくる。

「ジェシー、ジェシー。今夜パパとママはデートなんだよ。映画を見て、それからレストランで食事する。僕は子守りじゃないか」

「コモリって?」

「子守りってのは、まぁ、遊び相手のことだ。一緒にテレビを見たり、クレヨンの味見をしたり、庭を掘り起こしたり・・・」

「違います!」

 ジェシーは両腕を力一杯、突き上げた。興奮すると叫ぶだけでは足りなくて、タケノコのようなポーズをする。

「コモリはパパの代わりのことです。叔父さんは今夜、ボクのパパをやるんだよ。でもママの代わりはできないね。だってママは世界に一人しかいないんだから」

 母親の柔らかさを思い出したのだろうか、ジェシーは「うふふ」と頬を赤らめた。

 不思議なことに、僕もなぜだか子供の頃は同じように感じていた。父親はいてもいなくても、誰でもよかったが、でも母親は、世界にたった一人しかいなかった。

 僕があきれて笑い出すと、ジェシーはそろそろ「本題」に入りたがって、デレデレと僕の首に巻きついてきた。

「あのね、ママがね、昨日も叔父さんの悪口を言ったよ」

「そうかい」

「うん。叔父さんはザンネンなんだって。はやく結婚して家族を持たなくちゃ、セキニンあるコウフクを学ばなくちゃって」


 最近、ジェシーとの会話はいつもこれだった。出世したいなら結婚はしておくべきだとか、デートぐらい試してみるべきだとか、30にもなって情けないだとか、そんなことを兄夫婦が話すたび、この賢い子供はじっと耳をすまして聞いているのだ。おかげで僕は、子守りの日となるとこの甥っ子から、うんざりするほど小言を言われなくちゃならない。

「叔父さんはまだ気付いてないようだけど。あと数年で、コドクが身に染みるようになるんだって」

「ああ、勘弁してくれよ、ジェシー」

 僕は半分、本気でなげいた。

「デートだなんてそんな恐ろしいこと、まったくする気になれないね」

「なぜ?」

「なぜって、決まってるだろう。口が臭くなるからさ。30才を過ぎるとある日とつぜん悪臭を放つようになる。ご婦人方は僕がハローって言っただけで泡を吹いて死ぬだろう? そしたら僕は殺人罪だ。刑務所行きだよ」

 ジェシーは「おぇっ、げぇぇ」と奇声を発し、タケノコポーズを連発した。

「口だけじゃない、体中、全部さ。足なんて最悪だよ。靴も靴下も、足跡さえも匂うんだからね。結婚だって? 誰かと一緒に暮らすだって? 冗談じゃない。ずっと一人で過ごすんだ。誕生日もクリスマスもね。あいさつもハグもキスもしなくてすむだろう。僕はね、この年になって家族も恋人もいなくて、本当によかったと思っているんだよ」

 子供相手にそう言い放って、僕は妙なため息をついた。実際、それが僕の本音なんだろうと思う。家庭を持つ兄がうらやましいなんて感じたことは一度もないし、自分たちと同じ血がいくらかは流れる甥っ子が、目に入れても痛くないほどかわいいだなんて言うつもりもない。そもそも孤独を恐れることのほうが不健全じゃなかろうか、とさえ思う。人間ってのはもともと、どこからか一人でやって来て、どうせまた、一人で去ってゆくのだ。

