第32話 帰って来た日常
パジャマに着替えて寝室に入ると、いつものように寝相よく眠っている樹の姿が目に入った。
(よかった、寝てる……)
起こさないようにそーっと隣のお布団に体を滑り込ませた瞬間、唐突に樹の目がぱちりと開いた。
「……」
寝ぼけているのかと思ったがそうではないらしい。
樹はゆっくりと体を横にして六華と向き合った。
六華も、彼にいつもと違うところがあるだろうかと、じっと見つめ返す。
黒い目は澄んでいて泣いた気配はもう見えない。けれど寂しがらせたのは事実だ。
「――ただいま」
こちらから声をかけると樹はむくっと上半身を起こし、そのままこちらの布団の中へともぐりこんできた。
(珍しい……)
だが素直に甘えてくる樹の態度は正直嬉しい。
ぜいたくかもしれないが、樹がいい子過ぎるのでもっとわがままになってほしいくらいだ。
「今日は遅くなってごめんね」
ゆっくりと胸元に抱き寄せ、樹の丸い後頭部を優しくなでる。
さらさらと指の間を零れ落ちていく黒髪は絹糸のようで、柔らかい。
(樹の髪って、久我大河と同じ手触りなんだ……)
以前も思ったが、樹は完全に父親似なのだ。
(この子も大きくなったら、眉間にしわとかできちゃうのかしら……)
久我大河の容姿は、惚れた弱みもあってどこからどう見てもパーフェクト美男子で非の打ちどころはないと思うのだが、ものすごく不機嫌そうな眉間のしわは、似ないほうがいいと思う六華である。
そうやって、『いいこいいこ』と頭を撫でていたら、樹がふいに六華の胸元に顔をうずめてきた。
「ん?」
それ自体は珍しいことではないのだが、なぜか違和感を覚える。
しばらくして、スンスン……と、かすかに樹の鼻息がふれた。
(匂いをかがれてる……)
シャワーはしっかりと浴びたので、汗も返り血も落ちているはずだ。
六華は慌てて樹の顔を見下ろす。
「樹、いやな匂いがする?」
すると彼はまじめな顔で、こくりとうなずいた。
全身からサーッと血の気が引いた。
「ごっ……ごっ、ごめんね、もう一回シャワーを浴びてくるからね!」
過去何度もあやかしを切ってきたが、こんなことは初めてだった。
急いでお布団から抜け出して浴室へ飛び込び、熱いシャワーを頭から浴びる。
(もしかして、
この仕事について半年、初めて鵺と呼ばれるあやかしに遭遇した。
あれはいつも六華が切っている『陰の気』とはまったく違う存在だった。
身の丈五メートルはあろうかという鵺を倒したのは大河だが、彼を抱きしめたせいであやかしの匂いがついたのだとしたら、うかつとしか言いようがない。
念入りに体を洗った後は、いつも使っているボディークリームをすりこむ。
そうして布団に戻ると、樹は安心したようにくっついてきて、今度は落ち着いた様子で目を閉じた。
どうやら自分から漂っていたらしい、嫌な臭いは消えたらしい。
(よかった……)
今度から気を付けようと思いつつ、
「おやすみ、樹」
小さな背中を、優しくぽんぽんと叩きながら六華も目を閉じる。
(今日はあわただしい一日だったな……)
まだ体の芯に熱がこもっている気がする。珊瑚をふるった日はそうなることが多い。きっと気分が高揚しているのだろう。
仕事とはいえ、やはりこれは普通のことではないのだ。
だが樹という守るべき存在が、六華を日常に戻してくれる。
(守られているのはきっと、私のほうだ……)
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