マーガレットの花束
Kanako
プロローグ
「いいね、そのまま…集中して」
薄暗い部屋の中に落ち着いた声が響いた。
窓際に置かれたテーブルの上には年季の入った魔導書が広げられ、傍らの羊皮紙の上を羽根ペンがゆっくりと滑っていく。
「……あ」
ぴた、と羽根ペンの動きが止まる。インクが切れたのだ。
「大丈夫。次はインク壺の方向を意識ね」
「はい…」
ペンがふわりと紙を離れてインク壺に向かう。
と、ペン先が壺の口に入ろうとしたその時、容器が傾いて中のインクが溢れ出た。
「うわっ」
悲鳴に似た声が出て、黒く染まっていくテーブルの上から魔導書と紙を慌てて持ち上げる。幸い、汚れずに済んだようだ。
「惜しい惜しい! 今のは壺に意識を向けすぎたね。それでペンの軌道が歪んだんだ。」
ひょいとインク壺を起こして銀髪の青年が言う。そして人差し指をすいと振ると、何処からか布が現れてテーブルの上をあっという間にきれいにしてしまった。
「はぁ…また失敗…」
きれいになったテーブルに物を戻しながら少女はため息とともにがっくりと肩を落とした。
「これで84回目…」
「数えてるんだ…でも、だいぶ上手になってきたよ。もうすぐできるようになるさ。」
「むう…」
慌てたはずみで床に落としてしまった羽根ペンを拾いながら、そのペン先をじっと睨む。
いま少女が練習しているのは、「速記魔法」と呼ばれるものだ。羽根ペンを自在に操って紙に記録するという初歩的な魔法で、上手く使えるようになれば手で書くよりずっと速く書くことができる。
「だってお師匠さまは、わたしと同じ歳の時には使えたんでしょう?」
少女が少し不機嫌そうに聞くと、「お師匠さま」と呼ばれたその青年は困ったように肩をすくめた。
「やらなきゃいけなかったんだ。不可抗力だよ。僕はアカデミーに入ったのが早かったからね。」
アカデミーとは、魔法使いの学校だ。魔法の力がある一定の基準を越えると入学が許され、身分に関係なく誰にでも広く門戸を開いている。そこでは魔法使いとしての心得と魔法の正しい使い方の修得を主な目的とし、一流の魔法使いが教授となって実技と座学の講義を行なう。実際に魔法を使う実技はもちろんだが、魔法に関する知識を学ぶ座学も卒業するための成績に関わる大事な勉強だ。そのため、学生にとって「速記魔法」は講義や研究で日常的に使えるとても便利な魔法なのである。
「わたし、才能ないのかなあ」
はぁ…と2回目のため息を吐いてテーブルにうつ伏せになる。少し癖のある柔らかい栗色の髪が風を含んでふわっと揺れた。
「慌てることないさ。メグのペースでゆっくり覚えればいい。…さて、ちょっと休憩しようか。」
お茶を入れてくるね、と青年が部屋を出ていく。メグはさっきみたいに人差し指でやればいいのに、といつも思うのだが、お師匠さまにもこだわりがあるらしい。本人曰く、「隠し味は魔法じゃ入れられないもの!」だそうだ。
自分以外誰もいない、やけにしんとした部屋でメグはうつ伏せのまま窓の方に顔を向けた。家の周りが森になっているせいで部屋の中は少し薄暗いが、木の葉を通り抜ける木漏れ日が心地よい。小鳥の囀りと風に葉が擦れる音も聞こえる。ここから空の様子はわからないけれど、きっといい天気だ。
お昼ごはんは外で食べたいな、でもお師匠さまなら自分からそう言い出しそうだな、などと考えているうちに、うとうとしてくる。練習といえど、さすがに長時間魔法を使うと疲れてくるのだ。
メグはキッチンから聴こえるお師匠さまの鼻歌と、ハーブティーのいい匂いに包まれながら、短い眠りについた。
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