「なぁ、そうだろう、ジェシー?」

 ジェシーはもうニヤリともせず、まっすぐに僕を見据えていた。タケノコポーズを封印して、いよいよ「本題」に入るのである。

「叔父さんは、犬を飼うべきだね」


 いつか兄貴は腹を抱えて笑っていた。ジェシーの話術にはまって僕は、危うくバカ高い犬を購入させられそうになったことがあったのだ。

「うちは共働きだから犬は飼えないって言ったのさ。それでジェシーは、今度はおまえに取り入るつもりなんだ。なかなか賢いね」

 セキニンあるコウフクを学ぶなら叔父さんはまず犬を飼わなきゃ、というのはもっともだが、ジェシーは本当は自分が犬を欲しくてたまらないのである。

「ボク毎日、叔父さんのアパートへ行って犬の世話をしてあげようかな」

 宙をさまよう両手でその抱き心地を想像しているらしく、ジェシーの胸のあたりにぽっかりと中型犬ほどの空間ができている。

「どんな犬でも叔父さんの気に入るのがいちばんだよ。ちっぽけなやつでもいいのさ。あったかくてふわふわなら、それだけでシアワセだものね。でも猫じゃだめだ」

 それからジェシーは、まずはドッグフードを買いに行かないかと提案した。安売りのときに必要な物を買い置きしておけば、人生のたいがいの不安は解消されるのだという。

「そんな単純じゃないさ」

 僕は素っ気なく言った。もちろんこの答えはジェシーの気に入るものじゃない。なんとしてでも犬を飼わせなければと、最近のジェシーは変な接続詞を多用する。

 そうだね、だからさ、というわけで、つまりね、そういえば、ああ、そうそう、ていうか、叔父さんは犬を飼うべきだねーー。

 そうして再び、犬というのがどんなに愛らしい生き物であるか、どんなに賢く、どんなに人生を変えてくれるものであるかをたっぷりと説明し、また、叔父さん一人の負担にならないように自分はこれだけ協力するつもりでいるのだとか、あるいは、施設には飼い主に捨てられたり、車に引かれたりしたかわいそうな犬がたくさんいるのだと、涙ながらに訴えることもする。

「それに」

 胸元に抱いていたはずの中型犬をほっぽりだして、ジェシーはヒステリックに叫んだ。

「犬は臭いのが大好きなんだよぉ!」


 19時きっかりには僕らは、素晴らしい冷凍ディナーを用意してテレビの前に陣取った。アニメを見ながら食事するのはジェシーにとっては特別なことで、普段ならそんなことは絶対に許されない。スポンジボブの登場とともに、勢いあまってミートボールなんかぐちゃぐちゃに握りつぶしてしまうし、フライドポテトは1本ずついちいちジェット飛行で口に入らなければならない。苦手なニンジンは地雷として処理される。

「オレンジ色のものは爆発するから触っちゃいけないんだよ。あとで安全にゴミ箱へ捨てること。叔父さんが食べるならそれでもいいけど」

 そして最後には、自分たちはもうゾンビになってしまったのだからと言って、テーブルも床も、服も顔も全部、ケチャップで血まみれにしてしまう。救いは、後片付けまでは子守りの仕事には含まれていない、ということだった。その先にある、セキニンあるコウフクを、僕はまだ知らない。

 食事を終えテレビを消すと僕らは、ケチャップ島から追いやられるように寝室へと逃げ込んだ。ジェシーはあきらめの悪い兵士のように、最後の力をふりしぼって僕に「絵本を読め!」と挑んだが、もうそれまでだった。最初のページを開きもしないうちから、視線はどこか別の場所を夢見てさまよいはじめ、やがてミイラのような安らかな姿勢に落ち着くと、目をうすく開けたまま、すーすーと寝息を立てた。


 自分のアパートに戻ったとき、僕の疲れもそうとうなものだった。肩からカバンを下ろすことさえおっくうで、ソファに座ることもまだしたくなかった。

 僕は意味もなく部屋の真ん中に立ち尽くし、誰もいない空間を見やった。テーブルには、昼に食べたパンの残りがそのまんま乗っかっているし、ベッドも飛び起きたときの形でかたまっている。あの枕のへこみは紛れもなく自分の頭蓋骨の形なのだと思うと、僕はようやくほっとして、腰をおろした。

 誰かに見られているような気がしたのはそのときだった。もう一度ベッドへ視線をやると、そこに一匹の犬がいた。灰色の犬だ。

 そういえば、今朝もそのようなことをちらっと考えたかも知れない。へこんだ枕に寄り掛かるようにして、ブランケットの端と端とが変にとんがって折れ曲がっていて、今は部屋の明かりが暗いせいもあるだろうか、その様子が、なんと言うか、まるで本物の犬がこっちを向いて行儀よく寝そべっているように見えるのである。僕は思わず声を出して笑った。意地の悪い想像だが、今この場にジェシーがいたら、きっと本物と見間違えて大騒ぎしてくれるに違いないと思ったのだ。

 僕はその犬を眺めながらパンをかじった。ときどきキッチンへ立って水を飲んで、戻ってくるとまたパンをかじって、犬を眺めた。丈夫そうなアゴやたるんだ頬など、どこか最近の兄貴に似ていなくもないな、なんて考えると、それもまたおかしくてしかたなかった。

 翌朝、目を覚ますと僕の犬は消えていた。玄関を出るときにもう一度ふりかえってみたけれど、枕が不恰好にへこんでいるだけで、間違いなく、そこに犬はいないのだった。

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